その客はたいていの通り今日も一人でやってきて
「ブルームーンを」
 といつもの通り、注文する。
 彼の最初のグラスはいつもブルームーンだった。
 淡い……青というよりは上品な紫色の酒を一瞬目を細めて見つめ、それからほんの何口か、冷たいうちに飲んでくれる
「いい客だ」
 そう、マスターは言う。
「若いくせにいい酒の飲み方をするね」
 とも。
 無論客に聞かせたのではなく旭に言ったのだったが。
 旭もそう、思う。
 カクテルのことはよくわからなかったけれどそれでも冷たいものを冷たいうちに飲んでくれるのはうれしかった。
「……ブラックルシアン」
 他の客の注文から一段落したところを見計らって彼がすぅっとカウンターに空いたグラスを滑らせながら言う。
「ウォッカ、多めにしてくれないかな」
 と付け加えながら。
 彼の二杯目はいつも色々だった。
 まるで少しでも多くの酒に出会ってみたい、とでも言うように。
「はい」
 きびきびした声で注文された酒を作る旭の手つきもだいぶ慣れたものになってきている。
「……お待たせしました」
 からん。
 グラスの氷が澄んだ音を立てる。
「ありがとう」
 言いつつ煙草に火をつけた。
「珍しいですね」
 客が煙草を吸うところは初めてだった気がする。
 と
「ちょっとね」
 苦笑とともに煙草をかかげて見せた。
 薄暗いバーの明かりに青いような煙がたなびく。
 黒字に金の少し変わったパッケージの上、だいぶ手ずれのしたジッポが置いてある。
 もしかしたら煙草ごと人のものかもしれない、そう思った時カランとドアがあいて新しい客が入ってきた。
 どうやら金の目の客と待ち合わせだったらしい。
 その客を皮切りになんだかばたばたとしてしまって、旭はいつ彼らが席を立ったのかもわからないありさまだった。

「最近、楽しいそうだね」
 白々と夜明けが近づく頃、いい加減疲れた体で店の後片付けをしていたら突然マスターがそんなことを言う。
「え?」
「須田君に紹介されてウチに入った頃はすごい顔してたよ」
「そう……ですか?」
 そう言いつつも思い当たる節がないわけではない。
「仕事、楽しい?」
「はい」
 それはもちろん。
 そう言ったのはマスターへのお世辞でもなんでもなく。
 カクテルを作る、という楽しさも難しさも、いや、酒を出すということの面白さ難しさがようやくこの頃わかってきた。
 そんな気がする。
「いつか……小さな店でも持てたらなぁなんて」
 ちらり、思ったままの事を言ってみる。
「旭だったらいい店にするだろうね」
 マスターが、笑った。
 本当に、最近そんなことを思うのだ。
 大学に行く気はもう失せた。
 それよりもこうやって働いている方がずっと充実している、そんな風に思う。
 カウンターだけの、小さな店。
 ごちゃごちゃと色々なものを出すのではなく、ふらっと酒を飲んで静かにしていられるような、そんな店。
 そんな店を、ひとりで。
 そう、ひとりで。
 先のことを考えるにつけ、自分の心の中に須田がいないことがいやと言うほどわかってしまう。
 嫌いなわけではない。
 むしろ信頼もし、心休まる人でもある。
 けれど。
 まだ胸のうちのどこかに
「英ちゃん……」
 呟きかける自分がいる。



 長い間お世話になりました。
 勝手してすみません。

 ただそれだけの言葉を書きおいて旭があの部屋を出たのはそれからすぐの事だった。



 今までに貯めた金が多少ある。
 少なくとも泊まる所に困る事はない程度の金があった。
 いずれアパートを探さなくてはならないけれど今のところは。
 そんな風に思っていたら
「ここに泊まってもいいよ」
 マスターが言ってくれた。
「……」
「別になにも聞くつもりはないし。須田君と仲たがいしたんでももう旭はウチの従業員だしね」
「すみません……」
 なに謝ってるんだか、そう豪快に笑い飛ばしてくれたマスターがなんとも頼もしく、ありがたい。
 もともとマスターがひとりでやっていた頃、仮眠室代わりにしていた小さな部屋があった。
 仮眠室、とは言っても贅沢さえ言わなければ充分に生活だってできる。
 そこで旭が生活をはじめたのは夏も終わりの頃だった。

「旭っ」
 聞きなれた、声。
 声がする。
「旭―っ」
 懐かしい、声。
 できることならば会いたくはない、声。
「待ってよ、旭ってば」
 そのまま。
 行き過ぎてしまおうとした体を後から止められ。
 腕を引かれて振り向かされた。
「暁……」
 ちっとも似てない双子の弟。
 早くから自立して外に出た弟は、兄と父の忌まわしい関係も、その所為で家庭が破綻したことも、知らない。
「元気そうでよかった……」
 両手でつかまれた肩が、痛い。
 安堵のため息を漏らして笑みを浮かべる暁を見ているのがつらい。
 暁はあまりにも。
 英司に似すぎていて。
「旭の部屋行こうよ。話があるんだ」
 ともすれば強引とも言える、暁。
 もしも。
 英司にこれだけの強引さがあったなら。
 そんなくだらないことを考え旭は首を振る。
 しょせん自分は身代わりだった。
 紛れもなく、ただの
「体」
 だった。
 それなのに思い切れない、自分がいる。

さすがにふたりもいると息苦しいような部屋の中、居心地悪そうに暁がいる。
「あのさ……」
 子供の頃、隠し事をしているとき暁はいつもこんな顔をしていた。
 不意に思い出した他愛ない事。
 気づくより先に微笑んでいた。
「旭?」
「なんでもない」
「ようやく、笑ったよね」
「え?」
 英司によく似た顔のまま暁も笑う。
 笑いながら伸びてきた指が旭の髪をつい、と梳く。
 伸びっぱなしになっていた髪がさらり。
 暁の指から流れ落ち。
「な……っなんか言いかけたろ」
 思わず動揺した。
「ん……隠し事、苦手だからさ。全部、知ってるから、さ」
「……え」
 暁が話す。
 確かめるまでもなかった。
 暁が言う
「全部」
 とは紛れもなくすべてを知ってるという、そういうこと。
「軽蔑、するよな……」
「あのねェ。そんなこと思ってたらくるわけないじゃん」
 馬鹿みたいな考えはたったそれだけで一蹴され。
「戻るつもりないんだよね?」
 尋ね返すまでもない。
 あんな家に戻るつもりはない。
 例えまだあの情けない男を恋しく思っていたとしても。
「じゃあさ、ここでずっと働くの?」
「そういうわけでも……」
 夢はある。
 小さな店でも持ちたいと、そんな夢はある。
 しかし実現するには資金がなかった。
「旭さ、水野先輩って覚えてる?」
「あ……っ」
「覚えてるよね」
 うれしそうに言う暁の言葉でようやく思い出した。
 あの、いつもひとりでくる客。
 時折は金の目の客と待ち合わせたりする、客。
 あの人は水野、といった。
「よく、くるよ」
 急に不安がこみ上げて、なぜかわからない不安の所為で声がかすれた。
「その水野さんのメッセンジャーなんだ。今日の俺はさ」
「どういう、事?」

 出会ったのは偶然だった。
 なんの気なしに帰省した実家が自分のいない間にとんでもない事になっていた。
 暁はそれが言いようもなく、悔しい。
 せめてどうして一言自分に相談してくれなかったのか。
 一番近い血を持つ双子なのに信用さえしてもらえなかったのか。
 いや。
 そもそも側にいなかったのだから。
 そんな苦い後悔。
 旭は。
 知らないのだ。
 どうして自分が家を出たのか。
 知られたくないからこそ、暁は家を出たのだ。
 そんな日だった。水野と再開したのは。
「氷室?」
 声をかけられ振り向いた先に水野が立っている。
 なぜかはわからない。
 たぶん、誘導されたのだ。
 話はいつか旭の事になり
「でも行方がわからなくって」
 そう言った暁にあっさり水野は
「知ってるよ」
 そう言った。

「それでさ、旭の出すカクテルが気にいったんだって」
「話が……見えないよ」
「資金は出す。店を持たせたい。そう言ってた」
「ちょっ、ちょっと待ってよ」
 慌てるより先にあっけにとられてしまう。
 どういう、事なのか。
 まさか。
「変な意図はないって」
 察した暁が釘をさす。
「でも……」
「デモもテロもないって。イイ話じゃん」
 独立、できるよ。家からもどこからも。
 その暁の言葉が。
 不意になにもかもを吹っ切れさせた。
「……融資にして、もらえるかな。必ず、返す」
 久しぶり戻った目の光。
 将来に希望を持っている自分が、いる。
 なによりそれに驚いた。
「あとは水野さんと煮詰めなよ」
 それから暁は
「俺も酒の勉強しようかなぁ」
 そんなことを楽しげに言う。
「教えてやるよ」
 まだまだ勉強する事はたくさんあると、わかってる身なのに偉そうに言ったのは少し。
 うれしかったから。
 暁がこうやってここまで自分の事を心配してくれていた、その事実が。
 暁は言わないけれどきっと半分以上彼が水野を説得してくれたに違いない。
 きっと度々店を訪れていたのは
「テスト」
 だったのだ。
「暁」
「ん?」
「心配かけて……ごめん」
「……めちゃくちゃ心配だった。こんな事んなるんだったら家でたりするんじゃなかった」
「暁?」
「旭さ、俺がなんで家でてったかわかる?」
 じっと、覗き込んでくる、目。
 父親似の暁。
 母親似の旭。
 まったく似てはいない双子。
 けれどどこか、似ている。
 別々に見れば違う顔立ちが二人並べるとなぜかよく似た、顔になる。
「旭、なんであの人のこと好きだったの?」
「なんでって……」
「じゃあどこが?」
 畳み掛けるように問う暁に。
 どうして急にそんなことを問うのか、そう聞くのは無駄かもしれない。
 問うた自分が答えを一番よくわかっている。
 そんな気がする。
「……わかって……もらえないと思う。思うけど……血の濃さ、かもしれない」
 それ以外にどこが好きだったかなんてわからない。
 血のつながった人と肌を触れ合っている。
 その安心感。
 そして罪悪感。
 それがどうしてか狂おしさをかきたてる。
「じゃあ俺だって資格はあるよね」
 笑う。
 暁が笑う。
 とんでもない事を言っている、そんなことがわからないはずはないのに暁は笑っている。
「俺、旭のこと好きだったから家でてったんだよ?」
「あ……きら?」
「あぁ……別に焦るつもりはないから」
 また、笑う。
 つられて旭もまた微笑った。
 なぜ微笑ったのかはわからない。
「いつか好きって言ってくれたら、それでいいから、さ」
 まるで幼子を守るように抱き寄せられて。
 額に。
 触れるかいなかのくちづけ。
 妙なほどの安堵と昂揚感。
 それに自嘲しかけた旭に
「血の濃さに惹かれるのはお互いさま、だよ」
 声が振り落ち。
 耳を押し当てた胸の奥で鼓動が聞こえる。
 一番近い血がそこに流れている。
 ぬくもり。
「しばらくは……無理だよ」
 わかってるよ。
 上から聞こえてくる声に。
 けれどもうどうしようもない安らぎを感じている。



 旭の店、シャブランから遅れること二年。
 暁もまた店を持った。
 それぞれがそれぞれの性格にふさわしい店に仕立て。

「いらっしゃいませ」
 今夜もカウンターの向こうで微笑んでいる。




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