「サイファ。問題が起きた」
 その日。塔を訪れたアレクは珍しくシリルを伴っていなかった。それ以上にサイファに訝しい思いを抱かせたのは、彼のその口調。ごく当たり前の男の声と話し方だった。
「珍しいね、アレクが普通に喋ってる」
 笑いながら言うウルフにアレクは一瞥をくれ、無言で唇を引き締める。不意にサイファは嫌な予感がした。
「アレク――」
「いや、シリルじゃない。シリルじゃないんだが、シリルにも関係がある」
「もう少しはっきり言え。わからん」
 もしやシリルに何事かが起こったのか、と不安になったサイファにアレクは手を振り否定する。仲間を案じるサイファに少しだけ笑って見せながらだった。
「あぁ……すまないな。悪い。俺も少し、混乱して――」
 詫びた言葉が宙に浮いた。アレクは思わず口許に手をやり、手にしたものを見やる。
「おい」
「ん、サイファ。どうかした?」
「茶だ」
「あぁ……。ごめん、ちょっと零しちゃってさ。俺が淹れなおしたんだ」
 照れて笑っているウルフをアレクはねめつけ、溜息をつくサイファに同情の視線を送る。
「すまんな、アレク。淹れなおそう、私が」
「そうしてくれ」
「すまん」
 心からすまなそうにされてしまっては、これ以上なぶることもできない。これを茶だと言い張るウルフ一人がきょとんとしていた。
「それで、いったいなにがあった?」
 改めてサイファの茶を一口すする。同じ葉を使っているはずなのに、まったく別物だった。少なくともこちらは上質の茶の味がする。
「うちの話、知らないか?」
「お前ら兄弟の? 特に――」
「そうじゃないって。ラクルーサの、だ」
 苦笑いをするアレクにサイファは首をかしげた。知らないわけではないが、それがどうした、とでも言っているようで少しおかしい。
「ま、半エルフのアンタにゃ関係ない話だよな」
「アレク。国でなんかあったの?」
「こればっかは坊主のほうが適任かもな」
「ちょっと待ってよ、なんか嫌な話っぽいじゃんか」
「まるっきり嫌な話だぜ」
 にたり、アレクが笑う。ようやくサイファは気づく、彼の頬が窶れきっていることに。
「兄王が死んだ」
 ぼんやりと彼を見ていたサイファには、わからなかった。なぜウルフが息を飲んだのかが。
「ウルフ?」
「あぁ、そっか。半エルフか……」
「お前まで――」
「いや、ごめん。そうじゃなくってさ。あんた、わかんないでしょ、国の王様が死んじゃったらどうなるのかなんて」
「それは――」
 わからない、とは言いたくなかった。わかりたいと思ってもいない、と言い張りたかった。だがそれではあまりにもウルフじみていてやりにくい。
 そんなサイファの心の動きを感じ取ったかのよう、二人が笑っていた。
「アレク、ラクルーサ王は結婚してなかったっけ?」
「あー、してる。子供もちゃんといる」
「じゃ問題――」
「大ありだ。跡継ぎはまだ五歳のガキだぞ。王妃の実家はラクルーサの有力貴族だ。幼児が王座についたらどうなる、坊主?」
「貴族の手に実権が渡るってやつ?」
「そういうこと。さすがミルテシアのカルム殿下」
「嫌がらせだってーの、それ」
 すらすらとまるで当たり前のことのよう話しているウルフが不思議だった、サイファは。アレクに指摘されてはじめて気づく、これもまた王家の者。視線を感じてそちらを見れば、アレクが片目をつぶっていた。
「で?」
 アレクのからかいを感じはしたがサイファは無視することに決め、話の続きを促す。無視された本人が小さく笑った。
「私になんの相談だ。子供の面倒をみろ、とでも?」
「アンタにそんな無茶いうもんか」
「けっこう適任かもよ? サイファ、ちゃんと俺の相手してくれるもん」
「あぁ、そうよねぇ。坊やってばお子様だものねぇ」
「アレク!」
「怒るな、先に茶化したのはお前だぞ、坊主。でな、サイファ、どーやら俺の頭の上に王冠が転がり込んできそうなんだな、これが」
 そう言ってアレクはぱちりと目をつぶった。茶化した仕種とは裏腹の疲れた顔だった。
「お前の?」
「アレクが王様?」
 二人の声が重なる。思わず顔を見合わせ、同時に首をひねる。それをアレクが笑うのも、やはり精彩に欠けている。
 いつものアレク、を演じているような気がしてたまらないサイファはゆっくりと息をする。そうして気づいた。はじめからわかっていたことかもしれない。この男の、友の手助けをしたい、と。
「お前が国王か。悪くはないだろうな」
 言葉の裏側でサイファは言う。できることならば力になる、と。アレクは無言で微笑んだだけだった。それでも伝わる思い。
 二人の間に通い合ったものに、ウルフがわずかばかり頬を膨らませてむくれた。
「アレク。ちっちゃい王子様はどうするの」
 サイファに気づかれないよう、ウルフは両手でそっと仕種する。
「まさか。殺っちまっちゃまずい」
「アレク!」
「……ウルフ、お前」
「サイファ、ちょっと待って! 俺は悪くないってば! 王家では普通にあることなんだってば! アレクがするとも思ってないって!」
「ほう? では、なぜ、たずねた。あえて?」
 ゆっくりきちんと区切って言うのは、ウルフの理解力をあげつらってのことだった。このような話し方をするときのサイファは危ない、それを充分に理解しているウルフは助けを求める。アレクには知らん顔をされた。
「だから! そのことであんたに助けて欲しいのかなって! あんただったら小さな王子を匿うことだってできるでしょ」
「――なるほど。多少は頭を使っているらしい質問だった、と解釈する」
「ありがと」
 がっくりと疲れて肩を落とすウルフをアレクは大笑いした。それで少し、気が晴れる。いまのアレクには気晴らしが必要だとわかっていてウルフがあのような話をした、そんな気がしてならなかった。
「坊主もさすが王子殿下だな」
「だからやめてってば」
「許せよ、実はなウルフ。俺はお前に頼みがある」
 軽く手を振ってアレクは言った。それが表情を隠す仕種にサイファは見え、不安になる。それは的中した。
「お前が必要だ。ウルフじゃなく、カルム王子が」
「ちょっと待て、アレク! それは無理」
「無理じゃない。お前の追放をラクルーサが認めない、それだけのこと。俺は弱い王だ。中継ぎで、王妃も持たない王権の弱い王だ。だからこそミルテシア相手に弱腰にはなれない、お前にはわかるはずだ、カルム王子」
「……わかんないよって言えりゃ、楽なんだけどね」
「物分りがいい子って、好きよ。アタシ」
 女言葉にサイファは眩暈がした。たぶん、アレクの女言葉に、だ。けれど本当にそうだろうか、と我が身の内を疑っていた。
 ウルフの理解力、話す内容。アレクの要請。それがウルフがウルフではない別人のように思える。そこからきた眩暈だったのかもしれない。
「アレク、本音を吐け」
「嫌ね、サイファってば。アタシはいつも真剣よ?」
「その言葉遣いが曲者だ、と私はすでに知っているのだがな。言う気がないならウルフは貸さん」
「――シリルだ」
 実にあっさりとアレクは吐いた。あるいははじめから言うつもりだったのかもしれない。いままで渋っていたのは言いたくなかったせいか。
「シリル?」
「あぁ……、どう話したもんかな」
「そっか、シリルか」
「ウルフ?」
「ごめんね、サイファ。あんたがカルムを好きじゃないことは知ってるんだけどさ」
 言って頼りない顔をウルフはした。だからここにいるのはウルフだった。ウルフのもう一つの顔がカルムであるならばまだ、耐えられる。サイファはそっと彼に手を伸ばし、指先を掴む。
「俺はカルムでもある」
 サイファの指を握ったまま静かにウルフは言う。奇怪なほど、静かでそれが彼のカルムの顔なのだ、とサイファは知る。知りたくはなかった。
「だからね、アレクの悩みがある程度は想像できる。アレクが悩んでるのはさ、こういうことだと思うんだよね。シリルってさ、マルサド神の神官じゃん? もうすぐもっと偉くなるよね、きっと。その上王家の守護者でもあったりしてさ、シリルって意外と大変なんだと思う。アレクとしてはその上に王冠まで乗っけちゃうなんて嫌だって、そんなとこじゃない?」
「……的確すぎて言葉もないな。意外だ、坊主」
「うるさいなー。俺だって馬鹿じゃないんだって」
「本当に?」
 くすり、笑ってアレクがウルフをからかった。言いあいを始めた二人を前にしてサイファは不思議だった。その訝しげな顔に気づいたのは、当然と言おうかアレク。
「サイファ?」
「あぁ、いや、少しな。不思議で」
「坊やが?」
「そうではない。なぜ、シリルなんだ? お前が心配するのは当然として」
「坊主がしたのは仮に俺が王冠を蹴飛ばしたらって話さ」
「そう、なのか?」
「うん。まぁね」
 苦笑するウルフに、サイファは唇を引き結ぶ。やはりいつものウルフのほうがずっとよかった。溜息まじりの吐息に、それを感じたのだろう、繋いだままの手を彼が握り締める。
「だからさ、サイファ。アレクの手助けをしないと俺はウルフに戻れない。さっさとやろうよ」
「あら、偉そうじゃない? 坊やってば、いやねぇ。大人になっちゃって」
 茶化したアレクに掴みかかるウルフの手は、あっさりと払い落とされた。じゃれつくウルフを巧みにかわしつつ、アレクはサイファに目配せをする。視線が詫びていた。





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