木蔦の家

 借家の当てはないかと相談したエリナードは、そろそろ言いに来るころだろうと思っていた、と笑った。呆気にとられるエドガーとレイの前、あっという間に事が運んでいく。
「この夏のことなんだがよ、水害があってな。そんときに床上まで浸水しちまった家なんだ。水の側は怖ぇし、二人目もできたしって引越したのがまだ空き家でな。家は直したし水の方も問題ねぇんだわ」
 それで構わなかったらすぐに引越せるぞ、と言われてうなずいたのが運の尽きだった。否、ありがたいことではあるのだが、何が何やらわからないうちに話がとんとんと進んで行ってしまう。
「驚いた……」
 なんとその日の夕方には引越しが済んでしまっていた。元々アリルカに到着してさほど時間が経っていないせいもある。二人の持ち物が少ないせいもある。それにしても、とエドガーは苦笑する。
「魔術師ってすごいよな?」
 言えばレイが目を輝かせた。ファネルに抱かれたままのエリナードとイメル、その二人がひらひらと手を動かすたびに荷物が片づいて行く。そんな気すらするほどの鮮やかさ。さすがに申し訳なくも思ったのだけれど、イメルが笑ってこう言った。
「エリナードは娘の不始末って思ってるからねー。気にしないでいいよ?」
「お前が言うんじゃねぇよ、馬鹿イメル!」
 直後に強かに殴られた――らしい。頭ががくりとのめったことでそれと知れるけれどエリナードは動いていない――イメルは、それでもけらけらと笑っていた。
「あとこれ。馬の輸送料な? 遅くなっちまったけどよ」
 言いながらエリナードが示したのは大きな麻袋。レイが首をかしげて中身を覗き、唇をほころばせる。ちらりと視線を送ってきた彼に従って中身を覗けば、保存がきく根菜が大量に。
「じゃな」
 ひらり、手を振ってエリナードは行ってしまった。礼を言う間もありはしない。後日きちんと感謝を告げておこうとエドガーは思う。
「素人さんにさ、魔道書を運ばせちゃったって、エリナード。気にしてるんだよね。いくら危なくなかったからって言ってもさ、結果として危険がなかったってだけで、危ないことに違いはないし」
「――カレンさんが、ちゃんと考えてくれていたはずです。だから、僕らは平気でした」
「うん。カレンは腕もいいし頭もいい。それはね、俺もエリナードもわかってる。でも、やっていいことと駄目なことがある。これは魔術師としての倫理観と思ってね」
 にこにこと笑いながらイメルが言う。意外と言っている内容は厳しいものだとエドガーは思う。決してカレンを咎めているわけではないだろう。あの場合の最善ではあった、とイメルは認めている気がする。それでもなお言うのは、魔術師の在り方をレイに教えてくれているつもりかもしれない。ふとそんなことを思った。魔法というものに憧れを持つ彼のために。
「ま、なんのかんの言いながらあいつ、娘には甘いからねー。カレンもそれを見越して師匠に甘えてるわけだし。ちょっと羨ましいよな、その辺がさ」
 カレンはイメルの後継者に指名されている、とエイメから二人は聞いている。が、師弟と言うならばエリナードとなのだ、と彼らは揃って言う。わかるようでわからないその関係が、それでもエドガーは家族のようで少し、微笑ましくも思う。
「俺にとってもカレンは姪っ子みたいなもんだからね。あの子の友達だったらいつでも力になるからさ。言ってね」
「――はい、ありがとうございます。そのときには、是非」
「うん。頼りにならないと思うけどさ。あ、これ。引越し祝いね。じゃ」
 言うだけ言って荷物を押しつけイメルは慌ただしく出て行ってしまった。呆気にとられ、二人は顔を見合わせ珍しく吹き出しあう。
「なんだろう?」
 そっけない紙袋に詰め込まれた何か、ではあった。かさばっているだけでさほど持ち重りがするものでもなさそうだ、と荷物を抱えるレイを見てエドガーは思う。
「開けて見たらどうだ?」
「……うん」
 二人になるや否や、レイはうつむきがちになる。エリナードたちやイメルがいたときのよう、真っ直ぐ顔を上げることを彼はしない。それがエドガーへの甘えなのか、それともいたたまれないだけなのか、エドガー自身にわかるはずはない。
「……あ」
 そのレイが眼差しを上げ、エドガーを見つめる。はっとするほど揺れて美しい目をしていた。エドガーは瞬きを繰り返し、何気なく微笑んでみせる。
「どうしたんだよ? なんか怖いもんでも入ってたか?」
「そんなはずはないだろう。……これを。こんなものをいただいて、いいのだろうか」
 袋から取り出されたものにエドガーも同感だった。確かにこれではレイが戸惑うのも無理はない、と思うような立派な寝台の上掛けだった。そこからひらり、一葉の紙片が舞い落ちる。
「ん? あぁ……。商売もんに作ったんだけど傷が入っちまったんだとさ。それでよかったら使ってくれ、と」
 エリナードが日常、装飾品を手掛けているよう、イメルはこういうものを作っているのだろう。華やかでいて品のある上掛けは寝室を明るく飾ってくれるに違いない。
「素晴らしいな……。貴族の館にあっても――いや、すまない、なんでもないんだ」
「気にすんなよ。つか、あんたが気にするようなことか? まぁ、俺もそう思って言わなかったんだけどな」
「だろう? せっかく君が心配りをしてくれたのに」
 きゅっと唇を噛んだレイ。ささやかな気遣いを無にしてしまった、と眼差しを落とす彼。そう思ってくれるのは嬉しいけれど、落ち込ませたいわけではないというのに。
「よう、エディ。引越しだってな? ディアナから届けもんだぜ」
 振り返れば非番だった戦闘班の一人が瓶を掲げて立っていた。にやりと笑っているから中身は酒だろう。引越し祝いに、と贈られるにはそのくらいの方が心が休まる。
「――と思ったんだけどなぁ」
 あれよあれよと言う間に運び込まれた酒瓶の数々。さすがにレイも絶句していた。傭兵隊でもここまでは飲まない、とエドガーは頭を抱えたくなる。
「……君は、ずいぶん親しまれているんだな」
 さすがにこのままにしていては日常生活に差し障る。エリナードがくれた根菜も片づけなければならないし、とエドガーが思っていたところに忍び入るレイの声。驚いて振り返れば、どこかを見たままの彼だった。だからかもしれない、冗談を言う気になったのは。二人きりの時には言わない冗談を。
「妬いたか、レイ?」
 はっと振り返ったレイ。その気配だけはエドガーも捉えていた。他人の前ではからからと笑って彼の夜色の目を覗き込む。二人きりのいま、それはできなかった。かえって冗談に聞こえなくなってしまう、そんな気もしたけれど。
「……妬いた、と言ったら君は」
「ちょっと驚くかな」
「どうして」
「……いや、別に。それより、片づけねぇと。足の踏み場がないぜ、これ」
 レイの言葉がまだ頭の中にこだましていた。妬いたと、冗談でも今ここで言ってもらえて舞い上がりそうだった。背中に彼の視線を感じながらエドガーは一度目を閉じる。そしてゆっくりと息を吐きだした。それをじっと見つめられているとは知らないままに。
「とりあえず、台所、か?」
 少なくとも食べ物だ、酒瓶共々台所に転がしておけばいいだろう。それでいいか、とレイを振り返る。そのときにはレイもまた、いつもの彼だった。
「少し、持とう」
 片手に持てるだけの酒瓶を下げ、反対の手で麻袋を担ぎ上げたエドガーをレイは眩しげに見ていた。エドガーは何食わぬ顔をしてその実、どぎまぎとしている。
 二人が住むことになった家は、確かに小さな家だった。夫婦に二人目の子供が生まれたならば手狭だろう。それが実感できる家だ。が、そのぶんレイにとっては落ちつく広さかもしれない。ちょうどタングラス侯爵邸で拝領していたエドガーの家とイーサウでの借家、あの中間ほどの大きさだった。イーサウの家には風呂があったことを思えばこちらの方が部屋自体は広いかもしれない。
「風呂があれば楽ができたんだけどな」
「贅沢というものだと思う、それは」
「だよな。でもイーサウの温泉に慣れちまったからな」
「……君は」
「うん?」
「その。イーサウに、帰りたいのかと思って」
「別に? あの風呂は楽だったなってだけだぜ」
 言いながらもし自分がイーサウに帰りたいと言ったならばレイはどうするのだろうと思う。もしかしたらついてくる、そう言ってくれるかもしれない。そんな考えをエドガーは弄ぶ。
「ん?」
 だからかもしれない、なんの気なしに見つけたものを開けてしまったのは。レイがどう反応するか、思い及ぼすことができずに。
「あぁ、貯蔵庫――」
 床から引き上げ戸を上げれば地下貯蔵室への階段。根菜も酒もここにしまっておけばいいだろう。一人うなずくエドガーの傍ら、大きな音。
「レイ!」
 眩暈を起こしたよう真っ青になったレイだった。それなのにただひたすらにじっとその目は階段を見ている。震えながら、目を離せずに。
「――レイ。こっち向け。俺を見ろ。悪い。不注意だった。ごめんな」
 ぎゅっと抱きしめ、レイの視界から階段を隠す。彼が地下室をどう思うか、忘れていたわけではなかった。カレンの家の地下で慣れたと思い込んでいたわけではない。ただ注意が散漫だっただけだ。エドガーは臍を噛み、震えるレイを抱き続けた。
「……エドガー」
 何度も呼ばれた。そのたびにここにいる。大丈夫だと囁き続けた。確かにここにはいる。けれど大丈夫かどうかなど、エドガーこそわからない。それでも少しずつレイの呼吸が戻っていく。
「悪かった。ごめんな、レイ」
 ふるふると腕の中、レイが首を振った。仕種がはっきりしてきたことにまずエドガーはほっと息をつく。
「……君のせいじゃない。僕が」
「俺が不注意だったんだ。驚かせた」
「……もう、大丈夫。……君が、いてくれるから」
 つい、と顔を上げたレイの目はまだはっきりと濡れていた。恐怖に震え噛みしめたのだろう唇はいまも赤い。その赤い唇がそっとエドガーのそれに重ねられた。




モドル   ススム   トップへ