吹き抜ける風にふと血の匂いが混じった気がした。青年はきゅっと唇を引き結んで辺りを見回す。ありふれたミルテシアの草原だった。
 シャルマークの大穴が塞がってから二百有余年。当時を知る半エルフたちはずいぶんと平和になったものだと言うけれど、それでもいまだ魔族の横行は収まらない。
 草原もそうだった。かつてこの国は「甘い森のミルテシア」と謳われたという。青年は知らない。彼が知るミルテシアは草原の国で、しかも苦い草ばかりが生える国だった。
 いまもまだ、苦い草は生え続けている。昔よりはずっと良くなったと人は言う。それでもここは甘い森などでは決してなかった。
「あ……」
 遠く、白い小山があった。どこの草原にもある堆積物だろう、と思っていた青年は驚く。小山はかすかに蠢いていた。
 生来の好奇心の強さに導かれるよう、青年はそちらを目指していく。次第に驚きが強くなっていく。ありえないものがそこにいた。
 小山は白くなどなかった。否、元は白かったのだろう。いまは血に塗れて汚らしい。乾いた血のどす黒い色が草にまで散っている。
 小山が咆哮した。違う。猛ったのではない。痛みに苦しんだのかもしれない。委細かまわず青年は片手を掲げる。ぽつん、と指先に光が灯った。
「待って!」
 指先の氷を放つ寸前、青年は動作を止めた。彼の夜より黒い目が丸く見開かれている。いまの声は、と声にならない疑問を柔らかい唇が形作る。
「殺さないで! 君は――」
 今は明らかだった。青年は声の主を探り当てている。それは小山ほどるある白い竜が放ったものだった。
「魔術師だよね?」
 竜の目が青年を捉える。一瞬、動けなくなりかけた。青年は深く息を吸い、勢いよく吐き出す。それからもう一度手を掲げる。
「待ってってば!」
 いやに慌てた竜の声。どこかおかしみを誘った。青年はいま、信じがたいものを目にしているのだとようやく気づく。
 人語を解する竜などとは。この目で見なければとても信じなどしなかったことだろう。竜はいる。確かにこの世界に存在している。青年も一度ならず目にしていたし、一度は間近に召喚しさえした。
 だからよけい、信じられない。竜は魔族ではないかもしれない。だが人間と親しく接してきた生き物ではなかったし、そもそも個体数が極端に少ない。彼はふと脳裏に浮かんだ師の姿に苦笑する。もしも師がこの場にいたならば、あの竜の牙をそれは物欲しげに見つめるだろうことを思って。
「攻撃、しないでくれるよね?」
 どこか甘えた竜の物言いが癇に障る。これ見よがしに手を上げれば巨大な竜が首をすくめた。咄嗟に頭を庇ったつもりだろう、前脚から背中へと続く翼が広がる。
 その翼には酷い裂け目ができていた。一目でただの怪我ではないことがわかる。魔族に襲われたならばいまこの竜は生きてはいない。だからそれは青年の目には確かなことだった。
「あなた、なにやったの」
 いまだ少年の響きをわずかに残した若い声。青年の問いが風に流れて竜まで届く。ほっと息をついたよう、竜は体を戻した。
「追われた」
「見ればわかるけど」
「だったら聞くなよ」
 竜の拗ねた声音など、聞いたこともない。そもそも竜は喋らないものだというのを忘れて青年は苦笑いをした。
「だから。どうして追われたの。あなた、悪いの」
「悪くない!」
「普通、自分で悪いって言わないよね」
「だったら――」
 聞くな、と言いかけてやめてしまったのだろう。大きな溜息を竜が吐く。ごう、と草がなびいた。青年は鋭い目でそれを見る。
「あなた、人間?」
 竜が息を呑む。青年の目は捉えていた。その竜の白い巨体を。ならば吐く息は氷の吹雪。見る間に草が凍えて茶色く末枯れても驚かない。しかし草はなびいただけだった。自分の意思で制御しているのかもしれない、と思う。
「わかるのか!」
 おそらく喜んだのだろう、大きく伸び上がった拍子にいまだ固まっていなかった傷口から血が流れる。人間だったならば顰め面だろう、それとよく似た顔を竜はした。
「人間なんだ! だから、殺さないで!」
「それは別の問題。あなた、なにしたの。なんでそんな格好してるの」
「別のって……」
 虚脱した竜がくたくたと体を草原に横たえる。憐れだとは青年は思わない。これが何かの策略でないとは誰も言っていないし、自分も確認していない。
「それで?」
 冷たい目をして問うた青年に竜はじろりと目を向けた。青年は瞬く。光の悪戯か目の惑いだと思った。だが。
「目」
 ただ一言。それで竜は嫌な顔をした。竜の表情などよくわからなかったけれど、きっとあれは嫌な顔だと青年は思う。
「――悪いことは、しないよ。私」
 呟くよう言う竜の目を青年は覗き込む。大きな竜の顔を一目で見ることはできなかった。ゆっくりと歩いて確かめる。確かに竜の目は左右で色が異なっていた。右の淡い色合いの青に比べ、左ははっきりと金と言っていいほど濃い色をしている。
「生まれつき?」
 淡々とした青年の問いに驚いたのだろう、竜が体を起こしかけた。
「邪魔。動かないで」
 さも嫌そうに言って青年は飛び退く。これほどの巨体が不用意に動けば自分など簡単に潰されてしまうとばかりに。
「ごめん」
「別に。それで?」
「なにが?」
「頭、とろいの。なんでそんな格好してるのって、聞いたと思うけど?」
「酷い……」
 草原に顔を埋めるようにして竜は呟く。あからさまに同情を誘う仕種だったから、青年はかまいもしなかった。程なく竜も諦めたのだろう、深い溜息をついて顔を上げた。
「嫌じゃないの、君は」
「なにが」
「目がさ。よく邪眼だって言われてたんだ」
「ふうん」
 うなずいただけ。それでも竜には彼が自分を厭ってはいないことがわかった。小首をかしげる小さな人間は、本当はそれほど小さくはないのだろう、とも思う。それだけ自分が大きくなってしまっているだけのこと。
 たぶん、彼は青年なのだ。今は子供のように見えるけれど。黒っぽい、汚れの目立たない簡素な衣類をまとってはいるけれど、魔術師なのはなぜかわかる。それは竜になっているからではなく、彼が元々持ち合わせていた鑑定眼だった。
 黙りこくったままの竜を待ちくたびれたよう、彼は首を振って髪を払う。柔らかそうな黒味の強い茶の髪だった。どこにでもいる人間の青年に見えた。だが竜はすでに彼が魔術師だと知っている。
「……呪われたんだ」
「手、見せて。……前脚、か」
「前脚って言うなよ! 手だよ、手!」
「うるさいな。見せるの、見せないの」
 素っ気ない青年の物言いにもう一言くらい文句をつけようとした竜は、それでも渋々と前脚を出す。
「ふうん、ほんとだ」
「わかるんだ! て言うか、疑ってたな!」
「どうして僕があなたを信じなきゃいけないの。根拠は?」
「口の減らないガキだな!」
「優しく聞いてあげてるつもりだけど?」
 それは青年の本心ではなかった。行きずりの他人と親しくしなければならない義理も義務もない。
「信じらんないな……。もっと人を信じるってことを学べよ」
「簡単に信じたからそんなことになってるんじゃないの、あなた」
 それには竜も一言もなかった。まったくもってそのとおり。返す言葉がないとはこのことだった。言った青年はしたり顔でもしているかと思えばさすがに竜も悔しい。だが彼はどこか淡い顔をして遠くを眺めているだけだった。
「ねぇ、君。名前は」
 だから問いかけてしまったのかもしれない。竜はそっと息をつく。しかしそれは自分で意図したよりずっと大きなものだった。かすかに青年が笑った気がした。
「――シェイティ」
 不思議な響きの名に竜は首をかしげる。そして魔術師の名とはそのようなものだと思いなおす。通り名ならば、自分も同じことだった。
「私はタイラント。人間で、吟遊詩人だ」
 誇らしげに竜、タイラントは言い首をそらす。そして見る間にうなだれた。竜の前脚では楽器を奏でることはできないだろう。歌うことはできる。それでも聞くものはいないだろう。そしてタイラントはぽつりぽつりと語りだした。
「浮かれ騒ぎが好きな吟遊詩人だってのは、間違ってないさ。私もそうだった。それが、よくなかったのかな……」
 頭をもたげて遠くを見る。はっきりとどことは定めないシェイティの視線とは違い、彼の目は何かを捉えているようだった。幻のそれであったとしても。
「私はミルテシアの王宮にも伺候する吟遊詩人だった。王家の方々もみな、私が来るのを楽しみにしてくれていたよ、ほんとにね」
 いつとも知れず、タイラントはミルテシアの姫に恋をしたのだ、と語った。姫は末の王子の末の姫。王家の姫とは名ばかりの位の低さが二人を近づけたと言ってもよかったのかもしれない。
「気づくべきだったよ、そんな私をよくは思わないやつがいるってことくらいね」
 聞いているのだか知れないシェイティに目を戻せば、意外にも彼はちゃんと聞いていた。うなずきこそしなかったけれど、視線はひたとタイラントに向けられている。
「姫に……横恋慕って言うのかなぁ。魔術師がいたんだ。私に呪いをかけてこんな姿にして、姫はさらわれたんだ、その、女魔術師に」
 声に苦々しさが混じる。不甲斐ない自分へだろうか、それとも恋敵が女であることにだろうか。いずれとも決めずシェイティは彼を見ていた。
「王宮では、あっさりと私のせいにされたよ。姫をさらった邪悪な竜こそが私の本来の姿だってね。邪眼のせいだね、これも」
「それまでどうしてたの、目」
「うん……隠してたよ。布で片目を隠すんだ、眼帯みたいにして」
 久しぶりの彼の問いにタイラントは嬉々として語る。自分の不幸すらも歌にして語ってしまう、そこには吟遊詩人の本能があった。




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