難しい顔をしてカロルとリオンの部屋に入っていったシェイティのあとをこっそり気づかれないようにつけていたタイラントは小さく溜息をつく。 「君が、好きなんだけどな」 何かに悩んでいるらしいのはわかっている。もしかしたら自分のことを後悔しているのかもしれないとまでも思う。思ったそばから否定していくけれど、不安だけがたまっていく。 と、二人の部屋からリオンだけが出てきた。思わず壁の影に隠れたタイラントのほうにまっすぐリオンは歩いてきた。 「こんにちは、タイラント。どうしたんですか?」 にっこり笑った神官だった。この人を相手に隠れようとすること自体がそもそも無駄だった、とタイラントは恥ずかしくなる。 「あの、いえ、その……」 「フェリクスをつけてきた?」 やはり微笑んだまま言われてしまった。とっくに気づかれている。そこでタイラントは青くなる。 「あぁ、カロルですか? 勘のいい人ですからね、気がついていると思いますよ。どうします?」 「逃げます」 ついうっかり言ってしまった言葉にリオンが大きく声をたてずに笑った。情けなさに身の置き所がなくなったタイラントはせめても、とその場で縮こまる。 「では一緒に逃げましょうか。フェリクスがご機嫌斜めですからねぇ。逃げたいです、私」 いったいどんな顔をして部屋に入っていったのか、恐ろしくなってきたタイラントだったが、これはいい機会だと思い直す。 「あの、リオン様」 「なんです?」 返事をしながら内心でリオンは困った人だ、と思っていた。呼び捨てでかまわない、と言っているにもかかわらずこうしていつになっても敬称をつけてくる。どことなく距離があるようで寂しい。 「リオン様に、ご相談があるんです。お時間を、いただけますか?」 もじもじと両手の指を胸の前でつき合わせているタイラントが、もしもうら若き乙女であるならば可愛らしいのだろうか。少なくともタイラントは可愛くはない、とリオンは思う。だからにっこりと笑った。 「いいですよ。ただし、リオン様、をやめてもらいましょうか。あなたが他でどう呼ぼうが関知するところではないです、私。でも面と向かってはやめてください」 「そんな!」 「だめだったら聞いてあげません」 星花宮に住み暮らすようになって、タイラントも気づいている。リオンの温顔がただの見せ掛けだと言うことに。 そこまで言ってしまっては語弊もあるのだろう。だがしかし、ただの優しい神官などでは断じてない。むしろ柔らかな言葉遣いと笑顔に誤魔化されているだけだと思う。言うべきことはしっかり言うリオンであったし、内容とくればかなりなところで辛辣だった。 「わかりました。お願いします、その。リオン」 「はいはい、いいですよ、ご相談に乗りましょ。なんと言ってもあなたはメイザの信徒ですし、我々は一門の同士でもありますしね」 やはり笑ったリオンにタイラントは騙された気がした。もしかしたらリオン様と呼んだままでも相談に乗ってもらえたような気がしてならない。ぎこちなく笑って、けれどタイラントは忘れて次に進むことにした。 「それでなんのご相談です?」 二人は小さな部屋に移っていた。タイラントたちの部屋でも廊下でもない。うっかり戻ってきたシェイティに鉢合わせてしまうのもぞっとしなかったし、人に聞かれてはなおのこと困る話題だ。 星花宮に点在する、そもそもがなんの用途かよくわからない部屋に移動している。いまはささやかな会合や茶会に使われている。その扉をしっかりと閉めてからタイラントは振り返る。 「あ、すみません」 見ればテーブルの上に茶の用意がされていた。茶器など持ってきた覚えはないからリオンが魔法で転移させたものだろう。 「いえいえ、喉が乾いただけですよ。気になさらずに」 そう言いつつ優しい笑顔でリオンは茶を勧めてくれた。ありがたく口に含めばリオンの外見のように優しい味がした。 「それで、タイラント?」 「あの、その……えーと」 「やっぱりやめておこうかな、と思ったならそれでもかまいませんよ、私。ただ、あなたが話す気があるのなら、いつでも聞く準備はできていますから」 「あ、はい! 話します、話します!」 なんだか急かされているような気がしてしまったのは、たぶん気のせいだ。みっともないためらいを見抜かれているのかもしれない、と思うのも疚しいところがあるからだ。タイラントはごくりと唾を飲み込みリオンの顔を見つめる。見つめたと思ったはずなのに、気づけばうつむいていた。 「リオン様……じゃなくって、その、リオン。変なこと、伺ってもいいですか?」 「聞く準備はできているって言いましたよ」 「だったら、その! あの! ここで話すことって……」 「あなたが望まないなら他言はしませんよ、私。これでも神官ですからね。信徒の秘密を守るのもお役目のうちですから」 にこりと笑ってリオンは首をかしげて見せる。それは信じるかどうかはタイラント次第だとでも言っているようで、信じるしかないのだと言うことを彼に見せ付けた。 「だったら、思い切って、伺います。その、シェイティって、昔……言いたくないような仕事、してたんですよね」 ぽつりと言ってタイラントは座った膝の上で拳を握った。伏せた視線にリオンの鋭く光った眼差しは映らない。 「ごめんなさい、その、カロル様も、同じ仕事、してらしたんですよね」 「それがどうかしましたか、タイラント」 「いえ、全然!」 一瞬のうちに冷ややかになったリオンの声にタイラントは慌てる。勢いよく顔をあげたことにこそリオンのほうが驚いたらしい。目を丸くしていた。 「あぁ、いえ。すみません。私の勘違いと言うか、気のまわしすぎだったようですね。念のために忠告しておきますが、タイラント」 「言われるまでもありません。絶対誰にも言いません」 「うん、賢明です。まぁ、城内ではそれなりに有名な話ですけどね、本人たちもいまさら話題沸騰、なんてことになって楽しいはずがありませんし」 なぜそれほど有名な話なのか、リオンは語らなかった。タイラントが知らないならばフェリクスが話していないということ。ならば自分が話すようなことではない。そこまでお節介な性質ではない、とリオン本人は思っている。 「はい。それは、その。前置きと言うか、なんというか。前提として大事なことなんではあるんですけど、その」 「タイラント。あなた、フェリクスに話がまどろこしいと言われたことないですか」 「……よくあります」 恨めしそうにしたタイラントにリオンは笑って見せ、そのことでタイラントの肩から力が抜けたのだろう。深く息を吐いて決然とする。 「リオン様……じゃなくて、リオン」 「あぁ、タイラント。もういいです。そんなに言いにくかったらいつもどおりでいいですよ、ちょっと面倒になってきました、私」 「あ、はい! ありがとうございます! 以前お世話になって今もまだご面倒をかけているリオン様を呼び捨てにするのは、ちょっと」 照れたよう額のあたりを押さえたタイラントは情けなさそうに笑って見せた。ついでとばかり、やはり照れ隠しなのだろう、いまはひとつに結んでいる銀髪からこぼれてきた一筋を乱暴に背中に弾く。 「リオン様」 「はい?」 「カロル様と、その、寝室で過ごすとき、どんな気持ちですか」 まさかタイラントは知らない。今現在、フェリクスがカロルに対して同じ質問をしているとは。リオンも知らなかった。が、こちらは見当がついている。フェリクスとはそれなりに長い付き合いだ、あの表情を見ればなにが言いたいかわからなくもなくはない。 「ははぁ……」 どうやらカロルと二人、フェリクスとタイラントの寝室事情の相談とやらに乗らねばならないらしい。放っておいたほうが面白そうではあるのだが、それではいささかタイラントが憐れ、かもしれない。 「どんなって聞かれましてもねぇ。つまり抱き合っていて何を感じるかと言うことでしょう? それはもう、気持ちがいいとしか言いようがなくないですか?」 ほとんど同じ答えをカロルがしたのをリオンは知らない。温顔で優しい人格者の神官のリオン、罵詈雑言の源泉、暴言の温床とも言われるカロル。本当のところでよく似た二人だというのは幸いなことに多くの人が知る事実ではなかった。 「あ、いや! それは、その!」 「あなたの不安は、フェリクスが以前男娼であったと言うことですか? あなたが欲しいのは彼の体ではないのに、そう思われてしまうかもしれないこと? フェリクスの事はわかりません、私。ですが、少なくとも私の銀の星だって、最初は怖がりましたよ?」 「怖がった!」 よもやあのカロルが。黒衣の魔導師が。ありえない、と正気の心は否定する。けれど目の前のカロルの伴侶が事実だと笑顔で告げている。 「だって、当然じゃないですか。カロルに愛されてるんです、私。だからその愛しい私にどう思われるか、カロルだって怖かったんです。当たり前のことだと、思いませんか?」 タイラントは言葉を返せない。タイラントはシェイティの過去などまるで気にしていないと言ったら大嘘になるけれど、それは痛ましいとか悔しいとかいった気持ちに近いだけであって、不快や下劣と思ったことは断じてない。少なくとも、いまは。 だから自分がシェイティに触れることばかりを考えていた。触れたい。好きだから、触れ合いたい、抱き合いたい。それは自然なことだと思う。 けれど触れられたシェイティが嫌かもしれない、そのことばかりを考えていた。かつては望まない性の奉仕を課せられていた彼。いまタイラントに触れられることを望むだろうか。望まないのではないか、そう思えば怖くなる。 もしもシェイティが望まないならば、タイラントは生涯、彼に触れなくてもかまわない。それは確かに惜しいし寂しい。好きな人に触れられないのはつらい。だが、好きな人を苦しめるほうがもっとずっと遥かにつらい。 ――そう、思っていたのに。 「怖い……」 「そうですよ? カロルにはフェリクスと同じ過去があります。あの人は優しい人ですし、あの人は何をしても私を許してしまいます。たとえ自分が望まないことでもね。本人は認めませんよ? でも自分が好きじゃないことでも私がしたいって言ったらいいよって言うのがあの人です。わかりますか、タイラント?」 唇を噛みしめて必死に考えているらしいタイラントの前に新しく注いだ茶を差し出し、リオンは微笑む。 「フェリクス、言うまでもない気がしますけどね、あの人にとてもよく似ています。本当になんと言ったらいいか、精神的な親子とでも言いたくなるくらいよく似ています」 「シェイティも、なんでしょうか……」 「たぶんね。うん、あなた、わかってませんね。タイラント、私の銀の星が、あなたのシェイティが、何を怖がっていたのか、いるのか、わかってません」 「え……?」 抱き合うことそのものが、怖い。そうではないのだろうか。なぜならば彼にはそれを厭うだけの過去があるのだから。けれど目の前でリオンはゆっくりと首を振っていた。 「言いましたよ、私。カロルは私にどう思われるかが、怖かったんです。フェリクスはどうなんです? フェリクスは私のあの人よりずっと変なところで世間知らずです。ごく当たり前の反応や、普通の恋人同士だってするはずの駆け引き、寝室での技法なんかが、怖いんです」 「怖い……」 「そうですよ。それが昔の仕事を思わせるから、じゃないですよ?」 「え! 違うんですか!」 「違うに決まっているじゃないですか。ほらね、タイラント。あなたのそれが怖いんです」 「え……」 呆然としてタイラントは意味もなく茶のカップを手に取る。厚手のカップは酷く熱くて驚いた拍子に正気に返った。 「フェリクスが怖いのはね、タイラント。自分がどういう反応をしようがあなたを喜ばせようが、過去の仕事のせいで反射的にそうしているのではないかと思われるかもしれない、それですよ」 少なくともカロルはそうでしたから。にっこり笑ってリオンに言われ、ようやくとんでもないことを尋ね、答えてくれたものだとタイラントに実感が湧き上がる。 「それでタイラント? あなたはどうしますか?」 いままでにされたリオンの問いの中でも最も難しいものではないか、とタイラントは思う。答えはわかっている。簡単なことだ。それを実行できるかどうかが、難しい。 本当は、難しいことなどではないのかもしれない。少なくともリオンにとっては簡単なことだろう。けれど自分だった。あれほどシェイティを痛めつけ苦しめ続けた自分だった。 タイラントは詩人らしく竪琴を弾くための胼胝のできた手を見つめる。以前、誓った。この手も喉も命すらも君のもの。 「シェイティの全部を、当たり前のことだって受け入れます」 だから、できると約束しなければならない。自分のためではなく、相談に乗ってくれたリオンのためでもなく、こんな自分を好きでいてくれているシェイティのために。 「うん、そうしてください」 にこり、笑ったリオンに励まされてまだ熱い茶をタイラントはあおる。清々しい香りがして、心が強くなった気がした。 「それとタイラント?」 「はい?」 「大変不本意ながら、こんな相談に乗ってしまった私ですが。できれば今後は当人同士で解決してくださいね」 「え、いや……その! できればやってるって言うか!」 「努力してください。兄弟子の寝室事情を知っちゃうのなんて、いくらなんでも照れくさいんですよ、私だって」 言われてはじめて気づいたとばかりタイラントが椅子から飛び上がる。確かにそうだった。うっかり神官様に内緒の相談のような気がしてしまったけれど、紛れもなくシェイティの弟弟子だった。そこでタイラントがもうひとつの事に気づいて青くなる。 「ですから、私の気恥ずかしさをあなたにも共有していただきますからね」 殊勝に聞いてしまった。完全に失念して伺ってしまった。が、怖いのなんのや、かなりきわどい寝室の話題を聞いてしまった気がする。カロルの。黒衣の魔導師の。星花宮における恐怖の象徴、その具現の。シェイティが悪魔なら、メロール・カロリナは悪魔の親玉だ。 「このことをフェリクスに話すかどうかは、あなたの判断に任せますよ、タイラント」 蒼白になったタイラントを置いてリオンは部屋を優雅に立ち去った。茶のカップを割れんばかりに握り締めたタイラントは一人わなわなと震えている。 「話せるわけないじゃないかぁ!!」 吟遊詩人の豊かな絶叫は、生憎なのか幸いなのか誰の耳にもとまらなかった。ここは星花宮。悲鳴くらいで足を止める魔術師はいない。 |