木蔦の家

 さあ行こう、とイメルに促され、二人は進んでいく。美しく手入れされた花壇があった、よい香りのする果樹が植えてあった。
「夢みたいだ」
 笑いさざめき仕事をする人々の姿。人間もいれば神人の子らもいる。たぶん、その子供たちもいるのだろう。もっとずっと幼い子供たちも遊んでいる。憧れを浮かべたレイの眼差し。切なさにも似ていた。
 あちらには何がある、こちらには何が、と喋りながら騒々しく歩くイメルの話を聞いていると、何もここが夢の国ではないことがエドガーにはわかる。どこにでもある居酒屋もあれば武器防具を扱う店もあると言う。それでも小さな滝の側の道を上がっていくときには息を飲んだ。本当に、言葉も出ないほど美しいとはこういうことなのだと思う。
「あぁ……」
 そして道をのぼりきったところでレイが溜息をついた。想像したこともなかった美。それでいて、魔法でもなんでもない、当たり前の景色。ゆえに一層の美しさ。そこには湖が広がっていた。静謐そのものでありながら変化の煌めきも見せる湖。風が湖面を吹き渡り過ぎれば、さらさらと波が立ち、そしてまた戻っていく。
「よう、来たな。助かったぜ、イメル」
 はっとして振り返れば、一本の木の根方に人がいた。大ぶりなクッションを幾つも積み上げた中に埋まるように座っている。いままで手仕事をしていたのだろう、道具類が周囲に散乱していた。
「あなたが――?」
 レイがまぶしそうな顔をした。そこにいるのは金髪に藍色の目をした青年にしか見えない男。どことなく苦笑の影があって、それだけが年輪を感じさせた。
「おうよ。カレンの……」
 言いかけた、おそらくはフェリクス・エリナードが言葉を止める。そして思い切り息を吸い込み、吐きだしたときには手を振り抜いている。何事か、とエドガーは驚き、咄嗟に背後にレイを庇う。その傍らでイメルが頭を抱えていた。
「てめぇ、この馬鹿弟子が! ちょっと面貸せ、この野郎!」
 どこからともなく現れたのは水鏡。巨大な、タングラス侯爵邸ですら見たことがないほどの大きな鏡。そしてその鮮やかさ。かつて知りもしなかったほどよく映る。
「あー、ごめん。カレンから聞いてなかったかー。カレンのアレ、師匠譲りなんだよね」
 詫びているのに楽しそうなイメルだった。溜息すらも作られたもののよう。だからこそなのか悪意はまるでない。エドガーより先にレイが笑ってうなずいていた。
「エドガー」
 大丈夫、そっと呟いて横にと並ぶ。エドガーは片目で彼を窺い、黙って手を差し伸べる。それには嬉しそうに手を繋ぐレイだった。
「おう、師匠。あいつら着きましたか。そろそろ到着だろうと思ってましたわ」
「ってそうじゃねぇだろうがよ!」
 鏡面に、カレンの姿が現れていた。イメルが二人にそういう魔法なんだ、と教えてくれる。遠く離れたイーサウとアリルカで言葉を交わす師弟の姿。軽い眩暈を感じたのに、エドガーも早、くつろぎはじめている自分に気づく。
「うっせぇジジイだな。なんすか、さっさと言ってくださいよ。こっちも忙しいんだ。馬鹿弟子がこの間になんかやらかしゃしねぇかって気が気じゃねぇや」
「そりゃてめぇの問題だろうがよ。――で、弁解を聞かせてもらおうか、え? こんなあぶねぇもん素人さんに運ばせやがって、どういうつもりだこの馬鹿弟子が」
 危なかったの、とレイに眼差しで問われてもエドガーは答えられない。話題は馬のことだろう、と思うがそれ以上は見当もつかなかった。
「素人さんだからでしょうが。狙われもしねぇや。だいたい対策はとってたっつーの。よう、エディ。あんた、襲われたか?」
「あ……? いや、別に?」
「な? 師匠。私だって馬鹿じゃねぇんだ。やるこたぁやってるっつーの。で、本題入りますよ、いいすか」
 突然遠いところにいるはずのカレンに話しかけられて戸惑うエドガーをレイが微笑んで見ていた。どことなくくすぐったくて目をそらせば、水鏡の向こうでカレンが片目をつぶる。ぎゅっと縋りついてくる袖口に、慌ててエドガーはレイを引き寄せた。何か怯えるようなことがあったかと。
「本題? なんだよ。さっさと言いな」
 ふん、と鼻を鳴らすエリナードにイメルが吹き出す。とっくに弟子の我が儘を聞いてやるつもりなんだよ、と教えてくれた。
「そいつら、ちょいと預かってほしいんですわ」
「こいつら? 別にいいけどな。なんでだ」
「逃亡中なんで。黒髪の可愛い方がレイラ・ネイ・タングラス。ミルテシアのタングラス侯爵家の庶子っすね。でかい野郎がエドガー・モーガン。侯爵家の武術指南役で坊ちゃま攫って駆け落ち中ってやつで」
「はぁ!?」
「ま、追われてるんですわ、それで。だからそっちで匿ってください」
「……相変わらずややこしいことに首突っ込みやがって」
「そりゃ師匠譲りのお人好しだ。そろそろ諦めた方がいいっすよ」
「馬鹿言ってんじゃねぇ。俺譲りだ? てめぇのそれは俺の師匠譲りだろうがよ」
「大師匠から続いてんだったら伝統だ。諦めて付き合ってくださいって。頼んでいいすかね、師匠」
「しょうがねぇな。こんな危険物、素人さんに運ばせたんだ。馬鹿弟子の不始末くらいは責任とんのが師匠の役目ってもんだろうがよ。いいぜ、預かる」
「――助かった。感謝します、師匠」
「よせ、気色悪ぃな」
 ひらひらと顔の前で手を振るエリナードにカレンが破顔していた。なんだかとんとん拍子で意図しないうちに話が進んでしまって、当事者二人が口を挟む暇もなかった。
「あぁ、そうだ。師匠。さっきの、表向きの話なんで。ほんとの事情は当人たちに聞いてください」
「あ? 別にいらねぇよ、そんなもん。別に関係ねぇだろ」
「やっぱりね。師匠ならそう言うと思ってました。じゃ、仕事に戻ります。ファネルさんによろしく」
 二人に向けてカレンは手を振る。呆然としているエドガーと違ってレイは笑って手を振り返していた。消える間際、師であるエリナードへとはまるで違う折り目正しい態度でカレンはイメルに一礼した。
「とりあえず、それくれ。で、座れよ。別に立ってることねぇだろ」
 がしがしと頭をかきむしるエリナードに、イメルが馬の手綱を渡してくれた。座れと言われたエドガーは、けれどまだ立ち尽くしている。駆け落ち、などと言われてしまったせいかもしれない。そうであればどれほどよかったか。
「エドガー」
 そっと声をかけられて、瞬きをする。自分がしっかりとしていなければ誰がレイを守るというのか。たぶん、いくらでもいるだろう。だからこそ、自失はしたくない。この立場だけは、守り通したい。
「はい、どうぞ」
 どこでいつ淹れたのか、そこにはなかった茶道具一式があり、熱い茶を手渡された。にこにこと笑うイメルはこれも魔法の便利なところだよね、などと言っている。
「ありがとうございます」
 魔法というものに強い憧れのあるレイのこと、中身がただの茶であっても、魔法でそうしたというだけで何か嬉しそうだった。その目が見開かれる。エリナードが手綱の端を持っていた。何をしたわけでもないように二人には見えた。それなのに、馬が蕩けて行く。光の粒になっていく。
「なんて、綺麗なんだろう。エドガー」
 君もそうは思わないか、きらきらとしたレイの眼差し。エドガーはその目こそが美しい。そう思うけれどやはり、言わなかった。そんな二人の前で馬は光に蕩け、そして再び結集する。一冊の本へと。
「ったく。あぶねぇことしやがって」
 まだ文句を言うエリナードの手の中、それはカレンの呪文書へと戻っていた。これが、一流の魔術師師弟の実力なのだ、と傭兵のエドガーは思う。エイメは腕のいい魔術師だ。けれど格が違うとしか言いようのないその技量。感嘆するのも馬鹿らしくなってくる。
「カレン師をお責めにならないでいただきたい、エリナード師。危ないことは何もなかったのだから」
「カレン師? うわ……。背筋がぞっとしたわ。いや、まぁ。確かにあれも師匠だがよ。それと、俺もそんなのいらねぇからな。あんたら別に俺の弟子じゃねぇし」
「弟子のカレンからしてあれだしねー」
「まぁな」
 渋い顔のエリナードはイメルに茶々を入れられて嬉しそうだった。そんな自分にばつが悪くなったのだろう、咳払いをして誤魔化す。ふ、と心がくつろいでいく。
「あんたらがいいって言っても、結果的に危ない目に合わなかったってだけだからな。馬鹿娘の後始末は俺がするさ」
「あれだよね。カレン、最初からそれ狙ってたんじゃないの。無茶すればお前がこの二人の面倒ちゃんと見てくれるだろうってさー。頼られてるねぇ、お師匠様ー」
「いい加減師匠離れしろってんだ」
 むつりと言ったエリナードをイメルが笑った。二人の間で通じる冗談だったのだろう。が、預けられてしまったエドガーとしては申し訳なさが先に立ち、冗談どころの騒ぎではなかった。ちらりとレイを見れば似たような顔をしている。
「カレンはああは言ったが、現実は違う。タングラス侯爵家は、かなりマジで俺たちを追ってる。駆け落ちがどうのってのは――」
「カレンの戯言だろ。別にどうでもいいって言ったろ?」
「エリナードさんがそのつもりでも、この国に、アリルカという伝説の国に諍いを持ち込むことになるのはたぶん――レイが望まない。俺も、だけれど」
 言った途端だった。二人の魔術師が微笑んだのは。イメルは大きく破顔し、エリナードはそっと目を細める。その違いはあったけれど。
「だからカレンはあんたらをここに預けたんだろうな。あのな、ここはこの国に危険をもたらすような存在はそもそも入ってこれねぇような結界が張ってあるんだ」
 わかるか、と問われてもエドガーにはわからない。隣でレイも首をかしげていた。その手元、話が長くなると見たのかイメルが菓子を差し出してくれた。上の空で礼をする彼は、イメルが男性であると忘れているらしい。警戒感がいまはなかった。
「ミルテシア人だって? 魔法は嫌い、異種族は殺しちまえって国の人間が? ここに入れるってことは、あんたらはそういう偏見がまったくないってことだ。あるいは、そんなことはどうでもいいくらい切羽詰まってるかだな」
 エリナードの言にエドガーは深くうなずく思いでいた。レイは偏見などまるでない。その上切羽詰まっている。自分もそうだろう。レイの生きられる場所こそ、その傍らにいられる場所こそを望んでいる。望めないと知りながら。




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