くちづけて、彼の青い目を覗き込む。空の青、海の青のどちらにも似て、そしてそのどちらよりも澄んで尊く美しいサイファの目。嬉しげに、見つめ返してくれる眼差しを、想像もできなかった。
「リィ?」
 否。想像は、したことがある。何度となく。それ以上のことすら、想像の中では行った。ふとサイファが笑う。
「あなたは人間だからね、私のリィ。そうでなかったらきっと驚くよ」
「おい!」
「忘れたの。私が愛したのは人間なんだよ、リィ」
 伝わってしまった具体的な想像。空想の中、自分がどんな目にあわされていたのか知ってすらサイファは微笑む。
「私だってね、ここに――」
 首に絡めていた腕を解いては自らの胸へと当てたサイファ。何度もリィが触れるところを思った、そう告げるサイファ。ウルフには、決して言わないのだろう言葉にリィは何を言えばいいのかわからない。
「別に、申し訳なく思うことはないと思う」
「あのな、サイファ――」
「ウルフは、知ってる。私が話したわけじゃないけどね。あれは……ほんと、こういうことだけは、勘がいいから。その上で、ウルフは」
 サイファを許すのだと彼は笑った。嫉妬をしていないとはリィには思えない。サイファもまたうなずく。それでも、その上で。
「お前に惚れてるからだな」
「ウルフだけ?」
「いいや?」
 小さく笑ってくちづければ、サイファが身じろぐ。圧し掛かり続けているのでは重たいのかもしれない。ふと見やったサイファの唇が、かすかに震えていた。
「あぁ……」
 ようやくリィは気づいた。サイファは易々とこちらの心を感じ取るのに、と思えば少なからず寂しくはある。種族の差が二人の間に立ちはだかる。サイファの心に容易には触れられないリィ。迂闊に触れれば、容易く弾かれてしまう神人の子の強靭な精神。
 だからこそ、気づかなかった。気づけなかった。サイファであったのに。ウルフを愛しく思うようになったとしても、サイファはあの彼。リィが愛した無垢な神人の子。
「可愛い俺のサイファ」
 たとえ十数年をウルフとすごそうとも、手慣れているはずなどない。こうして横たわっているだけで、緊張するサイファにリィは微笑む。そっと額にくちづけて、彼の目を覗き込む。
「前みたいに、このままでいようか、可愛いサイファ。俺は――」
「あのね、リィ。気遣ってくれるのは、とても嬉しい。でもね、何度も誘わせるほうがずっとひどいと思うよ?」
 笑ったのに、目許が痙攣している。それを厭うようサイファは首を振った。嫌がってなどいない。心待ちにしている。それでもなお。
「だったら、お前が嫌だって言っても――」
「あなたが何かをして、私が嫌だって言ったこと、あったの、リィ」
「あるだろ」
 なに、と首をかしげては剣呑な目。リィは笑ってはぐらかす。それを追いかけてきてはサイファは頬に手を当て、引き寄せる。わざとらしく音を立てたくちづけ。ほんのりとリィが笑った。
「昔、俺が一人で出かけようとすると決まってお前、嫌だって言ったじゃねぇか」
「あ……」
「な? あるだろ、可愛い俺のサイファ。だからな、嫌なことは嫌だって言え。でも、いまは聞く耳持たねぇぞ。催促したのは、お前だからな」
 サイファの返答をリィは聞かなかった。聞かなくとも、聞こえた。心に。体中に。縋りつき、まとわりついてくるサイファの体と心。いずれも離さない、リィは誓う。
 はだけた襟元に唇を寄せれば身じろぐサイファ。まるでその身を差し出そうとでも言うように。それなのに、逃れたそうに。リィは口許に笑みを刻んでは胸のあたりに舌を這わせる。
「……あ」
 上がってしまった声にサイファが唇を噛んだ。たしなめるよう触れれば、きつく噛みしめたまま首を振る。
「お前は知らないだろうがな、可愛いサイファ。俺は実は性格が悪くてな」
「……知らないはずが、ないでしょ」
「そうか? だったら遠慮なくいかせてもらうがな」
 にやりと笑ってサイファと目を合わせれば、嫌がってそむけた。その肌をするりと撫でれば、上がりそうになる声をサイファはこらえる。
「可愛い俺のサイファ。――あの若造に聞かせてる声を聞かせろよ」
 耳元に、囁いた。途端に跳ね上がる体。羞恥に、それ以上に。白い肌がさっと染まってはリィの目を楽しませる。
「――ウルフには!」
「ほほう。若造には聞かせない、と? それはそれでどうかと思うけどなぁ。まぁ、いいか。だったらな、俺にだけ、聞かせるか、うん?」
 肌に触れている手指がはっきりとした愛撫に変わる。サイファは顔をそむけては敷布に押しつける。よじった体にリィがどんな目を向けるか知りもせず。
 無論、リィは無防備になった脇腹を放置するほどうぶではなかった。舌先で舐め上げれば、悲鳴じみた声がついに上がる。逃げ出そうとするサイファを押さえつけ、リィは許さない。何度となく繰り返し、くたりとなるまで。
「サイファ」
 呼吸の荒くなった神人の子など、滅多に見られるものではない。リィは微笑んでサイファの瞼にくちづける。ほっと息をついた瞬間を狙っては、サイファ自身に手を触れた。
 鋭く息を吸う音。眼前で見つめるリィのその眼差しからだけでもせめて、逃れたい。サイファの嘆願が聞こえたけれどリィは無視した。
「……リィ、嫌!」
「うん、何が、だ?」
「……ずるい、リィ。酷い」
 いたぶっていることを責められる、と思っていたリィはきょとんとし、ついで笑いだす。あまりにも大らかな笑いにサイファが拗ねかねないほどに。それからリィはまだ着ていたものを脱ぎ捨てた。
「これでいいか?」
 一糸まとわぬ体が、触れ合う。リィのほうこそ、それだけで危ないことになりそうだというのに。サイファは。なぜだろう、そんなにも安堵した顔をするのは。
「はじめて、リィに触った」
 わずかに震えた声。ぎゅっと縋りついてくる腕。何事かと見やればサイファの青い目に薄く張った細波。慌てて目尻にくちづければ、くすぐったそうにサイファは笑った。
「泣くなよ、サイファ。驚くだろうが」
「泣いてないもの」
「嘘つけ」
 ちゅと音を立てれば、くちづけだけではない音。黙ってサイファはリィの首に腕をまわす。
 これほどまでに、求められている。こんなにも、愛されている。体中に染みわたる。自分という存在の隅々にまで、相手の思いが行きわたる。
 それは、どちらの考えたことだったのか。サイファだったのかもしれないしリィだったのかもしれない。肌に触れ、心に触れ、この瞬間、二人は不可分だった。

 とろとろと、サイファがまだ眠っていた。腕の中、肌をさらした神人の子が眠っている。昔と同じ姿勢なのに、違う。リィはそっと笑っては身じろぐ。
「リィ、起きたの」
「なんだ。寝てたんじゃないのか。可愛い俺のサイファ」
「寝てたよ? あなたが起きたから、私も起きた。それだけ」
 なんでもないことのように言うサイファにリィはうっとりと笑う。まだどこかで繋がっているのだろう、自分たちは。サイファの言った、魂を分けあった伴侶と言うのはそう言うものなのかもしれないし、単に接触が解けていないだけかもしれない。
「おはよう、リィ」
 気恥ずかしげに伸び上がり、サイファがリィの頬へとくちづける。それからはっきりと顔を顰めた。
「どうした?」
「あのね、リィ。次は絶対にそれ、綺麗にしておいてよ。肌に当たるとすごく痛いの、わかってるの、あなたは」
 悪戯のよう笑い、けれど頬を染めてサイファはリィの無精ひげを摘まんでは引っ張った。驚いたリィは痛がる暇もない。
「リィ?」
 首をかしげて覗き込んでくるサイファ。答える余裕を失ったリィに焦れたのだろう。リィは接触してこようとするサイファの精神の指先を感知する。それを丁重にお断りすれば拗ねたようサイファはリィの胸元へと顔を埋めた。
「……次があるのか、と思ったんだ。それだけだよ、可愛いサイファ」
 言った途端だった。すさまじい勢いでサイファが顔を上げたのは。彼の頭を抱え、そのぽってりと重たい髪を撫でていたリィは危うく顎を直撃されそうになる。
「おい!」
「どう言うことなの、リィ! 次があるのかって、どう言う意味なの!」
「いや、それは、な……。その」
 どんな弁明をしてもサイファは聞かないだろうとリィは感じた。けれど懸念があるのは当然というもの。愛する彼が不快になるのは断固として避けたい。
「リィ、話してくれないんだったら強引に接触する。いいの、しても」
「いいけどな? いや、待て、サイファ。話すから待てって!」
 冗談で言ったことを真に受けてここぞとばかりに入り込んでこようとするサイファをリィはなんとか押し戻した。それに不満そうな顔はするけれど、一瞬前に見せた怒りは引いたようだった。
「若造がいるだろう、お前には。別れないって、言っただろう?」
「だから? 私はこれも聞いたよ、リィ。それでもあなたはいいのかって、ちゃんと聞いたよ。あなたはいいって言った。その上で次がないと、どうしてあなたは思うの」
「だから、そう怒るな。――お前が若造に気兼ねするようなことにはなって欲しくねぇんだって言ってるんだ」
「気兼ね、ね。しないよ。ウルフは私がどれほど我が儘で傲慢なのか、知ってる。欲張りで、自分勝手なのか知ってる」
 鼻を鳴らしてサイファは言った。ならばウルフはどうなのだろうと思う。それほど詳細に話し合って決めたことなのだろうか。リィは疑う。違うだろうと。ほぼウルフの独断で、サイファをここに寄越したはずだ。なぜか、それだけは察した。ならばウルフはすべて受け入れている。そして。
「サイファが幸せなら、それでいい。――か」
 中々あの若造も歪んでいるな、思ったリィだったけれど自分も間違いなく歪んでいる。サイファを自分一人のものにしようなど、考えもしていなかった。




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