扉を叩き返答を待つこともせず入ってきたフェリクスは、ずいぶん酷い顔をしてカロルを見つめた。 「話があるの」 一言だけを言い、カロルの傍らに座っていたリオンを睨み据える。無言の圧力に屈したわけでもなかったが、リオンはにこりと笑って退出した。 「で?」 正直に言えば、フェリクスのリオンに対する態度が気に入らない。最初の数年を除けばこのところはそれなりに良好な関係だったはずだ。もっとも、そう思っているのはカロル一人だったのかもしれないが。 「聞きたいことがあるの……」 むっつりと言いながらフェリクスはカロルの前のソファに浅く腰を下ろす。それでカロルにもわかった。 どうやら聞きにくい何かが聞きたいらしい。本人も好きでしていることではないのだろう、と。軽く唇を噛む愛弟子を内心で小さく笑う。いつまで経っても手のかかるやつだ、と。 「だから言えっていってんだろうが。テメェが言い出さなきゃ俺にはちっともわかんねェだろうがよ」 「だから! いま言うから待っててよ! 僕にだって言いにくいことも聞きにくいこともあるの、それくらい見当つかないわけ、ダメ師匠!」 「うっせェぞ、コラ」 腹を立てたふりをしてカロルは言い放ち、心の中では大笑いしている。本当にいつまで経っても子供のような弟子だった。 「いいからさっさと言え。こっちもそれなりに忙しい身の上だ。テメェの相手ばっかしてられっか」 鼻を鳴らして立ち上がるそぶりを見せれば慌てたよう視線が動く。それを見てカロルの目に笑みが浮かべば、フェリクスは悔しそうに更に唇を噛んだ。 「カロル――」 「なんだよ」 「あなたさ――」 「うん?」 「……はじめてのとき、どうした?」 「はい?」 思いっきり間の抜けた声を上げてしまってカロルは内心で頭を抱えたくなった。目をそらしてもフェリクスの貫くような視線を感じている。 「だから!」 「テメェなぁ……」 長い溜息をついておいて時間を稼げば、そんなことはお見通しだと言わんばかりに今度はフェリクスが鼻を鳴らした。 「あのな、馬鹿弟子。テメェ。俺とリオンのはじめてなんざァ見て知ってんだろうがよ」 ちらりと横目に視線を流す。照れているとも色気があるとも言える。むしろフェリクスは昔の稼業を思い出す。 「……知らないわけじゃ、ないけど」 ずいぶん前のことのような気がした。カロルに無理やり精神を繋がれて、自分のすべてを見られた。同じくらいカロルのことも見てしまった。忘れようとしても忘れられるものではない。 「だったらよ」 「そうじゃなくて!」 「なんだよ」 「……認めたくないけど、あなたはリオンが好きなんでしょ。だったら、リオンに抱かれていかされて、どんな気持ちなの」 「そりゃ……いー気持ちとしか言いようがなくねェか?」 カロルは実のところ心の底から困っていた。できることならば話を切り上げてしまいたい。が、目の前の弟子が同じくらい困っていることも理解できているだけにそうはしがたい。 「どうして?」 「そりゃ、惚れてるから? あのな、フェリクス。テメェはどうなんだよ、あん? テメェはテメェの男に抱かれてどう思うのか、まずそれをきっちり聞かせてもらおうか、え?」 そんなもの誰が聞きたいものか、とカロルは心の中でだけ罵る。無駄な艶話ならばともかく我が弟子の実体験だ。腹の中がむずむずとしてたまらない。 「わからないの。わからないから、聞きにきてるの!」 「おい……」 「ねぇ、カロル。僕はどうしたらいいの。ベッドの中でどんな態度をしてればいいのかわからない。どういう振る舞いが正しいのか全然わからない!」 「……おい」 「なに!」 「呆れていいか?」 言った途端、憤然とフェリクスが立ち上がりそうになる。予想していたカロルは一息で飛び掛り、その肩を押さえつけて座らせた。 「だって、僕は――!」 「いま茶ァ淹れてやっから、ちっと待ってろ」 「そんなの要らないから、カロル!」 「いいから待ってろ」 一言で抑えつければ、この意外と素直な弟子は黙ってじっとしていた。うつむき加減の頬の辺りに影がある気がして、タイラントをこそ殴るべきか、とカロルは思う。 いったいあの派手な吟遊詩人はフェリクスに何をしたのか。あるいは、何もしなかったのか。してもしなくても悩むだろうフェリクスの気持ちというものをどう考えているのかとことん説教したくなってくる。 「ほれ」 厚手のカップにたっぷりと注いだ香草茶を目の前に突き出され、フェリクスは目をみはる。いたたまれなくてぼんやりしていた自分がそこにいた。 「ちょっと、何してるの」 不意に体が傾いで、隣にはカロルが座っていた。まだ熱い茶を吹き冷ましながら、そ知らぬ顔をしている。 「あのな、話題を考えろ話題を。こんなこと面ァつき合わせながら喋れっかよ」 隣に座っているにもかかわらず、決して目を合わせようとはせずカロルは遠くを見たまま言う。 「……もっともだね」 「だろ?」 すぐそこに、カロルの体があった。仄かな温もりが伝わってくる気がして妙に心が和らいだ。熱い茶を一口含む。 こんなとき、自分はどこまでもだめな弟子だと思う。いずれ勝つだの抜かして見せるだの言っておきながら、この期に及んでまだ師を頼っている。 「ったくよ、テメェは結婚前夜の乙女かってーの。で、俺はテメェの母親か? 何が悲しくて男の師匠が男の弟子に寝室の作法を教えなきゃなんねーんだっつーの」 「誰にも聞けないからに決まってるでしょ」 「まぁな。そりゃそうだがよ、フェリクス。テメェ幾つだ、え? なんでその年になって性教育がいるんだ、テメェは半エルフかよ」 「半エルフだったら僕はまだ立派な幼児の歳だよ。ねぇ、カロル、いい加減に――」 「はいはい、わかりましたよ。で、なに?」 「だから!」 「あのな、馬鹿弟子。まず大事なところだ。テメェはどうしたいんだ、あん?」 「僕……?」 「おうよ」 きょとんとしたらしい気配にカロルは溜息をつきたくなってきた。 「端的に聞こうか、テメェはあの野郎に抱かれてェのか嫌なのか、どっちだ?」 「な……! その、嫌じゃ、ないけど……けど」 「けど?」 「……嫌じゃ、ない」 言いたいことがあるならばはっきり言えとばかりの気配にフェリクスは言葉を濁すことをやめた。元々いいところも悪いところも全部知っている相手に誤魔化しても仕方ない。時間の無駄だ、と内心に言い聞かせる。 そのフェリクスの心の動きがカロルには手にとるようにわかっていた。精神を触れさせているわけではない。年の功とでも言おうか。リオン辺りに言わせれば、最愛の愛弟子のことなのだから、と言うだろうが。 「じゃあ次だ。抱かれても嫌じゃねェだけか? もっと積極的に抱かれてェか?」 背筋の辺りがざわざわしつつもカロルは顔色を変えずに尋ねる。つくづく自分の師匠が半エルフでよかった。少なくともこんな質問をされることはない。 「……カロルは、どっちだった?」 「俺か?」 「はじめてのとき……」 「テメェも見てんだろうが。あれはその場の勢いと物の弾みだ。うっかり押し倒されてうっかり楽しんじまった。それだけだ」 「それ! それが、わからないの、どうして?」 「あん?」 不意にばつが悪くなる。もしくは何かに詫びたくなる。あれはもしかしたら一目惚れであったのかもしれない。だから反応したのかもしれない。馬鹿馬鹿しい戯言だ。圧し掛かられて流されて、楽しんだ事実に違いはない。それでも少しだけ、そんな幻想を信じたい。 はじめて抱かれたあの日。異常な場所で異常な精神状態で、異常な疲労だった。何もかもありえなかったのに、抱かれた体だけは過去のように反応した。触れられれば快楽を覚える体。自分のためにではなく客のために。それでもあの日はかつて覚えがないほど自分も楽しんだ。リオンだったからだ、と思いたい。あるいは、あの塔に充満する血の臭いに酔ったのだとでも思いたい。 ようやくカロルも思い出した。自分とフェリクスの過去の稼業における経験の差。まだ子供だったフェリクスは触れられて反射的に反応するほど快楽に慣らされてはいなかった。それがいいか悪いかはこの際横に置くとして。 「そんなこたァわからなくっていい」 どれほど遠い横に置いたとしても、カロルにはそうとしか言えなかった。そんな体はフェリクスには必要ない。非常に不本意だが、フェリクスが選んだタイラントにだけ、反応すればいい。 「それは俺とテメェの経験の差ってやつだ。テメェが知る必要はないし、知って欲しいとも思わねェ、少なくとも俺は。あのクソ派手野郎がどう思うかなんざァ俺の知ったこっちゃねェがな」 「タイラントだって!」 「だったらこれはここまでだ。昔の話じゃなくて今の話をしろ、いまの」 「だったら答えて」 「ん? あぁ、どっちかって? そりゃ何しろ惚れた男だからな。非常に積極的に抱いていただきたく存じますが?」 掌にかいた汗を気づかれないよう服で拭えば、隣で弟子が同じことをしていた。いたたまれないのはお互い様らしい。 「……も」 「聞こえねェよ、言いたいことがあるならきっちりでけぇ声で言いやがれ」 「僕もって言ったの!」 「あぁ、やっぱりな。そう聞こえちゃいたがよ」 「カロル!」 まだ充分に熱い茶を頭からかけられそうになった。にやにや笑いのまま咄嗟にカロルはその腕を掴んで止めている。あとで体術を仕込んでくれたリオンに礼を言うべきか、と思いながら。 「フェリクス、質問だ」 「なに!?」 「だったらなんで悩んでんだ。ん、念のために聞くがよ、派手野郎はどうなんだ。テメェを抱きたがらねェとか?」 「そんなことはないと思う。どっちだかよくわかんない。急に抱きしめたかと思うと慌てて放すし。終わったあとに謝ったりするし。どっちなの。僕にはさっぱりわかんない」 ぶつぶつと小声で文句を言い出した弟子だった。ほんの少しだけ、タイラントに同情したくなったカロルだが、とにかく弟子の幸福を最優先することにした。 「あのな、フェリクス。この際だ、実行するかどうかは気にするな。とりあえず聞くだけ聞くからな、いいな?」 怯えたよう体をすくめるフェリクスの手を離し、掴んでしまった場所をそっと撫でればそっぽを向いた。 「俺はリオンの感じるところを触ってやりてェし、いかしてやりてェ。どんなところがいいのか知りてェし、知ったらやってみてェ。テメェは?」 「そんな……。カロル、その。どんなこと、するの」 顔を赤らめて上目遣いのフェリクスに、やはりタイラントには同情するべきかと思う。 「どんなってなぁ。テメェ相手に実行するわけにもいかねェだろうが。実行していいならやるか?」 「カロル!」 「かといって、だったらリオンと実演ってわけにも……いきそうで怖ェな」 「見たくないから! そんなもん、絶対に見たくないからね!」 「ま、個人的には俺も見せたくねェな」 「見たくないって言ってるじゃない」 「俺がなんで見せたくねェか、わかるか、馬鹿弟子?」 「そんなの……知らないよ」 「リオンのイイ顔を見せたくねーの。わかるか?」 カロルの感情がわかるか、ではない。自分はどうなのか、を問われていた。フェリクスは思う。探す。見つけるまでもなくそこにある。 「わかる」 こっくりとうなずいた弟子の頭を撫でそうになってカロルは掌を握り込んだ。 「わかってんならテメェに関しては問題はねェな。ベッドでどうしたらいいか? んなもん、俺じゃなくて派手野郎に聞け。それとも何か、テメェが選んだ男はテメェがしでかしたことに動揺するようなクズか? テメェの心尽くしを昔の稼業が稼業だからただの手練手管だと思うようなカスか?」 「そんなことない!」 「だったら相談相手は俺じゃない。タイラントだろうがよ」 「……聞けたら苦労しないよ」 「だったら聞かねェでやっちまえよ」 「な、なにを……!」 「なに想像してんだ、馬鹿。意外と可愛いとこもあんだな」 「なに言ってるの!」 真っ赤になって言い募るフェリクスにタイラントは今後どれほど苦労させられるのだろう。もっとも、あれだけフェリクスを苦しめたあとだ。艱難辛苦の一つや二つは経験するがいい、とカロルは心から願っていた。 |