道は続く



 七歳のとき、世界は変わった。
 もっとずっと幼いころには頭のいい子だ、町の学校に行かせたらいい、そんな風にも言われていた子供だった。変化は些細なこと。けれど重大な。
「お母さん、雨が降るよ」
 雲一つなく晴れ渡った晩に子供は言う。あるいは。川の水があふれてくるよお母さん、そのお水飲んじゃだめだよ死んじゃうよ。
 子供にとっては善意そのもの。だって、わかるのだから。だって、みんなが死んでしまうかもしれないのだから。
 それなのに大人は恐怖した。最後の井戸水は最悪だった。子供の言うことを信じなかった村人が本当に、死んだ。ただ井戸水が腐っていただけかもしれない、何か悪いものでも染みてきていたのかもしれない。すぐに埋められてしまって実際は何があったのかなどもうわからない。
 事実は一つ。子供が言ったとおりになった。
「……あいつが呪ったんだろう」
「悪魔の子供だ」
「取り換えっ子かもしれない――」
 ひそひそと囁かれた言葉に両親は子供を隠した。――自宅の地下貯蔵庫に。すでに廃棄されていたそこはじめじめと水が滴ってくる劣悪な場所。
「……だから、言ったじゃない。そういうことを言ってはダメって。私、言ったじゃない!」
 だからいま、こんなことになっているのは自分のせいではない。金切り声を上げた母の遠い声。子供は泣くことも忘れて呆然としていた。
 日に二度、投げ落とされる食べ物と水。最初のうちは時々陽に当たれるように、と裏庭に出してくれていたけれど、最近ではそれもない。以来子供は七歳の今日まで、ここにいる。
 声を出さなくなってどれほどになるのか、わからなくなってしまった。お母さん出してよ。お父さん、もう悪いことしないから。繰り返し繰り返し叫んでも答えが返ってこないことを知ってしまった。
 きっと、言ってはいけないことを言った自分が悪いのだと思う。死んでしまっても、見捨てなければならなかったのだと思う。母のために、父のために。自分がここに入れられてから生まれた妹のために。会ったことなど、一度もなかったけれど。
 子供は薄暗い地下にあって、家の様子も、それどころか村の出来事も知っていた。知っている、と話したことはない。答えは返ってこないし、たぶんこれも言ってはいけないこと、だから。
 黙々と落とされた食べ物を食む。少し黴ていたパンにきゅっと唇を噛む。陽に当たっていない子供の顔は、蝋のように青白かった。その目がつい、と上を向く。客が来たらしい。ならばなおのこと子供は静かにする。音など立てては、叱られるから。

「やあ、奥さん。急にすいませんねー」
 明るい声の青年は吟遊詩人だった。こんな辺境の村だ、それだけで珍しい。その上彼はずいぶんといい腕をしていた。いままで村の広場で演奏をしていた青年は、ちゃっかりこの家の奥方を誑し込み、今夜の宿としてしまった。もっとも、主人のほうも苦笑しながらだから公認の冗談、というところか。
「いいえぇ、こんななんにもない村ですけど。でも魚は美味しいんですよ、ここ。あら……お魚なんて、町の人はあんまり食べないかしら?」
「とんでもない! 魚、大好きです!」
「それはよかったわ。座っててちょうだいね」
 にこにこと笑いながら家事をする主婦の足下にまとわりつくのは二歳ほどだろうか、可愛らしい童女だった。
「お子さん可愛いですねー」
 吟遊詩人はひょい、と童女を抱き上げる。華やかな職には似合わないほど手慣れていて主人は少しばかり驚いた。
「子供がいるのかね?」
「いやいや。ちっちゃな子が好きなんですよ、私。だって可愛いですからねー。ほら、希望の塊、みたいな?」
 大袈裟な言葉に主人が笑う。父の姿にわけもわからず童女も笑う。そんな親子を母がうっとりと微笑んで見ている。理想的な家族の姿に見えた。違うと、吟遊詩人は知ってはいたのだけれど。
 主婦自慢の魚料理は、言うだけのことはあった。物がいいと言うのはあるのだろうけれど、味付けも中々。旅暮らしにある吟遊詩人にはありがたいことだった。
「本当においしかったです! 羨ましいなぁ、ご主人」
「なぁに、あんたもいい人が見つかるさ。女は料理上手が一番さ」
「ほんと美味しいご飯は幸せですもんねー」
 しみじみと呟く言葉に夫婦が揃って笑った。ころころと明るい主婦の声。からからと豪快な主人の声。きゃっきゃと童女も笑う。
「そう言えば、ちょっとお尋ねしたいことがあるんですけどー」
「はいはい、何かしら? 私たちにわかることだったらなんでも聞いてちょうだいな」
「それはありがたい」
 にこりと吟遊詩人は笑う。それから小首をかしげて主婦を見る。主人は一瞬その目が鋭く光ったのを見た気がした。
「この村に天気を当てるのが上手な子供がいるって聞いたんですよ」
「――いないわ! そんな子、聞いたこともない!」
「お前、待ちなさい。落ち着け。――わしも、そんな子供の話は聞いたことがないね」
 いままで漂っていた友愛に満ちた空気が吟遊詩人の一言で凍りついたかのよう。怯えた童女がひっくと泣いた。
「まぁ、そう言われるとは思ってたんですけどねー。お宅のお子さんでしょ?」
「うちの子はこの子だけよ! そんな子、いない!」
 悲鳴を上げる女を夫が抱きかかえ、吟遊詩人を睨みつける。内心で顔を顰めつつ、けれど吟遊詩人は泰然としたまま。
「だったら――その言葉通りにしちゃいません?」
 誘惑する。唆す。笑いながら、何食わぬ顔で。夫婦がひくりと固まった。泣きだした童女の頭を撫でながら、吟遊詩人はにこりと笑う。
「要らないお子さんなんでしょ? だったら私にください。ちょうど弟子が欲しかったところだし。あなたがたは厄介払いできるし。それに――吟遊詩人の弟子にしたんだって言えば、あなたがたも村の人たちに言い訳が立つでしょ?」
 ほら誰も損しない。ふふ、と笑いながら言う吟遊詩人に夫婦は恐怖した。彼は、知っている。子供の秘密を知っている。悪魔の子供なのだと、知っている。
「……出てけ。出てってくれ。あれなら、くれてやるから、出てってくれ!」
 主人が悲鳴を上げた。抱き締めていたはずの妻に今度は自分が縋りつきながら。肩をすくめた吟遊詩人は黙って立ち上がる。そのまま真っ直ぐ、台所へ。そこにあると知っていたかのよう、地下貯蔵庫の蓋を持ち上げた。
「出ておいで。私とここから出て行こう」
 七歳の子供の世界に光が射し込む。差し伸べられた手を黙って取った。出て行かなければならないと知っていたかのように。
「あぁ、聞いてたんだ。話が早いや」
 ぽつりと呟かれた吟遊詩人の声に子供は目を丸くする。それでも話しかけはしなかった。口を開けばきっと、叱られる。
「ろくなもの食べてなかったって感じだね。いいや、おいで」
 まるでもっと小さな、子供が顔も見たことのなかった妹にするよう吟遊詩人は彼を抱きあげた。誰かの腕に抱かれるなど、あまりにも久しぶりで子供は眩暈を感じる。高すぎる目の位置に。
「それじゃ失礼します。なんか歓待してもらったのにすいませんね。あとこれ――些少ですけど」
 食卓の上に置かれた革袋。がつりと重たい音がしたことで中身のほどを知る。これは自分が買われた音。子供はすとんとそれを納得していた。
「じゃ、行こうか」
 夜も遅いというのに、吟遊詩人は家を出て行く。夫婦は子供を一度も見なかった。まるで目にしただけで呪われるというように。
「ご挨拶、する?」
 さようならでも今までありがとうでも。何か両親に言うことがあるか。吟遊詩人の問いに子供は黙って首を振った。
 その子供の代わりだと言うよう、吟遊詩人は優雅な礼をしてその家を後にした。夫婦は少しも見ていなかったけれど。童女の泣き声だけが家の中、甲高く満ちていた。
「さて、と。とりあえずちょっと急いでこの村を離れるからね。私まで追われるとちょっと面倒だし。いやいや、逃げ切るのは簡単なんだけどね?」
 悪戯っぽく笑う吟遊詩人に子供は言葉を返さない。ただただ黙って唇を噛んでいた。当然だろうな、と吟遊詩人は思う。月明かりでもわかってしまうほど青白い彼の肌。どれほどあそこに閉じ込められていたのだろうかと思えばこそ。
 吟遊詩人の足は速かった。人のなせる業ではないかのように。子供の目が次第に丸くなっていく。息を飲む。小さく震える。
「この辺でいっかな」
 生まれた村からもう二つは村を通り越した。それなのに、吟遊詩人は息も切らしていない。人間ではないかのように。
 それなのに吟遊詩人は人間のように薪を集めた。小さな森の中に二人はいた。清水が岩の裂け目から滴り落ち、細い流れを作っていく。少しばかり心許ない水場ではあるけれど、ないよりはいい。
「お、ありがとさん」
 言われる前に子供は一緒になって薪を集めた。手を出すなと叱られるかもしれない。そんな怯えを吹き飛ばす吟遊詩人の明るい笑顔。
「私はセリス。君の名前はいまは聞かないよ。たぶんすぐ、変わるしね」
 子供も聞いたことがある。隣村の女の子が売られて行ったことがあると。蓄えがつきて、娘を売ったのだと大人が話していたことがあった。だから自分もそうなのだと思った。怖いとか逃げたいとか、不思議と思えない自分に子供は笑いたくなる。代わりにうつむいただけ。その目が驚いて跳ね上がる。
「びっくりした? びっくりした?」
 それこそ子供のように無邪気なセリスの声。集めた薪に一瞬にして火がついていた。明るくなった野営地に、子供の恐怖が照らされる。
「そんな怖がらなくっても」
 ふふ、と笑って今度はこんなことはどう、とばかりセリスの手が閃いた。細い清水が舞い踊る。まるで小さな蛇のよう、くるりとまわって身をくねらせて。手品だ、と言われたらきっと子供はうなずいた。激しくうなずいた。違うとわかっていても。
「ほら、君はちゃんとわかってる。手品じゃないよー?」
 ひらひらと振る手の中、水が集まっては玉になる。途端に弾けて消えた。顔を顰めているから、意図したことではないらしい。
「ぬぅ。やっぱり水系は苦手なんだよなー」
 嘆かわしげに言ってセリスは怯える子供を見つめる。存外に優しい目をしていた。どんなに怯えていても逃げ出さない子供に感じた憐れみだったのかもしれない。逃げる、という考えすら浮かばない子供への。
「私は魔法使いだよ。――君とおんなじね?」
 ぱちりとつむられた片目に子供は息を飲む。そして世界は昏黒に包まれた。気を失った子供を優しく抱きとめセリスはそっと歌う。ただの子守歌を。




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