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わざとらしい咳払い。自分でも不自然と感じたのだろうニトロの小さな笑い。それをキアランは何を言うでもなく見つめていた。くつろいでいるな、と思う。 逆にそれを感じるほど、ニトロはずっと忙しかったのだと。毎日顔を合わせていただけに、かえってわかりにくかったのかもしれない。いまニトロは妙なところで意地っ張りだと知った。キアランに、それと気づかれたくなかったのだろう、おそらくは。だがいまは。 「まぁな。疲れちゃいるさ」 肩をすくめてニトロは肯定する。面白いものだとキアランは思う。ニトロは他者の感情など理解不能だ、想像もできないと言い放つ。けれどキアランのことは無言のうちに悟る。それを彼は興味深く、というよりは少しくすぐったいような感覚で眺めていた。 「でしたら……あぁ、そうか……」 「うん?」 「人がいるところだと、あなたはくつろげないんだな、と思って」 キアラン。ニトロの唇が声に出さず彼の名を形作る。驚いたのだろう。そしてほころぶニトロの唇。何も言わなかった、彼は。眼差しがひどく和らいでいた。 「せっかくだ、ちょっと居心地はよくしとくか」 照れたらしい。とキアランは内心でそっと笑う。他人にとっては他愛ないことだろう。キアランにしてもニトロの示す感情の振れ幅は興味深い。たかが、と言ってしまっていいようなことで羞恥を覚え、どうしてこれで、と思うようなことに平然としていたりする。 キアランが彼を見つめている間にニトロは仕事をはじめていた。何を考えているのだろうな、と思いつつ手を動かすのは楽しい。 どれほど疲れていようとも、ニトロにとって魔法は喜びだ。魔力を操っている間は肉体の疲労などどこかに行ってしまう。 「あ――」 ましてこうしてキアランが素直に驚くのだから。ニトロはいま、泉のほとりの木々を操っていた。長く伸びた枝を切り落としはせず編み上げる。どこからともなく伸びてきた蔓が補強し、いつの間にか屋根になる。長い草が茂り、ふかふかの絨毯のよう。別に伸び出した蔓が屋根に絡み、緩やかに垂れ下がっては壁になり、戸になる。あの蔓をかき分けて中に入るのは楽しそうだ、キアランは目を丸くしていた。 「すごい。魔法、ですよね? こんなことができるなんて。想像したこともありませんでした」 「ちょっと面白いだろ? 俺は水系だからな。あんまりうまくねぇけど」 「そう、なんですか?」 キアランにはなまじの天幕などよりよほど豪華な「居間」ができあがってしまったように見えているというのに。 「地系のやつがするとすごいぜ? 若木を編んでダイニングセット作るやつまでいるからな。苔でクッション作ったり」 「……想像できませんね」 「今度誰かに頼んでやるよ」 楽しそうなニトロだった。水系、地系、と言われてもキアランにはぴんとは来ない。ただ、専門分野なのだろう、と漠然と思うだけ。自分の得手ではないことに、これだけの技量を見せるのか、魔術師というものは。 「誤解だぞ? こんだけのことができるのは一流の上にいくつか超がつく一握りだけ、だな」 「あなたは――」 「自分で言うのもなんだけど、俺は既知世界で有数の使い手だぞ? 師匠には負けるけど」 正直に言えばいまならばたぶんトリムにでさえ勝てる、とニトロは思う。カレンと真剣に立ち合ったらどうだろう。三本に一本は無理でも、五本に一本は取れるかもしれない。自信が過ぎるか、内心でそっとニトロは笑う。 もっとも、立ち合いの優劣は魔道の優劣ではない。その上で、自分はトリムの魔道の先にいる、とニトロは確信がある。カレンの魔道の半ばに立つことはできている、とニトロは感じる。いずれその先に進む者として。 「そんなすごい人だったんですね、あなたは。――ただ、あなたに違いはないと言うか……どう言ったらいいんでしょうね? ニトロはニトロだな、と思いますよ」 彼ら師弟が重い肩書を持つらしい魔術師であるのはイーサウ滞在中に知っていた。が、偉大な魔術師だなどとは実感のなかったキアランだった。ニトロが言うのだから、脚色のない事実だろうと思う。 「あんたは……面白いな」 ニトロの立場を知り、それでもキアランはまるで動じた様子もなく、見る目が変わりもしない。すでに自分という男をキアランは知っている、そういうことなのだろうか。キアランの言葉にならない何かは、あるいはそのような何か、であるのかもしれない。もっともキアランですら言葉にならないものなど、ニトロに理解はできなかったが。 「さて、と。ねぐらもできたことだ。ちょっと脱いで来いよ」 「……はい?」 「カハルさんに言っただろ? 練習しようぜ」 咄嗟にニトロが別のことを示唆したような気がしてキアランは慌ててニトロ謹製生天幕の中に走り込む。 「……しまった」 キアランの背中に淡々と言うニトロだった。まずいことを言ったな、とはいまになって思う。 「まぁ、許してくれんだろ」 甘えてばかりでは申し訳ない。けれどいまの自分ではこれが精一杯だ。いずれ物の言い方、言葉の選び方、キアランに教えてほしいと思う。そうこうするうちにキアランが狼になって現れた。 「よし、やるか」 今のいままで困り顔で頬のあたりなどをかいていたニトロとは思えなかった。きらきらとした眼差し。魔法の研究をしているときの彼の目だった。 キアランが返答をするより先、ニトロは泉に踏み出す。あ、と狼が息を飲んだのを背中に聞いた。ニトロは水面に立っていた。 「ちょっとやってみてくれるか?」 ニトロは自分が止まれないのを知っている。ならば走って見せろ、ということだろうと解釈し、キアランはひょい、と足を踏み出した。 ぽん、ぽん、と水面に波紋が浮かぶ。次の波紋に押されて消える。キアランが小さな泉を縦横に走っていた。漆黒の巨体が軽々と駆ける様。美しいと言う以外に言葉がない。ぽん、とほとりに戻り、キアランは首をかしげる。これでよかったか、と問うように。 「うん、わかった。なるほどな。やっぱ魔力を転化してるな……ということは、と」 ふむ、と泉の上に立ったまま考えるニトロだった。ひどく幻想的で、それでいて限りなく現実。狼の顔のままキアランは笑う。 それからニトロの言葉とわざわざ可視化させた魔力の流れを使ってキアランは学んだ。何度も沈みそうになったものの、少しずつ止まることができるようになる。 「お、すげぇ。できたな」 ――みたいだ。体で覚えると、なぜできなかったんだろうと不思議だね。 「あんたは元々、妙な癖がついてないからな。俺としても教えやすい」 ――そう? 「おうさ。自己流で覚えちまってるとその矯正に手間がかかるからよ」 ――屋敷に軟禁だったのも悪くはなかったかな。伯父に教えてもらうまで、人狼にこんなことができるとは知らなかったし。 「海を渡ってくる狼は昔話だと、当人が思ってたわけだな?」 内心で肩をすくめたキアランの気配。ニトロは大きく笑う。つい、と狼がニトロを見上げた。器用なものだった。あっという間に習得し、いまでは当たり前の顔をして水面に立っている。 ――ニトロ。僕は狩りにでも行ってこよう。夕食を楽しみにしていてくれるかな? 「……ん? あぁ、頼むよ」 風が立つようだった。ふわりと狼が飛びあがり、一足で大地の上に。そしてニトロを振り返っては笑う。牙を剥いたようだったけれど、確かに笑う。そうしてキアランは走って行く。 「勘づかれたかな?」 ニトロはまだ泉の上で苦笑していた。キアランはすでに知っていること。ニトロの人嫌い。戦後処理で、否応なく他人に会わざるを得なかったニトロ。折衝だの使者だのと忙しかった。 ニトロはほっと息をつく。キアランは気づいた、それに。肉体の疲労だけではなく、精神の疲労だと。こうしてキアランと魔法で遊んでいても、不意に蘇った疲れ。 狩りに行く、そんなことを言って一人にしてくれたキアランという男が、得がたいと改めて思う。ゆっくりと水面に立ったままニトロは息を吸う。水の匂いと風の音。木々の梢の騒めき。鳥の声。ただ、それだけ。両手を広げ、呼吸をする。 「……うん」 そしてニトロは着ているものを放り投げる。器用にほとりに投げ捨てて、わずかにためらう。そんな自分をそっと笑った。 「前は平気で素っ裸だったよーな気が?」 シアンがいたころ、調査のためにこの泉には潜っている。あのときはどうだっただろう。いまは少し、気になる。考えた挙句、下着だけはつけたまま。そんな自分が面映ゆくて、そちらの方がずっと恥ずかしい。 水系を名乗る属性型魔術師が見れば嫉妬のあまり縊り殺しそうな景色だった。水面に立っていたはずのニトロは半ば魔法を解除し、ゆらりと沈む。それでいて、沈み切りはしない。 まるで水にただ浮かんでいるかのよう。魔術師の目には歴然と違う。水を操り、水によって支えられたニトロの肉体。 「面白れぇなぁ」 何度体験しても面白い。竜の泉の水はどうしてこんなにもぬくもりがあるのだろう。滾々と湧き出している綺麗な水だ。淀みもない。それなのに、まるで日向水のよう。 浮かんだままニトロは天に向けて両手を伸ばす。水の滴る両の腕。浅黒い肌に水滴が伝う。気にも留めずニトロは空を掴もうとするかのよう。白金の髪は短いというのに水に散りしだく。ゆらゆらと揺れ、揺蕩い、流れのままに彷徨うニトロの体。 目を閉じれば思い浮かぶ様々なこと。シアンのことであったり、戦後処理の面倒さを思い出したり。キアランのことも。 「そう言えば――」 カレンに妙なことを言われたな、と思い出していた。慌ただしい仕事の合間に何を言っているのか、と怪訝な顔をしたニトロにカレンは気にするな、とあえて言って背を向けた。 「だったら言うなよ、もう」 気になって仕方ないではないか。それなのに、何を言われたのか、言葉は覚えていてもどういう意味だったのかは、わからない。 溜息まじり、それでもニトロの口許には笑み。狩りから戻ったキアランが見つけたのは、そんなニトロだった。眠っているらしい。器用なものだとわずかに呆れる。習い覚えたばかりの技を使ってニトロの側に。ちょん、と鼻先でつつけばゆったりと開いては覗く藍色の目。ニトロの眼前で、金の目が笑っていた。 |
