魔法学院設立直後、フェリクス・エリナードの盛名を慕って各地より魔術師が集まりはじめていた折のこと。エリナードは常ならば夜には閉めている学院でカレンと共に雑務をしていた。 「雑用ばっか増えやがってよ」 文句を言っても冷たい弟子は聞こえた素振りも見せない。もっとも、自分もおそらくフェリクスには同じような態度だっただろうな、と思ってエリナードは内心で苦笑する。 「師匠? 手が止まってますけど」 苦笑の合間を見られたか、冷え冷えとしたカレンの言葉。それでも目だけが笑っていて、やはり苦笑したくなる。致し方なく雑用を片付けようとした時。 「……ん?」 さすがに我が弟子だ、と誇りたくなってしまってエリナードは口許を歪める。自分が気づいたのと同時にカレンもまた、異変に感づいていた。 「お客さんだぜ?」 「剣持った類のですかねぇ?」 「いや、ヘッジさんだな。なんか大勢連れてるけどよ」 迎えに立ってくれ、あっさり告げたエリナードにカレンは無言。彼女とてエリナードの弟子、誰かが来たらしいのはすぐにわかった。だが師のように大勢がいるとはわからなかったし、誰が来たかとなれば見当もつかない。 階段を下り、カレンは学院の玄関口に。さすがにそこまで来るともう感知ができていた。本当に、大勢だ。目を見開きつつ、敵意はないと言った師に従う。 「ようこそ、ヘッジさん」 できるだけ笑顔で、と心がけて扉を開く。ちょうど入ろうとしていたのだろう連盟議長ヘッジ・サマルガードが驚いた顔をした。 「――少し、内密の話だ。よいかね?」 「問題ないと思います。師匠はすでにお気づきでしたし」 「では、入らせてもらおう。こちらに」 ヘッジが振り返った先、飾りのない馬車が三台も停まっていた。それにまずカレンは驚く。そこから七人もの人が出てくるに至っては、どうとにでもなれと言う気分。うち一人だけが顔をさらし、後の六人は深いフード付きのマントに顔を隠してもいたのだから。中の一人は老齢なのか杖をついていた。否、歩行に不安があるようではない。カレンはそれも怖くなる。 ――ほんとに師匠、大丈夫なんですよね。 思わず内心で呟いてしまえば、師匠を疑うな、と笑い声が返ってきて、聞かせるつもりではなかったカレンは口許を引き締めるのみ。そんなカレンの心の内側、エリナードの笑い声がまだ響いていた。 客は無口で、ヘッジもまた何も言わない。言えないのだ、とカレンは察する。それだけに事態の重大さが窺えるよう。少し、怖かった。 「こちらにどうぞ」 学院長の執務室だ、大勢の客をもてなすようにはできていないのだけれど、彼らはエリナードにこそ用事があるのだから致し方ない。師も客を応接室に通せ、とは言ってきていない。 ――まずいなんかってこと、ですかね。 今度は聞こえないよう独語する。先ほどの師の笑い声、少し大袈裟すぎたような気がしないでもない。寒気がするのだけれど、カレンはエリナードを信じる。師のすることに間違いはないと。 「エリナード、あなたにお客なのだが。紹介してもいいかね」 フード付きの人間がぞろぞろと入ってきてもエリナードは驚きもしなかった。むしろ、ここで会うとは思っていなかった、という驚きのほうが強い。無言で立ち上がり、真っ直ぐと一人の元に。 「あ……」 無造作にフードを跳ね除ければ零れる銅色の髪。顔をさらしていた一人が咄嗟に止めようとしたのを杖の人物に阻まれていた。 「久しぶりだな、エルサリス。どうした、こんなところに」 微笑んで見せた、エリナードは。それくらい、本当は怖い。ここにいるはずのない人間がなぜ。エルサリス・ジルクレスト。いまはジルクレスト家の人間となった弟分。かつてエルサリスは星花宮で訓練をした経験がある。 「お覚えでしたか……よかった……」 長く息をつき、エルサリスはマントを脱ぐ。それに全員が従うのが面白かった。カレンはそんなエルサリスを見ている、正確には、師とエルサリスを。 「俺がお前を忘れる? そんな馬鹿な話があるか」 ちょい、と頬をつつけば上がる笑い声。杖をついていたのはイアン・ジルクレストだった。エルサリスの伴侶にしてジルクレスト家当主。タイデル子爵位を拝領する、立派なラクルーサ貴族だ。 「あなたならば、と思いまして。また……助けていただけますか、エリナード」 「もちろん。――で、ヘッジさん、どう言うことで?」 「いや……」 よもやエリナードと客人がそこまで親しいとは思ってもいなかったのだろうヘッジだった。目を白黒とさせている。この慧眼の議長にして、それは珍しいことだった。 「端的に申し上げれば、亡命ですよ」 あっさりと肩をすくめたのはイアン。エルサリスと反対の隣では彼が養女に取った妹格のセシルもまたうなずいている。 「あぁ、エリナード。あなたは私のジョエルとは初対面かな?」 「ですね、セシル様。相変わらずお綺麗だ」 「世辞は要らんよ。こちらが私のジョエル、それと息子と娘だ。クロードとコーネリアと言うよ」 胸を張って後ろにいた三人の男女を引っ張り出す。どうやら顔をさらしていたのは家宰だろう。亡命を試みる主人について歩くのだからよほどの覚悟か。エリナードはそつなく挨拶をしつつ気を引き締めてかかる。何気なくヘッジを見やれば、その目だけが笑っていなかった。 「ヘッジさん。まず確認だ。――イーサウは、ジルクレスト家をどうするおつもりで?」 「それは亡命を認めるのか否か、という質問かね?」 「はっきり言えば、そういうことですね」 「では答えは簡単だ。認めるとも」 「議会は?」 「通す必要はない。というよりな、イーサウの議会ではこのような場合を想定してすでに法があるのだよ、法が」 「そりゃ心強いな」 ふ、とエリナードの口許だけが笑った。カレンは何も考えず師の元に水盤を運ぶ。気づいたときにはエリナードが水盤に指先を浸していて、それに驚く。 「考えるより先に行動できるようになってきたってことだな。ま、褒めといてやる」 「褒められてる気がしねぇです!」 「吼えろ吼えろ。あぁ、こいつ? 俺の弟子だよ。――ヘッジさん、ちょっとまずい。追手が近くまで来てるわ。イアン卿、どれくらいまけました?」 「追手の目をくらますなどという芸当ができるほど上手ではないのだよ、我々は」 「あと、これで全員?」 「いや。追手がかかっているのは気づいていたからな。召使たちは分散して逃げるように、と。もし我々と共にありたいと望むならばイーサウで落ち合う、としてあった」 「了解。ヘッジさん、聞いての通りだ。家宰さんを預かってください。――家宰殿、お聞き及びかと思いますが、フェリクス・エリナードと言います。イアン卿ご一家はこちらで預かります。我が名にかけ、また師の名にかけてご一家は安全です」 だから召使のための目印となって待っていてほしい。エリナードは言う。家宰はどうしたものか、と案ずるのだろう。当然だ、とエリナードは思う。亡命を試みる主人に従うほど忠義の篤い男だ、おいそれと見知らぬ人間に主人を預けたくはあるまい。 「家宰殿、エリナードは私の兄のような方。なんの心配もいりません。安んじて任せておけばよいのです」 エルサリスの言葉にようやく家宰はうなずく。それにエリナードは時間を見た思いだった。あのエルサリスが立派に立っている。線の細い、美女と見まがうような――そう育てられたせいも多分にあるが――青年だったものが。いまは壮年の男の優雅さを身につけてここにいる。もっとも、優しげな立ち姿だけは当時と変わっていなかった。 「エリナード、家宰殿は預かるよ。だが、追手とは……?」 「俺は水系魔術師だって言ってるじゃないですか。イーサウはいいとこですよねぇ。至るところに水源があるから、水に手ぇ突っ込んどきゃ知りたいことはなんでもわかる」 ふふん、と鼻で笑うエリナード。そういうことは誤解を招くから言わないほうがよい、とカレンは思う。不安になって客たちを見やればセシルの子供たち、と紹介された若者二人だけが少し怖そうな表情。ただ、それだけだった。 「ではこちらでも安全対策はするか……。そちらはいいのかね?」 「いいですよ。俺が面倒見ます。だいたいね、ヘッジさん。この俺と知って襲撃かけてくる馬鹿はいません。正確には、生きていません」 殺しますよ、はっきりとエリナードは言い放つ。それでヘッジは納得した。おそらく、追手はエリナードと知って諦めるのだろうと。それでもなお襲撃をかけてくるのならば彼我の戦力差を考慮もできない愚か者の命がどうなろうとそれは関知するところではない。ヘッジはそう思う。 「カレン、うち帰るぜ。――エルサリス、俺んちは狭いからな? その辺は覚悟してくれ。まぁ、ほとぼり冷めるまでの間、と思ってな」 「大丈夫。エリナードはいつも気にし過ぎですよ」 くすりと笑ったエルサリス。そのときだけかつての青年のような華やいだ表情だった。そのことでずいぶんと恐ろしい思いもしてきた逃亡だったのだとエリナードは知る。 「お二人にも不愉快な思いをこらえていただくことになりますが、しばらくの間と思って我慢していただけると。では姫?」 悪戯のよう笑ったエリナードだった。カレンは内心で頭を抱える。師は自分の顔というものを理解しているのだろうかと。理解していてやっているのだとすれば悪辣だし、理解していないと言うのならばあざとすぎる。 「……あのな、カレンよ。俺の悪口は聞こえないところで言え」 「言ってねぇわ!?」 「言ってただろうが。――まぁ、こういうところなんですよ、申し訳ない」 言いつつ差し出した腕に軽く手を置いたセシルの娘、コーネリアにエリナードは微笑んでみせる。少しでもくつろいでほしいと願ってのこと。こほん、と咳払いをしたのは兄のクラーク。 「あの……うちの師匠。女性に興味ないんで、そのあたりは大丈夫です。ご心配なく」 言った途端だった、クラークが目を丸くし、コーネリアが笑い出す。のみならず家宰とヘッジを除いた全員が大きく笑う。 「あぁ、よかった。エリナード、ご興味が変わられたのかと思いました」 「変わんねぇだろ、そんなもん。お前だっていつになってもイアン卿一筋だろうが」 「それとこれとは違いましょう?」 「違うのでしょうか、エルサリス。少し不安ですよ、私は」 「それは……イアン様……」 「はい、その辺で。ほれ、うちに帰りますよ。ヘッジさん、後は頼みます」 「あぁ……頼まれたよ……」 疲れ切った様相でヘッジが家宰を連れて退出する。そこでエリナードの雰囲気ががらりと変わった。肌に感じるほどの緊張。エルサリスは胸に手を置く。 「心配すんな、お前ら一家は俺が守るから」 笑顔すらいまは精悍。傍らに立つ弟子がいつでも師の用を務めようと軽く拳を握っていた。 |