どことなく塞ぎ込んでしまったウルフを連れて、サイファは王宮を辞した。まだ話したいことがあるにはあったのだが、大臣連中が焦れて国王陛下を捜しにきてしまっては致し方ない。 「サイファ」 薄暗い塔の内部は、サイファが戻ると同時にほの明りが宿る。ウルフの赤毛が淡く翳るのを見るのが本当はサイファは好きだ。本人には決して言わないことではあったとしても。 「なんだ」 「ちょっとおなかすいたなぁって」 「まったく。どうしてそんなにいつも腹をすかせていられるのか、わからんな」 「育ち盛りなんだって」 「どこがだ?」 「どこって……、違うかな?」 「お前、私を舐めていないか?」 「なんでさ!」 唇を歪めて笑うサイファにウルフは改めて向き直り、じっと彼の目を覗き込む。口許より遥かに目は笑みを湛えていた。 「いい加減、育ち盛りと言うような年齢ではあるまい?」 「あ、ばれてた?」 「だから舐めている、と言うんだ!」 「んー。だって、サイファならわかんないかなってさ」 「半エルフとは言え、人間の間では長く暮している。その程度の見当はつく」 鼻で笑って言い放ち、それでもサイファは茶を淹れてやる。ウルフが居間のテーブルの前、両手で頬杖をついてはサイファの背中を見ていた。 「ウルフ」 背を向けたままサイファが彼を呼んだ。ウルフはその声にほんの少しの緊張を見て取る。 「なに?」 答えたものの、サイファは湯が沸くのを黙って見ている。やかんがしゅんしゅんと音を立て、ようやくサイファはポットに湯を注ぎ入れては菓子を切りはじめた。 彼の背中越し、ウルフは手許を窺い見る。そして思わず微笑んだ。サイファが切っているのはウルフの大好きな菓子だった。それからわずかに唇を尖らせる。どうやらあまり面白い話ではなさそうだ、と。 「言いたいことがあるなら……言えよ」 ぽつりとサイファが言ったのは、もうやることがなくなってしまったせい。あとはウルフの方を向いて彼の前に菓子と茶を置くだけ。だから、背を向けていられる最後にサイファは言う。 「んー」 「はぐらかすなよ」 「さっきの俺みたいじゃんか」 「悪いか?」 きっと向き直ったサイファ。それでも仕種だけは変わらず、叩きつけることもなく皿を置く。 「大丈夫」 「なにがだ」 「ちょっと、ね」 「それを聞きたい、と言っている」 「じゃ、さ。ちょっとこっち来て」 正面に座ったサイファをウルフは隣へと手招いた。嫌そうな顔をしつつ、それでもサイファはウルフの隣に腰掛ける。顔だけは、あらぬ方を見ていた。 「少しね、寂しかっただけ。もう平気だから。ごめん」 どこかを向いたままのサイファをウルフは背後から抱きしめる。柔らかい黒髪に頬を押しつければサイファの匂いがした。 「なぜだ」 「どうして寂しかったのか?」 「そうだ」 ウルフは言葉に詰まる。サイファが気づいていないはずはない。けれど彼はなぜか言葉にしろといつも言う。 ウルフは笑いたくなってしまう。自分では言葉にしろと言うくせに、なんとサイファの言葉の少ないことか。ウルフが望む言葉は、いつも言ってはもらえない。 「アレクがさ、ちょっと羨ましかったの」 「まだ言うか」 「違うって。そうじゃない」 振り向いて唇を引き締めた彼にウルフは軽くくちづける。強張ってしまった唇をほどこうとするように。 「あんた、アレクのためだからあの指輪作ったんだよね。どっちかって言ったらシリルのためじゃない」 意外と聡いことを言う。サイファは内心で恥じる。ウルフが言っているのは真実だ。だが、ウルフが嫉妬するようなものでもない、そのくらいは彼にもわかっていて、そしてその上でなにを言いたいと言うのだろうか。 「あんたがアレクに作ってあげたってこと自体がちょっと羨ましかったの」 「欲しかったら……」 「違うって」 「要らないのか?」 あえて挑発的に問うてみた。ウルフはへらへらと間抜け顔で笑うだけ。視線に気づいたのだろう、わずかばかり目を細めてはサイファの額にくちづける。 「あんたは物よりいいもんくれたでしょ。だから要らない」 「……覚えがないが?」 心底、不思議そうに言ったサイファにウルフは吹き出す。険悪な目が飛んでくるより先に頬にくちづければ、誤魔化されるものか、そんな呟きめいたものが聞こえた。 「そういうとこ、可愛いよ。サイファ」 「うるさい」 「黙ってもいいの?」 いつもの言葉を逆手にとってウルフは笑う。サイファは一度唇を引き締め、それから仕方ないとばかり目許が和らぐ。 「あんたはね、俺にあんたをくれたでしょ。だから、他にはなにも要らないの」 和らいだ目許が、一瞬にして緊張する。そしてそのまま朱に染まる。伏せることも忘れてサイファはウルフを見ていた。 「なんと言う……恥ずかしいことを……!」 抗議はウルフの笑い声に飲まれた。殴りかかろうとした腕はとっくに彼の腕に封じられている。 いつもウルフに対して易々と手を上げられる理由。それはひとえに彼がサイファの暴力を甘んじて受けているからに過ぎない。 ウルフは戦士だ。その気になればサイファの拳をかわすことも蹴りをよけることも容易い。それをしないのはウルフのある意味では歪んだ愛情だ。もっとも、サイファの愛情の表現形式が間違っているのだから、ウルフ一人を責めるのは酷と言うもの。 「んー、ちょっと芝居がかってたかな? でも、ほんとにそう思ってるからさ」 穏やかな目をするようになった。サイファは見上げた彼の目を思う。ふと気づけばすでに青年。頼り甲斐が出てきたとも思う。サイファは抗わず、ウルフの腕に包まれる。 「まぁ、くれるって言うなら物も拒まないけどね」 「どうしてそこで格好をつけられないんだ、お前は」 「でもそんな俺が好きでしょ、サイファ」 「うるさい」 「はいはい」 それが合図であったよう、サイファの頬にウルフは指先を滑らせる。嫌がる素振りだけはするサイファにウルフは心の中で笑い、そっとくちづけた。ただ、触れるだけ。こんな時間にこんな場所でこれ以上のことをすればきっとサイファは怒るから。そう思った途端、ウルフはいたずらをしてしまいたくなる。きつく結んだ唇を舌でなぞれば思い切り背中を殴られた。 「なにをするか」 地を這うような声音にウルフは案の定とばかり笑う。そっぽを向いたサイファをウルフは抱きしめ離さない。 「サイファ」 「なんだ」 「あんまり無茶しないで」 「前から言っている。無茶は……」 「してないってのはわかってるんだけど。でもね、国王に喧嘩売る気なら一言俺に言ってからにして」 どうせ止めても聞かないんだから、ウルフは溜息まじりに付け加えサイファを唖然とさせた。 「お前の言うことは、私としては聞いているつもりだが」 「でも譲れなかったんでしょ」 「あたりまえだ」 「どうして?」 「わからないか? ミルテシア国王は、お前を殺そうとした。許すものか。嫌がらせくらいは受けていただこう」 「凄い嫌がらせだなぁ」 「当たり前だ、と言っている」 「そのために半エルフたちを巻き込んだの?」 「それは違うな。偶然だ。ミルテシアに嫌がらせをするならばこういう手もあるか、と思っただけだ。そもそも彼らに危険はない」 「もしかしてさ、あんたずっとどうやったら嫌がらせになるか考えてたの?」 「悪いか?」 満面に浮かんだ笑みが今度はウルフを呆然とさせる。 「あんた、二国間の紛争の火種を煽ったんだよ、わかってるの」 「わかっている」 「サイファ」 「二度は言わない。私は二つの王国がどうなろうと、人間がどう生きようと知ったことではない。お前を殺そうとした者を許さない、それだけだ」 毅然として言うサイファにウルフは言葉もない。じんわりと、胸が温かい。決して褒められるべきことではない。人間の紛争が大きくなれば、半エルフたちにとっても住み難さはより増すだろう。それでもサイファは報復を選んだ。ウルフはただ黙って彼を抱きしめる。 「強くなりたい」 呟きは、知らず口から出てしまったもの。ウルフがはっと顔を上げればサイファが目の前で微笑んでいた。 「なぜだ、若造?」 わずかに照れたサイファの口調にウルフは意を強くして息を抜く。 「あんたに頼られたいよ、俺は」 「そうしていないと思うのか?」 「思うよ」 まだわかっていない。サイファはかすかな不満を彼に覚え、まだ若いと内心に呟く。 「アレクのほうが頼れるから、あんたはアレクを使った」 「立場の差だな」 「それだけかな?」 「違うと思うか?」 「だってさ……」 「お前はまだ若いな」 上げた抗議の声は、珍しくもサイファの唇に塞がれた。うっとりとウルフはくちづけに酔う。 「アレクと私は友人だ。互いに利用しあっていることを知っている実に微笑ましい仲だ」 「どこが微笑ましいの、それって」 「うるさい。私はお前を利用しているか? お前は?」 「あ……」 立場の差。それは一介の戦士と国王などと言うものではなく。サイファが言ったのはアレクとウルフの差。サイファにとって占める位置の差。 「まだまだだな、俺」 「そう急いだものでもない」 「でもさ」 「お前とアレクは幾つ違う?」 「ん。五歳……六歳違うのかな」 「人間にとっては大きな差だな。特に若いお前たちには」 「だから頑張って……」 「そのままでいい。何度も言っている気がするのは気のせいか?」 「あんたに頼られ――」 「頼っている。これでも」 被せるよう言われた声にウルフは言葉を失い。そしてじっとサイファの青い目を覗く。嘘はない。けれどそう言ってくれるサイファのために、もっと強くなりたいと思うウルフの気持ちにも嘘はなかった。 「明日は薬草採りに行ってもらいたいな」 「またお使い?」 「頼っているところを見せようかと思ったのだが?」 「それはないじゃんか!」 ウルフの笑い声とも抗議ともつかないものが部屋に響く。サイファはうるさそうに、それでも顔を顰めるでもなく彼の胸にと顔を埋め。ウルフの手が知らず降りてきては髪をかきあげるのを見ては、その先を心待ちにしていた。 |