「殿下――」 きつく唇を噛みすぎて、気づかなかった。いつの間にか口の中に血の味がしている。拭いたくとも無様なまねはしたくなかった。 「こちらへ」 呆然としている間に、儀式は終了を見たらしい。大臣が何も言わなかったところを見ればどうやらそつなくこなしたのだろう、とヴァストは思う。自信はなかった。 大臣が、ラクルーサ側の従者を示す。どうやら城中で宴が始まるようだ。できればその前にカルムに一言申し渡したかったけれど、従者がいてはそれもできない。 「カルムは」 「すでに、王と共に城内に入りましてございます」 「――そうか」 正式なミルテシアの王子より、あちらを重んじるつもりか、ラクルーサ王は。ヴァストは思い、再び唇を噛みそうになって思いとどまった。 「手痛い先制を食らったな」 「は――」 「父王には、なんと報告するか」 「……ありのままに申し上げるより」 歩きながら小声で交わす。ヴァストもそれしかないと思ってはいた。だが、その報告をするのが自分でなければいいとも思う。老いた王に声を荒らげられるのは不快だった。 これがラクルーサの風なのだろうか。城の大広間はすでに人々が散っている。一際目立つのが当然若きアレクサンダー王だった。 「あの者――」 その側に、カルムと半エルフがいた。つかつかと寄って行くヴァストを大臣が必死で止める。無駄だった。 「アレクサンダー王」 「これはヴァスト王子。ヴェルーラ王は御不例と窺ったが、大事はないのだろうか」 「お心遣いありがたく」 あれは殺しても死ぬものか、と心の中でヴァストは罵り、その心のままカルムを見やる。あからさまにそっぽを向いている、弟を。 「お前の兄か、ミルテシアの王子と言うと?」 が、ヴァストが口を開くより先に半エルフが尋ねた。小さな声でうんだのまぁだの締まらない答えを返している。それにもヴァストは腹を立てる。 「アレクサンダー王、ご説明願えるものと期待しておりますが?」 「なにか不都合が? わが友に、共に祝って欲しいと願っただけのことですが?」 「友との仰せだが――」 「彼らは我が友。よく考えてからご発言を、王子。カルムもリィ・サイファも我が友。それがなにか?」 思わず圧された。屈辱に感じたときには遅かった。ヴァストはすでにうなずいてしまっている。どこからか溜息が聞こえた。かっとして振り向けば、リィ・サイファ。半エルフの相手など、そう思ったヴァストは末の弟を睨みつける。半エルフに相対するのを恐れたわけではない、と心に言いつつ。 「その――」 衣装は何か、言いかけた言葉が止まった。思わず息を飲み、唇を硬く結んでくるりと踵を返す。大臣が慌てて頭を下げ、あたふたと従った。 「坊主、よくやった。助かった。感謝する。礼を言う。もう、キスしちゃいたいくらい。ありがと、坊や」 「……よせ、アレク。途中から混ざってる」 「あら、やだわ。ごめん」 「完全に女言葉だ。その格好で気色悪い」 「少しは許せって。いや、本当に助かったよ、坊主、ありがとな」 「んー、俺? なんかやった?」 ぼんやりとカルム王子ことウルフは言う。本当はわかっているだろう、と目配せすればヴァストの目が届いていることをはばかったのか、ウルフは頼りなく笑みを浮かべるだけだった。 先ほどあまりにも王子らしいところを見せてしまったものだから、今までよりいっそう警戒されていることだろう、とウルフは思っている。だからこそ、できるときにヴァストを混乱させておきたかった。もっとも、この程度のことで謀れる、とも思ってはいなかったけれど。 そんなウルフの内心を悟ったのか、サイファの顔色が悪くなる。そっと手を握ればこくりとうなずいた。サイファらしい仕種では、なかった。人混みがいやなのかもしれない、とウルフは無力な自分が悔しい。 「お前がきてくれただけでも充分助かったがな、それは良かった」 二人の態度に、アレクがいささか大きすぎる華やかな声でそう言った。はっとしたよう、二人して背を伸ばすのが少しだけ、おかしかった。 「ん、服?」 「あぁ、最高だったよ、さっきの王子さんの顔」 くっと笑ってアレクが言うのに、サイファもつられて笑みが浮かぶ。 「もしかして、サイファですか?」 不意に背後から声がした。ようやく別の招待客の元から抜けてきたのだろう、シリルだった。疲れた顔をしているのはこの数日の忙しさのせいか。 「あぁ、そうだ」 こくりとうなずいて、従者から飲み物を取りシリルに手渡す。それにアレクが礼を言う。いつもとは逆でどこか楽しい。 「素晴らしいですね、一見飾りがないというのも良かった」 アレクと似たような顔をしてシリルが笑った。 「そうね。これ、真珠?」 「よせと言っているだろうに」 溜息をついても無駄だと知っていても出てしまうものは仕方ない。せいぜい他の人々に聞かれないことをサイファは願うだけだった。 アレクが指したのは、ウルフの胴着だった。ヴァストが先ほど見たよう、彼の胴着は飾り気が一切なかった。新鮮な白葡萄酒のような色合いが美しいものの、ただそれだけだ。が、近づいて見ればわかる。最前のヴァストのように。ミルテシアの紋章に描かれた花。ミルトの花が胴着一面に同色の糸でみっしりと刺繍され、その小さな花々の中心にはいったいどのような貝から採れたものか針の先で突いたほどの真珠の粒。よくよく見れば単純な額飾りにもミルトが彫り込まれていた。見る人が見ればわかる。花の数と形は、カルム個人を示す紋章だった。 「坊やもこういうもの着るとちゃんと王子様に見えるわね」 「だから俺はすぐにも脱ぎたいんだって」 溜息交じりなのは、カルムとして人前に顔をさらしているせいだろう。それ以上に、カルムであることをサイファが好まないせいだろう。そう思えばアレクの口許にもシリルの目許にも笑みが浮かぶ。 「俺なんかなに着たってそんなに変わんないよ。それよりさ」 「サイファ、珍しい格好ですよね。確かに」 「……お守り代わり、だそうだ」 苦汁を飲んで言ったとしか思えないサイファの声音に、兄弟が揃って笑い声を上げる。視線がちらりとサイファの裾へ。ぐるりと縫い取られているのはウルフ同様のミルトの花。こちらは黒糸で彼よりはっきりと刺繍してある。 「可愛いよね?」 「どこが?」 ウルフの問いに兄弟の答えが揃う。サイファの溜息がかぶさった。 「だって、凄い可愛いよ?」 「だから、どこが?」 また、声が重なった。ウルフはきょとんとしてサイファを振り返る。心底不思議、と思っているらしい表情にサイファは重ね重ね溜息をつく。 「だってさ、俺とお揃いだし」 「どこが?」 「んー、色?」 「だから、どこが?」 サイファは再三再四溜息ばかりをついていた。色などどこも同じではない。ウルフと同じ色合いを着るなどごめんだった。 彼がいや、なのではない。淡い色は身につけたくないだけのこと。だからサイファがまとった色は年古りた赤葡萄酒の色。ウルフはそれを同じ、と言っていた。が、説明してやるのも面倒でサイファはどこかを見ている。 「それにさ、形もいつものローブじゃなくて可愛いし」 確かに形は変えていた。どちらかといえば人間の長衣風。ぴったりと上半身から腰までを覆い、そこから下は緩やかに足首まで流れるよう落ちていく。 「どっちかって言ったらドレスっぽいわよね」 「女装は兄さんの専門でしょ」 「ちょっと、アタシ王様よ? もうちょっと口のききかたに気をつけなさいよね」 「その口調を改めてくれたらね」 軽くいなしてシリルが笑った。 「それにさ」 「坊や、まだあるの」 「あるよ! 凄い珍しいじゃん、サイファがレースだよ? 絶対可愛いよ!」 言ってウルフがその腕を取る。きつく覆った腕の先、雪より白いレースが手指まで隠していた。アレクが呟く。 「正に、ドレス」 小さな声はサイファに聞こえた。が、言い返す気にもならない。 「ほら、可愛いでしょ?」 ウルフがこれでは、なにを言う気にもなれなかった。体中から息が尽きてしまうのではないかと疑いたくなるほど、溜息ばかりついている。 「だから、どこが?」 兄弟が揃って問うた。少しばかりわざとやっているのではないか、サイファは思う。思うだけで口にする気力はなかった。 「強いて言えば……」 「言えば?」 「全部?」 「坊や、そういうの、惚気って言うのよ」 「うん、知ってる。でも可愛いでしょ?」 「正直に言っていいかしら?」 「いいけど?」 不思議そうに首をかしげるウルフに、アレクのこめかみが引きつっていた。戴冠したばかりの王がこれでは周囲が不安に思うだろう、とサイファは考えはした。が、口から出たのはやはり溜息。 「アタシが今のサイファを形容するなら『可愛い』より『男らしい』よ」 「ちょっと、アレク。絶対おかしいよ!」 「ごめんね、ウルフ。僕にもアレクが正しく思えるよ……」 どうやらシリルまでサイファ並みに脱力してきたらしい。力なくシリルを見やれば、同情も露な視線が返ってきた。 「えー、おかしいなぁ。凄い可愛いのに」 そう言ってウルフはレースに覆われたサイファの手をとる。繊細なレースから細い指が覗く様など確かに一見女性風。が、間違ってもサイファを可愛いと表現する者はいないだろう、ウルフ以外には。この大広間に列する人すべて、誰に問うても決して可愛いという形容詞だけは出てこないに違いない。むしろ頻出するのは精悍、あるいは凛々しい雄々しい勇ましい。女性的な形の衣装をまとっているからこそ、サイファの持つ男の剽悍さが匂い立つ。見るまでもない、普段は半エルフを恐れる人間たちも、サイファに惹きつけられている。ことに、女性は。 「こんなに可愛いのにね、サイファ?」 一人ウルフだけがそのようなことを言う。もう溜息も出なくなったサイファを兄弟が同情をたっぷりとこめて笑う。それに反論するウルフ、止めるシリル。いつものことだった。変わったのはアレクの上に王冠があることだけ。それすらも彼らにとってはなんの変化もないと同じこと。それを誰もが感じていた。きっと穏やかなよい国になる、とも。列席者が微笑ましげにシャルマークの四英雄を見守っていた。 |