小さく微笑んだサイファが、そっと自らの唇に指を触れさせた。今更ながら照れたらしい。見ているリィのほうが恥ずかしくなってきた。 「ねぇ、リィ。そう言うことって、どう言うことなの」 何かを納得したらしいリィ。それが納得いかない、とサイファは口許を引き締める。それでも微笑んでしまいそうだったけれど。 「まぁ、若造がなに考えてんのかは、わかったな、と」 「そうなの? 私、全然わからないんだけど。あれ、どう言うつもりなの」 「それを俺に聞くか?」 笑いながらリィは言い、サイファの青い目を覗き込む。照れるでもなく真っ直ぐとリィを見ていた。 「お前、寂しかったんだろ」 リィの言葉にサイファの目が驚愕に丸くなる。そしてそらされた。リィは黙ってサイファを抱き寄せる。背後から抱きすくめ、体を預けてくるまでじっとしていた。 「……リィ」 「なんでわかるか? 舐めるな、俺を誰だと思ってる」 「でも」 「聞きたくないだろうがな、サイファ。俺が死んで、お前はあの若造と会った」 「時間が経ちすぎてるよ」 「関係ないだろ、ましてお前だ」 神人の子なのだから、サイファは。千年前に死んだリィであっても、昨日のことと同じこと。サイファがうなずくでもなく唇を噛んだ気配がした。 「それでもお前は、たぶん……たぶんだけどな。ずっと」 「リィが好きだったよ。ずっと。ずっと。どうして気がつかなかったんだろうって、何度自分を責めたと思ってるの、あなた」 「馬鹿だな」 愚かなのは誰だろう。誰も悪くない、そう思いたい。以前ならば自分が悪い、リィはそう言っただろう自分を自覚している。けれどいまは。 「でももう、そのときには」 「若造がいた。まぁ、若造がいたから、気がついたってところなんだよな?」 「そんな……感じ」 少しばかり言いよどみ、サイファはリィを振り返る。その目に他言無用をリィは読み取り、無言のままうなずいた。 「……その、夜に。ウルフが私の心に触れたような気がして。勘違いだったの。それは、わかってたの。でも……私はその感触を知っていた」 「よく覚えてたな」 一度だけ。子供だったサイファに、愛の意味もわからないサイファに触れてしまった自分。それこそどれほど自分を責めたかリィはわからない。 「だから、わかった。どんなに愛されてたか、どんなに愛してたか。本当に……言ってほしかったよ、リィ。あのときに」 だからだろう、とリィは思う。そう思ってしまったサイファ。この世界に来て、リィと再会してしまったサイファ。あちらにいたままならば、ぼんやりとした空虚だけで済んでいたものが、実体となって出現した。 「だからだな」 「どう言うこと?」 「あの若造は、認めるのは癪だがな。いいやつだよ。お前の中に、俺がいるのをちゃんと知ってる」 「ウルフは言ってたよ。お師匠様でしか埋められない場所がある。だから口説かれて、埋められてきなよって」 「ったく」 子孫の小僧を締め上げないと気が済まない。八つ当たりというよりは、敬服として。それに気づいたのだろうサイファが小さく笑った。 「でもね、リィ。いいの、それで」 「なにがだ?」 きょとんとしたリィの声にサイファは腕を解かせ振り返る。じっと見つめてくるのは、リィの目の中に嘘を読み取ろうとするかのよう。 「私、ウルフと別れる気はないよ」 きっぱりと言い、それなのにサイファの眼差しにこそ苦痛が滲む。これを言ってしまっては、またリィを失うかもしれないと。それでもウルフを失くしたくはないのだと。完敗だな、と思いつつ、それでもウルフとはいずれ対等になれる、そんな気がしなくもない。 「若造だってお前の手を離す気はねぇだろ」 「それは……そうなんだけど。でも、リィは」 「前にあいつと話したよ。俺たちはな、二人ともお前にどっちかを選ばせる気はない」 「でも、それは」 「俺がお師匠様じゃなくっても、だな。だいたいあの若造は俺を師匠だなんてこれっぽっちも思ってないだろ。若造にとって俺は、お前を攫いそうな一人の男ってだけだ」 「攫われないよ、私」 「攫って逃げたいなぁ、お師匠様。あの若造の手が届かないところに行きたいなぁ」 リィの言葉にぷ、とサイファが吹き出した。明るくなったそれにリィはほっと息をつく。こうして大人になったサイファというものを実感していくのだな、と思いつつ。 「嘘、リィ。私をウルフから引き離そうだなんて、思ってもいないくせに」 「そのとおり。わかっただろ。だから、俺はそれで充分だ。お前がいる。それで何より幸福だ」 「いるだけでいいの?」 「言うようになったもんだな。おいで、可愛い俺のサイファ」 立ち上がり、リィはひょいとサイファの手を引く。それに立たされてしまったサイファがまじまじとリィを見ていた。何もわかっていないらしい。少しだけ、若造に同情、と内心で呟いたリィにサイファが眉を顰める。 「お前ね、接触するんならわかるようにやれよ」 「わざとじゃないの。あのね、リィ。私とあなたの仲でしょう?」 「そりゃ。仲良しこの上ないけどな。だから?」 立ったまま話すのも無粋。かといって、この話題が終わるまでサイファは何を言っても聞く耳持たないだろう。だからリィは彼を抱きしめる。腕の中に囲い込む。昔していたよう、サイファは嬉しげにその中にすっぽりと収まった。 「そうじゃなくてね、リィ。わからないの、あなた」 「お前が何を言いたいかが、わからんな。すまん」 「いいけど」 拗ねたような声音にリィは笑いを噛み殺す。それを胸の鼓動に聞いたのだろうサイファが本格的に拗ねた。それでもそっと笑っている。不意に、たまらなく怖くなった。あまりにも、幸福すぎて。 「リィ、私はここにいるよ? いなくなっちゃったのは、あなたであって私じゃないでしょ」 「お前なぁ。だから!」 「だからね、リィ――」 呟くような小声でサイファは言う。聞き取れたのは幸いだ、とリィは思った。神人の言葉でわざわざ言ったサイファに訝しい思いは隠せなかったけれど。その上意味までわからないと来た。 「意味、わからなかった?」 「聞いたことないな。初めまして、だ」 「それはそうだと思うよ? 私たち、絶対にこれだけは口にしないもの。それこそ、人間風に言うなら死んでも嫌」 「それを言わせた俺は極悪人だな」 詫びるよう髪を撫でれば違うと首を振る。リィへの慰めではなく、事実を語っているサイファとわからないはずもなかった。 「当人同士なら、いいの。むしろ、当人同士でしか、口にしない言葉なの」 だから当事者でなかったリィが知るはずもない言葉だ、とサイファは言う。そう言うことか、と納得はしたものの、やはりまだわからないことだらけだった。 「人間の言葉は精密さに欠けるから、翻訳なんてとてもできないんだけど。ものすごく簡単に言ったら、伴侶とでもすればいいのかな」 「照れるような……言葉だよな、お前たちにしてみりゃ」 「それはあるんだけどね。ただの連れ合いって言う意味じゃないの、リィ。そろそろわかるんじゃない?」 静かにサイファはリィの胸に手を置いた。そこに何があるのか、確かめようとするように、リィに知らせるように。リィがわずかに息を飲む。 「そう。ここに――私がいる。私の、本当に小さな一部ではあるけれど、いるでしょう、リィ? あなたは私の魂と言っていいのかどうかわからないけれど、その一部を持っている。さっきのは、そう言う意味」 そんなとんでもない意味だとはついぞ知らなかったリィの目が丸くなってはサイファを見ていた。ほんのりと微笑む神人の子。互いに相手の種族として生まれたかった、と何度思ったことだろう。そうなっているじゃないか。不意に思った。 「もちろん、私の中にもあなたがいる」 リィの胸に置いていた手をサイファは自らの胸へと当てた。慈しむように、愛おしむように。その眼差しにすら嫉妬したくなるほど、美しかった。 「若造は?」 サイファが示した姿の、仕種の、その甘美。いまだけは独り占めしたくて、だからこそそんな風に茶化してしまう。そしてサイファもまた、それを感じ取っていた。 そしてサイファが言いたかったことがようやく飲み込めた。互いに魂すら分け合った半身。だからこそ、接触などしなくとも通じてしまう言葉があると。 「リィはどう思うの?」 「まぁなぁ。普通は半身、なんて風に言うよな?」 「言うね」 「だったら俺とお前は三分の一身、か? 残りの三分の一は、若造が持っている」 「なんだか計算が合わないような気がするけどね。あなたとウルフはそういう仲でもないわけだし」 「頼むから可愛い俺のサイファ。そう言う気色悪いことを言ってくれるな。――いや、その方がお前はいいのか?」 真剣なリィの問いに冗談を読み取ったのはサイファならではだった。彼は時々こう言うことをしたから。懐かしさにサイファは目を細める。 「ウルフも同じこと言ってたよ、俺お師匠様と仲良くした方がいい?なんて。さすがは血筋、なのかな。よくわからないけど」 「いやな血筋もあったもんだわな」 「祖先が言うようじゃどうにもならないね」 くすくすと笑いサイファが見上げてくる。元に戻ったな、リィはなぜかそんな風に感じた。子供であったサイファ、大人であった自分。当時と今とでは違うことのほうが多い。それでも。 「私たちの間にあったものは戻った、そんな気がしない?」 満足そうなサイファの言葉にうなずくリィはもう、ウルフへの申し訳なさを感じてもいなかった。競い合うことはあるだろう。けれどそれも隔意からすることではもうない。 「あの若造が、お前が幸せならあとは全部どうでもいいって言ってたの、こういう意味だったわけだな」 リィの呟きめいた声にサイファはうっとりと微笑むだけだった。 |