長い髪を掴まれて引きずれ回され、犯されるのを思い出していた。 笑いながら鞭打たれ、這い回って逃げ出す自分をまた男が笑ったのを思い出していた。 娼家から逃げ出して泥まみれになっていたときの自棄を起こした自分を思い出していた。 はじめて自分の力といえるものを手にいれたときのことを思い出していた。 強くて優しい師匠から、たくさんのことを教わったのを思い出していた。 何より大事な人を見つけに行くときの焦りを思い出していた。 愛し合うためらいと恐怖と喜びを思い出していた。 だから「目覚めた」とき、意味がわからなかった。自分がフェリクスであるのも、思い出が他人の記憶であることもわからなかった。 「なに……これ」 目の前で、自分が食事をとっている。のろのろとした頼りない動作ではあったけれど、きちんと匙を手にしてスープをすくっている。 「おぉ、目ェ覚めたか」 自分の前に、カロルが座って、一緒になってスープを食べている。と言うより、むしろ介護をしてくれている。 床にぺたりと座り込んだ自分を、自分の目で見ている異常にフェリクスは顔を顰めかけ、その顔がここにないことに気づく。 声を出したと思ったのも勘違い。カロルを見たと思ったのも勘違い。これは強力な精神の接触だった。ゆっくりと何があったか思い出していく。 「テメェはまだ俺ん中だ」 自分の内部に語りかけるのではなく、カロルはまっすぐにフェリクスを見て言った。その意味がどことなく伝わってきて、カロルの精神に捕らえられたままのフェリクスは目を伏せたくなる。伏せる目もないのに。 「どうして」 「なにがだ」 「どうして……ほっといてくれないの」 悲痛な声に打撃を受けたとでも言うような、カロルの心の声。けれど口からは一切の声は漏れなかった。 フェリクスには見えなかったけれど、カロルの表情を感じる。カロルの中にいるのだから。そして彼が感じたものは、まるでリオンのような飄々とした、しかし困り顔だった。 「まぁ、言ってみりゃ俺の我が儘だな」 「我が儘!」 「おうよ。まぁ、あれだ。平たく言えば、テメェに死なれたくねェと、それだけのことだな」 どこが平たいものか、とカロルの中にあってフェリクスは毒づく。おかげでカロルには筒抜けだった。それを喜ぶよう、カロルが小さく笑い声を上げる。 「どうしてなの。どうしてこんなことするの。寝かしたいだけだったら、ご飯食べさせたいだけだったら、下僕化の魔法かけたほうがずっと早いじゃない」 「早いけどな、後遺症がまずいだろうがよ。あんなもんかけた日にゃ、テメェは今後俺を一切信用できなくなっちまうだろうが」 中途半端にフェリクスの意思を残すようかけるならば問題はない。だが相手はフェリクス。そのようなもので意のままにできるはずがない。ならば完全にかけるより道はない。その場合、魔法を解いたあとでもフェリクスはカロルを信頼する心を失うだろう。 「いまだって……」 信用なんかしていない。心で言葉を形作りかけ、どこかへ溶けていく。嘘などつけない、この状況では。 カロル以外、誰を信じられるのだろう。何もかも失くしてしまった自分がよりどころにできるのは、何だろう。 「いまはいいから、ちっと寝な」 まるで子供を助け起こすかのよう、ぼんやりとしたフェリクスの体をカロルが抱き上げる。そのまま寝台に横たえて、しっかりと毛布で包んでくれさえする。 不意に体もないのに泣きたくなった。涙を流すことだけが泣くことではないとはじめて知った気がした。 「よけいなこたァ考えんじゃねェよ、いまは」 いまだかつて聞いた覚えがないくらい優しいカロルの声。もしもカロルが子の父であったならば、このように眠る我が子の額にほつれた髪を撫でたりするのだろうか。 「カロル――」 体が眠りに落ちていく。けれど精神ははっきりと目覚めたまま。異常を理解しないわけではない。けれどカロルもフェリクスもいまは何も言わなかった。 「大丈夫だ」 「なにが?」 「何もかも、だ」 「全部?」 「あぁ、全部だ。ちったァ信用しろ。テメェの師匠をなんだと思ってやがる?」 笑い混じりの声。こんなことはなんでもないのだから安心するといい。目が覚めたらすべてこれは悪い夢に変わる。カロルの言葉はまるでおとぎ話。 「笑えるよね」 こんな他愛ない子供みたいな言葉に安堵する自分にカロルは気づいている。だから、嗤えばいいと思う、フェリクスは。 「笑わねェよ」 意外なほどに真剣な声で、フェリクスは反論を封じられた。寝台に腰を下ろし、カロルはフェリクスの手を握っていた。 「テメェが何されたか、まぁだいたいのところは見ちまったがよ」 「見たの!」 「お互い様だ。テメェだって見ただろうが。俺が生涯誰にも言いたくねェと思ってたことまできっちり見ただろうがよ」 不意にカロルの声が苦くなる。フェリクスは目覚めの寸前に見た「思い出」を回想する。 「……まぁね」 過去のつらい思い出など、フェリクスだって誰にも知られたくない。それなのに、カロルは見せてくれた。 今のフェリクスにはわかっている。意図的だった。間違いなくリオンからも遮断している部分まで、カロルはフェリクスに見せた。同じ場所を見る代償に、と。詫びにもならないけれど、と。 「何かがな、間違っちまうとな。きっかけがなくなっちまう。詫びる方法も、手段もなくなっちまう」 「お説教なら聞きたくない」 「そんなんじゃねェよ。なくす前に俺はテメェに詫びとくからよってことだ」 からりと笑って知っているはずなのに全部知らないふりをしてカロルはフェリクスの頭を撫でた。決して離さない信頼の証でもあるかのように手を握ったまま。 「無茶して悪かったな、フェリクス。俺の我が儘とおしちまって悪かったな」 「……別に」 「どんな無茶でも、どれほど強引でも、テメェが泣いても喚いても」 言葉を切り、カロルは握った手を自分の胸元に運ぶ。心に収まったフェリクスに、温もりを届けようとするかに。 「俺はテメェに死なれたくねェ。わかったか、馬鹿弟子?」 フェリクスは答えない。答えられるはずがない。カロルはわかっていたから黙った。 フェリクスはカロルの心の中で号泣していた。いまだかつてこれほど泣いた覚えなどない。どれほどつらい目にあったときでも、耐え切れないほどの痛みを与えられたときでも。 ゆっくりとカロルが片手で自分の体を抱く。フェリクスは師に抱きしめられているのを感じていた。なんの見返りも求めない、ただただひたすらに慈しまれている。 はじめから知っていた。暴言の影で、強引な態度の裏で。どれほど自分が案じられているか、フェリクスは知っていた。 だからこそ、無茶ができた。我が儘放題、好きなことを言えた。どれほどのことをすれば、見放されるのだろう。捨てられるのだろう。 試すよう、何度も何度も無茶を言い、我が儘をした。 どんなときも、真正面から相手をしてくれた。殴られて、蹴れらて、痛かったけれど、本当に痛いのはカロルだと気づいたのは、いつだっただろう。 「テメェの体が起きるまで、俺はここにいる。テメェのほうも休めるんなら、休んどけ。別にどっちでもいいけどよ」 投げやりで、この上なく優しい言葉。その上、なんと言うことか。 フェリクスはカロルの心の中で小さく小さくうずくまる。師の声を聞いていた。心の響きを聞いていた。彼が歌う稚拙な子守唄を聞いていた。 「柄じゃねェな」 照れたのか皮肉に笑い、けれどカロルは驚いてまた続ける。フェリクスの声なき求めを容れてそっと歌う。扉の外、いまも立っているだろうリオンを意識しながら。 ――あいつもぜってェ歌ってくれって言うだろうな。 思わず心に呟いたとき、フェリクスが八つ当たりのよう、殴りかかってきた。心でなされたそれにカロルは小さく笑い、包み込んだフェリクスを抱きしめる。息が詰まるほどに。 「やめてよ!」 体もないのに苦しがったフェリクスが悲鳴を上げるまでカロルは力を緩めなかった。 フェリクスは、驚異的な速さで回復した。十日で死に掛かった体を、それに満たない日数で回復させたのは、カロルだった。 リオンは何度も案じた。無論、フェリクスをではなくカロルを。 自分の心の中に、別の精神体を丸ごと一人抱え込むなど、無茶が過ぎる。フェリクスのみならず、カロルまで廃人になってもおかしくはない。 「メロール師じゃないんですよ?」 半エルフならば、そのような無茶も可能だろう。何しろ精神構造そのものが違うのだから。強度といい広大さといい、比べ物にならない。 「まったくだね」 言われたメロールが深くうなずく。フェリクスを抱え込んでいる以上、その件に関してカロルに苦情は言えない。当人に筒抜けの苦情は、さすがのリオンも言いにくい。 おかげでメロールと食卓を囲み、茶を飲んでばかりいる。アルディアは万事控えめで、口数も少ないから、こんなときでも多くを語らず控えている。 ありがたい、とはリオンも思っていた。一人きりでいるよりは、ずっと気がまぎれる。それに、いまはアルディアの無言の微笑が何より心強い。大丈夫だ、そう励まされている気がした。 そして今度はようやく当人にそれを問うことができる。なんとか回復したフェリクスは、やっと自分の体に戻ることを許されたらしい。不機嫌に、けれど今でもまだ悲痛な目をしたままフェリクスはカロルの横に立っている。 「大丈夫なんですか?」 非常に攻撃的で、けれど無気力な幽鬼、というものがいたならフェリクスはそれにとてもよく似ていた。 「大丈夫なわけ、ないじゃない。僕は自分の師匠に強姦されるなんて、考えたこともなかったし」 「だからそれは非常事態なんですって。あなた、理解してます?」 「うるさいな。わかってるから黙ってなよ、リオン」 リオンを名で呼んだ。苛立ったときの態度。それがいつものフェリクスだったはず。けれど違和感を覚えてリオンはカロルを見やる。小さく首を振っていた。 「ねぇ……カロル」 ためらった末、目もあわせずフェリクスは師を呼んだ。黙って促す気配を感じたか、ゆっくりと息を吸う。 「……信じられないの。何も信じられない。僕は、何も信じられない」 「だったらどうしてェんだ?」 「……どっかに、いっちゃいたい」 「そのどっか、が死ぬことなら却下」 即答し、それなのにカロルは笑っていた。笑ってフェリスの手をとる。 「ちっとばかし気晴らしにでもいってみるか、うん?」 「旅にでも出たら、変わるかな。変わらないかもしれない」 「ンなもん俺の知ったことか。いってみればいい。好きなだけ、外で遊んでこい」 言いながら、ぽんぽんと自分の手に乗せたフェリクスの手を叩く。子供相手にする仕種に、フェリクスが顔を顰め、目をそむけた。 「帰ってこないかもしれないよ」 「おう。いいぜ。テメェが元気で生きてんなら、それでいい。まぁ、俺が死ぬ前に一度顔は出せ」 「……それでいいの」 「別にかまわねェよ。ただ一つだけ、覚えとけ」 そむけてしまった目を合わせようと、カロルはフェリクスの頬に指をかけ、強引に視線を合わせる。 「テメェには俺がいる。何があっても俺はテメェを見捨てねェ。それだけは覚えとけ。ぜってェ忘れんな」 フェリクスが息を飲む。そのまま止める。うつむいて、何度も何度も瞬きを繰り返す。 「ほら馬鹿弟子。遊んでこい!」 カロルに強く背を叩かれ、フェリクスは動き出す。一度だけ、辺りを見回した。いつの間に集まってきたのか、リオンの他にメロールとアルディアまでいた。 言ってきます、の言葉が出なかった。ただ唇を噛みしめて、歩き出す。もどかしくなって転移する。逃げ出したのだ、と気づいたのはずいぶん後になってからのことだった。 タイラントが、エイシャの総司教に面談を求めたのは、その翌日のことだった。 |