フェリクスが帰還した。カロルの執務室の机の前、ぴたりと一歩も違わず出現した。転移のあまりの正確さより、フェリクスの表情のほうがより明らかだった。
「僕は、失敗した」
 一言、それだけを告げてフェリクスはカロルの答えを待つこともなく再び転移する。カロルにはわかっていた。彼が自らの部屋へと引き取ったことが。
 だが、たかがそれだけのために転移するとは。ありえない異常が起こっていることがまざまざと感じられた。
 それが十日前。以来フェリクスは一歩たりとも自分の部屋から出てこない。無論、食事もせず。おそらくは睡眠もとらず。
「……あの馬鹿弟子が」
 カロルの罵声にも力がなかった。ぎゅっと握られた拳が、ソファにかけた膝の上で震えている。
「カロル」
 リオンはその拳を自分の手で包み込んだ。いまの彼は自分がそうしていることにも気づいていないようだったから。
「……わりィ」
 手の中の拳が力を緩める。けれど一瞬のちまた握り締められる。自分でもどうしようもないのだろう緊張の仕種にカロルは力なく笑った。
「こんなに情けねェ気分になるたァな」
「なぜです?」
「テメェな。わかってねェはずがねェだろうが。……あの馬鹿弟子」
 カロルの視線が遠くを見やる。視線の先にはフェリクスがいるのだろう。今もきっと暗い部屋に一人、じっとしている彼が。
「あの馬鹿をぶっ壊したのは、俺だな」
「カロル! なんてことを。あなたのせいじゃ――」
「俺のせいだ」
 きっぱりと言ってカロルはリオンを見つめた。苦しいほどにまっすぐな目。翠の目が揺れている。涙の気配めいたそれにリオンのほうが動揺した。
「あの馬鹿は、何にどう失敗したかなんか言いやしねェ。だがな、俺が言いつけたのは弟子にしたい誰かを見つけてこいってことだった」
 リオンの脳裏にはあの銀の竜が浮かんでいた。本人がどこまで理解しているかはわからなかったけれど、とりとめのない性格をしている、とリオンが感じたあの竜。
 リオンはそれをカロルに語ってはいなかった。神殿でフェリクスに会った、とだけ伝えている。
 言わなかったのはなぜだろう、とリオンは思う。もしかしたあの竜こそがフェリクスが手を取ることのできる相手であるのかもしれない、そう思っていたからだ、と不意に気づく。
「あいつは見つけられなかったのか?」
 カロルが呟く。リオンは見つけていたはずだと思う。
「いいや、誰かに会っていたはずだ。あいつが見つけたのが誰であるにしろ、あの馬鹿はそいつを連れて帰ってこなかった。なぜだ?」
 カロルの自問自答に、リオンはさらされている。お前は答えを知っているのではないか、カロルの気配だけが問い詰める。
「それが誰であれ、そいつは馬鹿の信頼を裏切った」
「そうきっぱりと……」
「違うと思うか、え、リオン?」
 翠の目に睨まれて、言葉がなかった。あの銀の竜は、フェリクスの手を振りほどくだろうか。そのようなはずはない、とリオンは思う。
「テメェは……帰ってきたときの馬鹿の顔を見てねェ」
 苦い、この上もなく苦い声だった。カロルはフェリクスの表情に何を見たのだろう。答えはすぐ知れた。
「俺はな、人があんな顔になれるたァ思っても見なかった。俺は俺で、それなりにつらい昔ってもんもある」
 皮肉に自らの過去をカロルは見る。親に売られた過去。男娼としての過去。殺されそうになるほどの性による虐待。
「俺は俺なりに、絶望ってもんを知ってる。……と思ってたがよ」
 長い溜息が天井に反射して部屋中を満たした。リオンは言葉もなくただ聞き入っている。カロルの拳だけを温めていた。
「あれが、絶望だ。あんときの、フェリクスの顔が絶望だ。俺にはあいつが黙って死んでいくのを見てるしかねェ。――このままなら」
「待ってください! いくらなんでもフェリクスが死んだりするはすが」
「ないと思うか? あの死にたがりめ。あいつには、生きるってことがわかってねェ。いいや、わかっちゃいるんだろうよ。わかってて、生きられねェ。あいつにとって生きるってこたァこの上ない難題だ。たかが生きるってことが、どうしてもあいつにはできねェ」
「でも、生きてましたよ、ここ数年は」
「それをぶっ壊したのが俺だって言ってんだ」
 急ぎすぎたとカロルは悔いていた。フェリクスには、まだ無理だった。弟子にできるほど、心を傾けられる相手を探すなど。急ぎすぎた師の指示に、弟子もまた急いだ。結果、間違いなく相手から信頼を裏切られた。
「……でも、カロル。フェリクスは、できたと思うんです、私。もしかしたら」
「テメェ、ちょっと待て」
 呟いてしまった言葉に激烈な反応が返ってきた。はっとしたときには遅い。カロルが圧し掛かるよう、リオンを睨んでいた。
「心当たりがありそうな口ぶりだな、え? 白状しろ。俺の馬鹿弟子をぶち壊しやがったのはどこの誰だ!」
「……まず、約束をしてくれませんか?」
 こんなときでなかったならばたまらなく魅力的な体勢に、リオンは苦笑する。そっとなだめるよう背を抱けば、わずかばかり緊張が緩む気配。
「いますぐここを飛び出して探しに行かないって、約束してくれなきゃ話しません、私」
「テメェ!」
 殴りかかりそうになるカロルを抱きしめてリオンは拳を回避した。フェリクスには、愛する人も弟子もいない。不意にその思いが胸を突く。
「約束、です。ね、カロル?」
 額にくちづける。唇には、どうしても触れられなかった。痛ましいフェリクスのことが頭から離れない。
「……わかった」
 苦渋の声でカロルは言い、リオンの肩先に額を埋めた。改めて抱いたカロルの体は、十日でずいぶんとやつれていた。
「私もね、本当をいえば彼が誰で、何者かもよく知りません。フェリクスは知られたくなったようですし。ただ、私が見た彼らは、とてもよく調和していましたよ。だから……」
「そいつがフェリクスを裏切るこたァないってか?」
「ないと信じたい、と言うところですね」
「なァ……。そいつ、フェリクスの素性、知ってたのか?」
「いいえ? 相手もどこの誰か、知らなかったみたいですよ?」
「それだ」
 あまりにもきっぱりとした声。リオンは驚いてカロルの目を覗き込む。
 先ほどカロルは言った。帰還したときのフェリクスの表情こそが絶望だ、と。リオンは思う。この目こそ、後悔だと。
「相手。人間なんだろ?」
「えぇ、まぁ。それは確かに、人間ですが」
 少なくとも竜に変えられている人間なのだから、人間であることは確かだ、とリオンは煮え切らない表現ではあったけれど、うなずいた。
「テメェはな、半エルフ見てもなんとも思わねェような変り種だからよ、わかんねェんだ。原因はそれだ。そいつはフェリクスが闇エルフの子だって、知ったんだ」
「な――」
 まさか、たかがそんなことで。リオンは絶句して言葉がなかった。あの銀の竜は、それくらいのことでフェリクスを裏切るだろうか。
「急ぎすぎた。確かにそれは認める。事実、急ぎすぎた。だがよ、リオン。あの馬鹿は、俺が手塩にかけた弟子だ。そのフェリクスが、弟子にしたいと思う野郎を見つけられないとか思うか? 俺は思わねェ。フェリクスは見つけた。あの幻覚を被ったまんまでな」
「あ……」
「そうだ。そいつは、幻覚をはいだフェリクスの正体を知った。だから、フェリクスを裏切った。人間としてはありがちだな。違うと思うか?」
「……思いたいです」
「ま、確信はねェ。そうだろうと思うが、別の解答でも同じことだ」
「そうでしょうか? 解決手段なら、色々見つけられると思います、これから、何度でも、いくらでも」
「その前にあいつの体がもたねェよ」
 リオンは息を飲む。忘れていたわけではない。けれど、今すぐフェリクスを回復させなくては体が持ちそうにないことも事実だ。
「フェリクスな、あいつ」
 ぎゅっとカロルが拳を握った。この十日、いったい何度その仕種を見てきたことだろう。
「死にたがりではあるけどな、積極的に死のうとはしねェんだ」
「まぁ、それが生き物ですし」
「いまもな、体も心も死にたがってるくせに、刃物も持ちださねェ、塔から飛び降りもしねェ。テメェの部屋にこもってるだけだ」
「死なれたりしたら、あなたのほうが耐えられそうにないって顔してますよ、カロル」
 リオンの優しい言葉にカロルの顔が一瞬、歪んだ。それ以上の激情をあふれさせるより先、カロルは天井を仰ぐ。
「だからな、助けてやらなきゃならねェ」
 それは自分の義務であり、権利であるとカロルは言外に言う。リオンに請うていた、何を。思い巡らせるより先、答えがきた。
「フェリクスと、精神を繋ぐ」
 カロルの断言に、リオンはわずかばかり訝しい思いを抱く。精神を接触させることなど、魔術師ならば便利で簡単な会話方法の一つでしかない。
 そんなものが、今のフェリクスになんの役に立つというのだろうか。確かに精神の会話では、嘘はつけない。けれど、それだけだ。
「違ェよ。もっと、深くまで。テメェが入ってくる限界まで」
 咄嗟にリオンの頬が赤らみ、そしてそのような場合ではない、と気づく。だがしかし、カロルが言っているのはそういうことだった。
 あるいは半エルフにとっては、身体の接触よりいっそう深い情交。身近に半エルフのいる星花宮の魔術師にとっても、肌と同時に心に触れるのは快い刺激だった。




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