ウルフが帰ってくるはずの日になっても彼は塔に戻らなかった。一日や二日のことならばサイファとて気にもしなかっただろう。だが幾らなんでも五日は長い。
「おかしい……」
 短刀でも預かっておけばよかった、と思う。そうすれば彼の居場所などたちどころに知ることができるのに。
 唇を噛んでサイファは呪文を唱えた。すっと彼の姿が薄れ、そして塔には誰もいなくなった。

 ひっと息を飲む音がした。数人の人間が腰を浮かして立ち上がりかける。
「無礼は詫びる。尋ねたいことがある」
 軽く一礼したサイファだったが、苛立ちは隠さなかった。
「ちょっとサイファ! アンタねぇ。礼儀ってもんがあるでしょ、礼儀ってもんが!」
「陛下! おやめください」
「君たちは黙っているように。で、サイファ? なんなのよ」
 目つき一つで臣下を黙らせアレクはサイファに近づいた。それだけでぴりぴりと肌が粟立つ気がする。サイファに攻撃される、とは思わなかったけれどそうしてもおかしくない雰囲気がいまの彼にはある。
「……若造はどうしてる」
「はい? 坊やだったら、とっくに帰――。帰ってないのね?」
「そうだ」
 すっとアレクの目が細まった。頭を一振りすればきつく編んだ金の髪が跳ね上がる。サイファの苛立ちがアレクにまで伝染したよう、唇を噛んだ。
「何日前に帰るはずだった」
「最低でも、五日前に」
「サイファ! もうちょっと早く捜せ」
「……羽を伸ばしたいこともあるだろうと、思った」
「坊主が?」
 言ってアレクは鼻で笑った。ウルフに限ってサイファの側を離れたがるはずはない。彼の一番の楽しみはサイファと共にあることなのだから。
 言わなかったアレクの言葉を察したのだろう、サイファは軽く顔をそむけてうつむいた。照れているのかと思えば見てはいけないものを見てしまった気になる。アレクもまた顔をそむけ、いまだ硬直したままの臣下に笑みを見せた。
「諸君。会議は無期延期だ」
「そんな、陛下!」
「なにを言おうと延期は決定。一刻も早い再開を願うのなら、サイリル王子を呼ぶように」
「はっ」
「あぁ、ついでだ。手数はあったほうがいい。メロールたちも呼んでくれ」
 臣下が足早に去っていく。不満顔のものももちろんいたが、アレクは意に介しもしなかった。
「……すまない」
「妙な遠慮はするな。……いやな予感がしなくもない」
「アレク」
 彼の言葉にサイファが顔色を変える。脆い人間が遭遇する嫌なものなど、考えたくなかった。
「違う。そうじゃない。悪かったな」
 軽く手を振ってアレクは否定した。気の立った半エルフに生命の損害を匂わす言葉など使ってはいけなかった、と内心に反省する。
 だがアレクはにやりとして椅子を勧めただけだった。サイファはそれに従うでもなくぼんやりと腰を下ろす。心ここにあらずか、と思えばいっそアレクは微笑ましい。
「陛下、お呼びでしょうか」
 最初に現れたのは、サイファの勧めでラクルーサに仕えることになった魔術師サリム・メロール。あからさまに訝しげな顔をしてはいなかったけれど、急な呼び出しには驚いたらしい。
 その目がいっそう丸くなる。メロールはサイファの姿を認め、そして何かを押し殺しているような顔つきに、心がおののいていた。
「リィ・サイファ……」
 呼び声に、サイファがはっと顔を上げた。今まで扉が開いたことにすら気づかなかった。
「久しぶり、と言うほど長くはないな」
「……はい」
 簡単な言葉を交わすだけなのに、サイファは絞り出すようそう言った。メロールはなにかやはり、恐ろしいことが起きているのだという気がして仕方ない。
「お前も。元気そうでなによりだ」
 サイファはメロールの背後に向けて言う。アルディアが、無言で頭を下げていた。
「リィ・サイファ。今日はお一人ですか?」
 メロールが飲んだ言葉をアルディアが放った。慌てて振り返って彼を止めようとしたけれど、すでに遅い。
「あぁ。一人だ」
 ぐっとサイファが拳を握り締めるのが見えてしまった。メロールは恐ろしさに震えそうになる。彼が、酷く傷ついている気がした。
「ウルフが、あなたを一人にしたりするはずはない。私は……そう思います。リィ・サイファ」
 漸うのことで言った言葉になぜか笑い声を上げたのはアレクだった。
「陛下?」
「いやねぇ、アンタたち。サイファが坊やに捨てられたのかも、なんて思っちゃったわけ? それは天地がひっくり返ってもありえないわねぇ」
「よせ、アレク」
 不意にサイファは眩暈を覚える。同時に、生気が返ってきた気がする。呆然としていては、ウルフの行方など知りようがない。再びぐっと拳を握った。
「アレク。どうしたの」
 丁度そのときになってシリルが現れる。王子に向かってメロールとアルディアは頭を下げ、そして集まった一行はテーブルを囲んだ。
「さて、どこから話したらいいのかしらー?」
「若造がいつ帰ったか聞かせろ」
「ちょっと待ってください、サイファ。ウルフがどうかしたんですか」
 事情もわからず呼び立てられたシリルに向かいサイファは歯を噛み鳴らさんばかりにして経緯を話す。半エルフたちがその剣幕に揃って青ざめていた。
「理解しました。ウルフが僕のところから帰ったのは、七日前です。そのまま帰ると言ってましたよ」
 ウルフがラクルーサを訪れたのは、シリルのためだった。彼にシャルマーク産の薬草を届けるのがそもそもの用事だった。ついでに二人で剣の稽古をして、帰ったのが七日前、と言うことになる。
「……では、そのあと何かがあったと見るべきだな」
「でしょう。ところで、アレク?」
「そうなの、ここでさっきの嫌な予感が登場するのよ」
 あからさまに溜息をつき、アレクは怒らないでね、とばかり上目遣いにサイファを見上げた。
 ふっとサイファの唇がほころぶ。これほど気遣われている。それがささくれ立った気持ちを少しずつ静めていった。
「あぁ」
 ゆっくりとうなずいた。焦っても、ウルフは帰らない。自分の意思で姿を消したとは考えられない。だからウルフは何かに巻き込まれて帰ることができないはず。
 ならばサイファに、そして仲間たちにできるのは彼を一瞬でも早く見つけ出すこと。あるべき場所に帰ることができるように。
「いまね、ミルテシアの使節としてここにきてる男がいるのよ」
「誰だ。今日の私は気が長くはない」
「いつだって短気じゃない」
 くっと笑ったアレクに向かい、サイファは悪戯に拳を振り上げる。そっとシリルに止められた。それに不満顔を返してから、にやりとする。
「そうそう、それでいいのよ、サイファ。全面的に協力はするから」
 うるさい、と言うことは簡単だったけれど、サイファはそれが思っていたよりずっと難しいことを知る。声は、でなかった。
 それに気づいた素振りも見せずアレクはゆっくりと息を吸う。それからサイファの手をとった。まるで、身動きを封じるように。
「ガストン卿って言うの」
「な……!」
「サイファ、落ち着いて! ガストンがなんかしたって決まったわけじゃない」
「決まっている!」
 サイファにとっては、自明のことだった。ウルフを、否、カルム王子を半エルフの元から取り返したがっていたガストン。彼のせいで一時二人は引き裂かれそうになったのだ。
「……思い出しただけでも腸が煮えくり返る」
 ぎりぎりと歯を鳴らして言うサイファを、半エルフたちが呆気に取られて見ていた。これほど感情の豊かな人だとは思ってもいなかった、とでも言いたげな顔。それを目を留めたアレクがにやりとする。
「サイファを怒らせないほうが健康のためよね?」
「……同感だけどね、アレク。本人の目の前でそれを言うかな?」
「いいじゃない、サイファだってわかってるわよ、そんなこと」
「あぁ、よくわかっているとも。私は元々温和な質ではないしな。報いは受けてもらおう、ガストン。もしも若造に傷一つでもつけていてみろ、殺されたほうが楽だと思うような目にあわせてくれる」
「サイファー。一応あの男は国家の使節なのよー? 証拠もなしにぶち殺したりしないでね?」
 にこやかな言うアレクにシリルが天を仰ぐ。半エルフたちは二人して顔を見合わせ、人間の考えはわからない、と首をひねっていた。証拠があれば惨殺してもいい、と言うのだろうか。
「収まらない、かな?」
「かもしれないな、アルディア」
「あぁ、俺は手伝いたいと思うけれど。でも」
 小声で言葉を交わす二人にアレクは視線を移しうなずいた。
「手伝って欲しいわね。と言うより、サイファの手足になりなさい。これは王命と思ってもらってかまわないわ」
「――は」
 頭を下げたもののメロールは軽い眩暈を覚えていた。この態度のおかしな王に仕え始めてからよく感じる眩暈だった。
「シリル」
「了解。ちょっと行ってくるよ」
「おい」
 サイファの声にはかまわずシリルは手を振って退席してしまった。ちらりとアレクを見ればしたり顔でうなずく。
「シリルには国境大河の調査に行ってもらった。ほんとだったら現場に行って欲しいけど、時間がないからとりあえずこっちに回ってきてる書類の調査ね、まずは」
「なにをしに?」
「ガストン卿は、一人できたわけじゃないのよ、もちろん。ミルテシアの使節団の一人としてラクルーサに入ったの」
「それは、わかっているが……」
「使節団の人数は把握してる、当然ね。ラクルーサに入ってからの人数は、把握してるの」
「……そういうことか」
 アレクはガストンの手のものが使節団に同行していたのではないか、それを疑ったらしい。国境大河とその周辺を調べれば、人数の変動を見つけられるかもしれない、そう思っているに違いなかった。





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