リィ・サイファがタイラントをウルフのように扱おうとしたことに、フェリクスは気づいてしまった。とてつもなく不愉快だった。リィ・サイファがどう思っているのかは知らないが、あれよりはずっとタイラントのほうが賢い、とフェリクス個人は思う。多少の身贔屓はあるにしても。そのフェリクスの思いに気づいたよう、リィ・サイファがわずかに眼差しで謝罪して話を続けた。 「その上、異常に特殊ときている。逆に私が聞きたい。お前たち、互いに出会う前はどうやって生きていたんだ? そもそも、どうして生きていられたんだ?」 「そんなこと言われたってわかるわけないじゃない! どう特殊だっていうのさ?」 どうやって生きていたのか。そう問うたリィ・サイファにかちんときたのはフェリクスではなくタイラント。他意のない言葉だとわかっている。からかわれているのだろう見当もつく。それでもだめだった。だが自然にフェリクスが手を握ってきた。なだめるように、慰めるように。ぐっと腹に力を入れ、苦いものを飲み下す。 「最前、私は言った。リィの一部もウルフの一部も、私にとっては気づかないほどの小さなものだと。逆に言えば、彼らもまた私の小さな部分を持っているにすぎない。だがお前たちときたら――」 長々とリィ・サイファが溜息をついた。タイラントはフェリクスと顔を見合わせてしまう。呆れられる理由がまったくと言っていいほどわからない。 「ほとんど共有だな、それは。二人は一人。これほど体現している魂など現実にあるものだとは思わなかった。フェリクスはタイラントであり、逆もまた同じ」 「あ……」 「だからだ。気づいたな、フェリクス」 一瞬にして青ざめたフェリクスの頬が、またも瞬く間に赤くなる。恐る恐るタイラントを見つめ、そして何度も瞬く。首をかしげる。ありえない事実がそこにあるのだと。 「あの、シェイティ?」 「……そっか。だから、あなた。壊れなかったんだ」 「えーと、その……ですね? できれば説明をしていただけると、ありがたいかなぁ、と」 「僕が生きていたから。あなたが死んで、魂を木端微塵にして。それでも僕が生きていたから、あなたは壊れなかった」 触れ合うだけだった手が、強く握られた。フェリクスの激情を物語る仕種にタイラントは惑乱する。 「あなたは、自分の魂を壊した。それはいい? でも、僕が生きていた。あなたは僕で、僕はあなた。だから、あなたの魂は壊れたけど、壊れ切らなかった。そう言うことだよね、リィ・サイファ?」 「そのとおり」 タイラントを見つめたままフェリクスは呟くようリィ・サイファに問う。はじめて、生きていてよかった。そう思った。もしもアルハイドの地で自死を選んでいたら、そのときこそ真実タイラントは死んだ。自分の手で彼を殺すことになった。 「お前が来たとき、私は言ったはずだ。お前はタイラントの魂の最後の欠片。欠片と言うには些か大きいがな」 言われて、タイラントにも事情が飲み込めてきた。そして今度はタイラントが青くなる。 「それって……。俺は、自分の魂を砕いた。でも……!」 「タイラント。もう済んだことだ。もういいじゃない。だから」 「よくない! 俺は――」 フェリクスの魂をも同時に砕いたと言うことになる。言葉もなく震える吟遊詩人に、フェリクスは微笑んだ、彼がうつむいていたから。見ていないから。限りない思いを秘めた笑みだった。 「そちらの事情はそちらの事情であとでやってもらおう。話の続きだが、いいかね?」 多少悪戯めいたリィ・サイファの声だった。フェリクスもまた悪戯半分に睨み返す。タイラント一人、自らのしたことに震えたままだった。 「魂を砕いたことなど切欠にすぎん、と言うのはそういう意味だ。それ以前にお前たちの存在は特殊そのもの。特殊と言う言葉が匙投げて出奔しかねんぞ」 「何それ、どういう意味さ!」 「特殊もそこまでくれば異常だ、と言っている。人間界での異常、すなわち幻魔界の通常、だ。――お前たちがこちらに来た必然、と言うのはそういう意味だ」 「異常、異常って言わないでくれる? 他意はないってわかってても癇に障るんだけど?」 言い返したのは、タイラントのため。フェリクス自身は特に思うところはなかった。しかしタイラントが気にしている。異常など、フェリクスにとっては正しく通常。生まれたときから「人間世界の異常」なのだから。 「それはすまん」 にやりとリィ・サイファが笑った。フェリクスはただ肩をすくめるのみ。他愛のない、もしかしたら打ち解けた言い合いでしかないのかもしれない。タイラントははじめて気づく。 「ウルフが……」 「あれがどうした?」 「人間離れした人がこっちに来るって言ってたの、そういう意味かと思って」 「言葉の定義として疑問が残るところではあるが、大枠として間違ってはいないだろう?」 「もうちょっとわかりやすく言ってほしかったけどね」 「あれにそれを求めるのは無駄だぞ」 ふ、とリィ・サイファの口許がほころぶ。貶しているのにどうしてそんなにも優しい笑みなのだろう。疑問に思ったのはフェリクス。理解してしまったのはタイラント。赤らんだ頬をこする仕種を目に留めたフェリクスがようやく納得した顔をした。 「ねぇ、リィ・サイファ」 「まだ何かあるのか!」 「質問攻めにして申し訳なくは思ってるけどね。あなたも魔術師なら、性分として理解はしてくれると思うんだけど」 「理解できる己が恨めしいぞ」 「快く納得してくれて嬉しいな」 にっこりと、花咲くように笑うフェリクスだった。タイラントはそっと体を縮めてしまう。習性と言うものはそう簡単に抜けるものではない。 「……君が笑うと、なんでこんなに怖いんだよ!?」 呟き声にフェリクスがじろりとタイラントを見やった。うっかり口にしてしまったと気づくももう遅い。 「笑って誤魔化してもだめだからね? 僕のちっちゃな可愛いタイラント? でも、いまはいいや。あとでみっちり絞るから」 「忘れて!? 頼むから忘れて!?」 「誰が? 僕、それほど忘れっぽいほうじゃないんだ。お生憎様だったね」 くすくすと可愛らしく笑っているのに、タイラントの背筋は冷える一方。リィ・サイファが再び溜息をついた。 「それで?」 聞きたいことがあればさっさと聞け、それで帰れ。あからさまな言外の言葉にフェリクスが吹き出す。ずいぶんとくつろぎはじめたらしい。 「こいつのことだよ、やっぱりね。象徴的な意味で、こいつの魂が壊れてなかったのは理解した。でも、僕は目の前で壊れたのを見てる。どうして戻ったのか、理解できないの」 「あぁ、そういうことか……」 放り出されてしまった形のタイラントは、二人の魔術師をかわるがわるに見やった。魔法に関する話題のせいだろう、リィ・サイファはとても生き生きとして見える。逆に、フェリクスは多少、緊張していた。 「あ、そっか……」 話題にしたいわけではない疑問。それでも問わずにいられない自分と言うものをフェリクスはいま、感じている。厭わしくて、どうにもならない自分を。 「シェイティ」 ほんの少し、タイラントは彼のそばに寄った。あからさまに抱き寄せたりすれば、怒る彼だから。ほんの少し。誰も気づかないほど。それで充分。フェリクスの気配がほっと和んだ。 「私とメロールでタイラントの魂の欠片を集めた。それはいいか? 集めただけでは当然、崩壊する。元々崩壊していたものだからな」 言われるたび、聞くことを望んだのにもかかわらず、フェリクスの指先がひくりと動く。思い出しているのだろう、あの瞬間を。 「――今ここにいるからと言って、その痛みが消えないことは、理解している。それでも聞くか?」 リィ・サイファの思いがけないほど優しい声だった。だからかもしれない。素直に反発することができたのは。 「わかる? あなたに何がわかるっていうの」 言った瞬間、タイラントがフェリクスの手を強く掴んだ。それを聞いてはいけない、それは彼の傷でもあるのだから。不思議とタイラントはそれに気づく。だが、伝えきれなかった。 「わかる。私は一度リィを失った。目の前で死なれた。以後千年、私は彼を失ったままだった。彼に再会したからと言って、その痛みが薄れるものではない」 「あ……」 「――半エルフの記憶は、薄れない、んですよね。だったら」 「僕より、つらいかも。ごめんなさい」 唖然とするほど真っ直ぐに飛び出したフェリクスの言葉。タイラントはまじまじと彼を見る。少し、変わったのかもしれない。変わらないのかもしれない。自らの言葉に照れたフェリクスは、そっぽを向いていた。 「お前より、と言うことはなかろう。似たようなものだ。わかるのか、と言うからわかる、と答えただけのこと。気にするようなことではない。それで、聞くのか?」 「……うん」 聞かずにはいられない自分だから。フェリクスの仕種にタイラントは悲しみを見る。だがそこに見たのは、それだけではなかった。 「……いやなんだよ、自分でわからないのが。また、タイラントがいなくなっちゃうかもしれないって思うのが。なんで僕の手に戻ってきてくれたのかもわからないんだもの。またいなくなっちゃうかもって、やっぱり思うじゃない? せめて理論だけでもわかってれば、気休めになるから」 タイラントの目が潤んだ。遠いところを見ながら口にした彼の言葉。いまだかつて聞いたためしがないほどの愛の言葉。 「シェイティ……」 「うるさいな、黙ってなよ。馬鹿!」 「うん、黙る。ごめん。――シェイティ」 「だから!」 振り返れば、涙に頬を濡らした男がいた。こんなにも誰憚ることなく泣ける男がいる。胸を掴まれた気がして、フェリクスは自然に手を伸ばしていた。 「……おい」 胸の中に抱き取ってしまえば、タイラントが嗚咽をこらえて、それでも泣いていた。 「ちょっと目障りだとは思うけど。我慢してくれると、嬉しい」 神人の子には刺激的に過ぎる光景だろうと、フェリクスも思わないわけではない。リィ・サイファの感情を慮るより、タイラントが大事だった、それだけ。 「……まぁ、致し方ない。手早く済ませるぞ? 崩壊する一方の魂をどう保持したか。言うまでもない。魔法でだ。正確には、生の魔力で作り上げた障壁に包み込む。魂すら抜け出せないほど強固な障壁に。魂を集めた段階で足らないものがあるのは気づいた、お前と言う欠片が足らん。ならばタイラントがこちらにいる以上、いずれお前もこちらに来る。それまで保持すればいい」 「……それ、よく生きてるね。あなた。いくら神人の子って言ってもそれだけ長時間、障壁を? そこまで強固なのを?」 「私一人では身が持たん。メロールが手伝ってくれたからこそだ」 二人の神人の子が交代でタイラントの魂を保っていてくれた。ありがたいと思うより先、溜息をつきたくなる。自分が当代有数の魔術師であった誇りが、タイラントの魂並みに木端微塵だった。 「神人の子らの魔力の桁外れっぷりが馬鹿らしくなるけど、ここはお礼を言っとくべきだよね。ありがとうって」 「言ったはずだ。私はリィに世界の歌を聞かせたかった。私欲でしたことに礼を言われる覚えはない」 「そう言ってくれると多少は気が楽かな」 本心ではない。それを感じないリィ・サイファでもない。魔術師二人、顔を見合わせてにやりとした。いずれリィ・サイファに魔法を習う機会もあるかもしれない。その気があるならば教える。二人の間に通い合ったものにタイラントだけは気づかなかった。まだ泣くのに忙しくて。 「ほら、行くよ!」 「え、シェイティ……でも」 「用は済んだよ。リィ・サイファ。また何か聞くことがあると思うけど?」 「そのときにはお前ひとりで来い。話が長くなってかなわん」 「同感。でも――」 「いやだよ! 君と離れるなんて嫌だ! 絶対に、もう絶対に嫌だ!」 「――ね? 無理だと思うよ」 くすりとフェリクスが笑った。もしかしたら読まれた上にからかわれたのかもしれない。タイラントの頬に残る涙をフェリクスの指がぬぐった。 「じゃあ、リィ・サイファ。またね。リィ・ウォーロックに歌を聞かせたかったらいつでもどうぞ。好きなだけ貸すよ」 「ありがたい。甘えさせてもらおう」 「って、ちょっと二人とも!? 歌うの俺なんですけど!? 俺の意思は!?」 「あると思ってるわけ、そんな上等なものが」 実に不思議そうに言い、フェリクスは首をかしげて見せた。そんな仕草になど騙されない、とばかり大声を上げようとしたタイラントは肩透かしを食らう。 「行くよ」 するりと腕に絡んできたもの。フェリクスの腕。声が喉に詰まって、言葉にならなかった。背後に向かって軽く手を振るフェリクスすらも目に入らない。 「泣かないでよ。僕が泣かしてるみたいじゃない」 「な、泣いてなんか、いないって!」 「嘘」 肩先に、フェリクスの頭が触れた。寄り添ってくるぬくもりが信じがたくて、タイラントは瞬きをする。その拍子にこぼれた涙をフェリクスが指に取った。 「ちょっと見てるのがつらいくらい綺麗だよね?」 片手の上、フェリクスが涙を転がしていた。光を照り返すと言うよりは、内にこもるようなその輝き。見ているだけで胸が締め付けられそうなその色。 「って、君な! 人の涙を硬化させるなよ!」 「だって、綺麗だったし。どうしようかな。これ、集めてみようかな。あなたが泣くたびに、固めるの。あんまり泣くと、首飾りができるよ?」 冗談のような口調。だがタイラントだった。世界の歌い手と称された吟遊詩人の耳だった。寄り添うフェリクスを強く抱く。 「泣かない。そんなもので君を飾ったりしない。もう二度と、君を泣かせたりしない」 「だから、泣くのはあなたであって僕じゃないんだけど?」 「俺が泣いて、悲しむのは君のくせに」 真正面から覗き込めば、一瞬の半分、フェリクスは視線から逃れようとした。思い直して見つめ返してきた眼差しにあるものをタイラントは決して忘れない。 「俺も君が好きだよ、シェイティ!」 「そんなこと言ってないじゃない!」 「聞こえたもーん」 言葉にしない言葉。歌わない歌。タイラントには聞こえた。フェリクスの限りない思いが、自らのうちに響き渡るのが聞こえていた。 |