シャルマークの王城は三国一の美しさを誇る。繊細かつ優美で夢のような城だ。
 王城前の広場もまた、城との釣り合いを取るかのよう、様々な色合いの敷石で模様を描いた華やかなものだった。
 行き交う人々の衣装も広場に劣らず美々しい。三国中、最も北に位置するというのに柔らかな薄物が好まれるせいもあるだろう。
 その中にあって異質な者が、一人。
 可憐な水音を立てる噴水の傍らに腰を下ろした人物は、厚手のマントに加え、深くフードを引きおろしていた。男女の別さえ定かではないその人は、不意にゆったりとリュートを構える。
「吟遊詩人だわ」
 通りすがりの人たちが足を止める。王都シーラにあって、吟遊詩人など珍しい存在ではない。
 だがこの人は。華やかな都の中にある異質なもの。それが王都の住人を惹きつけていた。
「巧いじゃないか」
 奏でられたリュートの音に、誰からともなく声が上がる。そしてすぐさま静まっていく。期待だった。これほどのリュートならば、歌はいかほどに。
 吟遊詩人が歌いだす。まるで聴衆の高ぶりを感じ取ったかのよう。滑り出した声にはじめて男と知れた。滑らかで豊かな、男にしては柔らかな声をしていた。
「闇よりきたる。混沌、世界を滅ぼさん――」
 リュートの音に、大方はその曲を悟っていたものと見え、不穏な歌詞に顔色を変えたものはいない。知らなかった小数が、どういうことだ、と辺りを見回す。
「赤き鷲の導き手、雅なるかな五弦琴。王たる鷲の黒き剣、朝陽のごとく鋭し」
 吟遊詩人は顔を伏せたまま歌い続ける。フードから覗く赤い唇が、唯一彼を人らしく見せていた。
「知らないのか?」
「あぁ、なんだ、これは。聞いたことがない」
 小声で言葉を交わすものたちが睨まれる。周囲はすっかり吟遊詩人の歌に引き込まれていた。
「――翼を重ね、あるいは支え。そのとき闇は払われる」
 これから本格的に歌が始まる。吟遊詩人が静かに深く息を吸う。その拍子にフードの陰からちらりと赤い髪が覗いた。
「アルハイディリオン。別名を――」
 曲名を告げようとしたものが、今度ははっきり周囲からたしなめられた。肩をすくめた人に向かって吟遊詩人が頭を軽く下げる。歌が、始まった。



 それは神人降臨より以前の物語。大陸をアルハイド王家が治めていた絶頂の時代。たわわに実り、熟れきった果実のごとく。熟した果実ともなれば行く末は一つ。崩れる寸前。
 予兆はあった。大陸各地から王家にもたらされる報がそれを知らせている。
 曰く。世界が何物かに飲まれようとしている、と。
 誰も信じはしなかった、その目で見るまでは。王家からも使者が飛んだ。現地で彼らが見たものは、報告を信用させるに充分で、使者たちは揃って顔色を失くして帰還した。
「目に見えはしない何物かによって、飲み込まれようとしている、としか言いようがありません」
「それではわからん!」
「ご自身の目で見ていただくより、他にありません」
 一蹴された使者が不遜にも重臣に向かって肩をすくめて見せる。それでも使者は言葉を継いだ。
「目には、見えません。ですが、世界が、と言うより現状では海が、ですが、消えつつあるのは見えます」
「海が消える? 干満の差ではないのかね」
「干満ならば、岸で起こるものです。ですがこれは、海が向こう側から消えていくのです。こんな干満差は聞いたことがありません」
「それは……」
 うなって言葉を失くした重臣に、使者は見たものを思い出したかのよう体を震わせた。
「海が、向こう側から徐々に消えていくのです。私が見た時より、いまは更に消えていることでしょう。そう、報告を受けています」
 ぞっとしていた。使者自身が。そしてその場の誰も彼もが。アルハイド王家の重臣たち。そして急遽呼び出されたファーサイトの賢者たち。
「陛下に、いったいどうご報告申し上げたら……」
 頭を抱えてしまった重臣に、賢者たちがうなずきを交し合っているのは見えなかった。一人の賢者が席を立つ。
「予言詩を、ご存知でしょうかな」
 アルハイド王家に伝わる様々な古文書を、賢者たちは王家の許しを得て研究している。これらの一つに今回に関わると思しき予言がある、と賢者は言う。
「ならば……!」
 希望を見出した重臣に、賢者は首を振る。
「予言は所詮、予言です。実現するのは生身の人間。当面は、予言であることを伏せましょう」
「だが、すでに予言されたことだと知っていたほうが、命ぜられたものの自信にもなる。違うか?」
「えぇ、違いましょうな。予言に囚われすぎることは、足を絡め取られることに等しい。まずは、予言に語られたものを呼びましょう。そして、自由に動いていただく。それがよい」
 賢者の確信的な口調に重臣は折れた。いずれにせよ、予言の実現に向けて動くならば、異存はなかった。
 少なくとも現在において他に打つ手は、ない。
「……それが最も、恐ろしい」
 小さく呟いた重臣の声は室内に虚しく響く。すでに、彼一人がその場に居竦んでいるだけだった。
 秘密の会合が持たれたらしいことは、すぐ王城内に広がった。内容はわからなくとも、会合自体が秘密であったわけではない。
 それはあっという間に城下にも広がっていく。ハイドリンに、安堵の空気が流れ始めた。
「きっとなんとかなる」
「王様がなんとかしてくださるに決まってる」
「すぐに、元に戻るさ」
 楽観だったかもしれない。王家に寄せる信頼の表れだったのかもしれない。
 どちらにしても、庶民は昨日と同じ今日を生きていくだけ。今日と同じ明日であることを願って、今を生きるだけ。
 大陸の中央、ハイドリンから北に三日ほど進んだところになだらかな丘がある。他にほとんど山と言い得るものがないアルハイド大陸にとって、それはやはり立派な山であった。
 その小高い丘が、ファーサイト賢者団の本拠地だ。山の上に立つ質実剛健そのものの建物は、星見の館。賢者たちは夜になると館の平らな屋根の上で星を見る。
 それを取り巻く大小さまざまな建物に、賢者たちが暮らしている。多くは質素な小屋同然のものだ。稀に立派な建物がある、と見えればそれは来客用の宿舎。
 秘密の会合から数週間。本拠に戻っていた賢者たちはそこから一人の若者を連れ出し、王都ハイドリンへと急いだ。
「のんびりしたものだ」
 皮肉に唇を歪めたのは、その若者だった。あれから更に数週間。疾うに王城についている。早くこい、城にいく、と半ば無理やり連れ出されたというのに、若者は忘れられたよう、放置されていた。
「……こんなもの」
 どうしろと言うのか、賢者たちは。見るだけで、腹が立ちそうで投げ捨てたい。かといってそれもできず、若者はリュートを手にさまよっていた。
「どうやったら、音が」
 この音が出ないリュートを賢者は弾けと言う。いったいなんの謎かけか、と思う。ファーサイトの賢者の言葉でなければ、からかわれている、そう思ったに違いない。
「本当に、腹が立つ」
 そう言いつつ、散歩にまでリュートを携えているこの若者は根が真面目なのだろう。常に持っていろと賢者が言ったのだから、と逆らうことはなかった。
 気晴らしの散歩を楽しむ男が見たのは、そんな若者だった。庭園の一角、さほど整備されていない自然のままに近い場所を歩くリュートを携えた青年。
 吟遊詩人かと最初は思った。が、すぐに違うと知る。なにがどう、と言うわけではなかった。強いて言えば彼のその佇まいが、あまりにも吟遊詩人からはかけ離れている。
 すっきりと立った姿勢も、聳える大木を見上げる視線も、リュートを持った手すら、詩人のそれではない。
「何者だ?」
 呟き声が風に乗ってしまったのだろう、青年がはっと振り向く。その拍子に、首の後ろで束ねただけの燃えるような赤毛が閃く。それまでそこに誰かがいるとは気づいていなかったのだろう、妙に悔しそうな顔をしていた。
 それに男は確信する。やはりこの青年は吟遊詩人などではない。むしろ戦うことを知っている人間だと、その目が語っている。
「あなたこそ、どこの誰ですか。人を問いただせる風体とも思えませんが」
 風にしなった若木の枝が跳ね返るような物言いだった。おかしくなって吹き出せば、それが癇に障ったのだろう、青年は目許を険しくさせる。
「まぁ、そう怒るな。こんなところに人がいるとは思わなかった、それだけだ。散歩か?」
「そうですが。あなたも人のことを言える立場ですか」
「うん?」
「こんなところに人が、と仰いましたね。でしたらあなたはなぜこんなところに?」
 どことなく揶揄するような若い口調が男は嫌いではない。が、それが顔に出た途端に青年はいっそう表情を固くした。
「まぁ、なんだ。人気のないところを散歩したかったから、と言うことでどうだ?」
「どうだもこうだもないでしょう。言えないようなことをしでかしてきたんじゃないでしょうね。ご存じないようですから指摘してあげましょう。ここはアルハイド王家の城、その奥深くの庭園です。逃げられると――」
「思ってない、思ってない。大体なんだ? 人が悪さをしてきたって決め付けるのはよくないぞ」
「だったら、あなたは何者ですか。言ったでしょう、ここは奥深くの庭園です。素性の知れないものが、どうしてここに」
 言って青年は気づいたのだろう。自分が彼を知らないからと言って、彼の素性が知れないわけではないことに。
 言葉を切って顔を顰めた青年に、男は好ましいものを覚えた。叩きつけるような癇性な物言いではあったが、このはっきりしたところは彼の周囲から消えてしまったものの一つだった。
「ま、俺の素性は城には知れてるさ」
「衛士か何かですか。戦士風の装いですが」
 そんなところだとでも言うよう、男は笑う。どうにも誤魔化された気がしてならない青年は、唇を引き締めて目の前の男を睨んでいた。




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