いずれ必ず彼の先に行く。そう決めていてもまだまだ遠い師。それが嬉しくないと言ったらエリナードは嘘だと思う。そんな思いが恥ずかしいと、フェリクスは気づいてもいる様子。こほんと咳払いをしたエリナードをオーランドが笑った。
「それで師匠。何を?」
「できたから味見。はい、エリィ」
「って、うわ!」
 どこからともなく取りだし、一呼吸すらもおかず口の中に放り込まれたのは降臨祭の焼き菓子。相変わらずの焦げた菓子だった。例の臭いの元凶と知っている子供たちはフェリクスが差し出す菓子に恐る恐る手を出し、エリナードを窺う。
「あれ? 普段と違うな……」
「そう?」
「うん、いつもよりなんかうまいですよ」
 エリナードの言葉に我先にと子供たちが菓子に食いつく。現金なものだった。が、オーランドまでそうしなくともいいだろうにとエリナードはどことなく切ない。不機嫌そうなフェリクスが目の前にいるのだからなおさらだった。
「でも……」
「なに?」
「俺はいつものほうが好きかなって思って。誰か手伝いました?」
「……カロルが見るに見かねて手伝ってくれたけど。それにしたってエリィ。僕が上達したとは思わないの、あなた」
「俺が知る限り二十五年以上師匠の菓子の腕は上がってませんよ」
 それでも焦げたフェリクスの菓子がエリナードは好きだった。あのとんでもない臭いをさせておいて当たり前の「焦げた焼き菓子」というところがなお恐ろしいのだけれど。それでも。
「ふうん」
 それだけを言ってフェリクスは目で笑う。オーランドがそんな師弟を見てはちらりと笑った。二人同時にこつん、とオーランドを小突くのに師弟が顔を見合わせ、そして笑いあう。
「あんまり食べるんじゃないよ、お腹壊すからね」
 自分で焼いたくせにフェリクスは言い、子供たちも笑いながら返事をしていた。エリナードが居合わせたおかげで一足早く味見をさせてもらえた、それが子供たちにも嬉しかったと見える。そんな彼らを見るフェリクスの眼差しは優しい。
 それからはもう仕事などしていられなかった。四魔導師が率先して子供たちと遊びはじめたのだから弟子としては付き合うよりない。子供にもみくちゃにされた気分でエリナードは晩餐が終わるなり早々に逃げだす。
「……もうやだ。もう、嫌だ!」
 部屋の長椅子にうつ伏せになって体を放り出す。決して子供が嫌いではない、が、苦手ではある。それなのに子供たちのほうはエリナードエリナードとまとわりついてくるのだから逃げる隙を探すだけでも一苦労。
「もう……ほんと……やだ……」
 長い溜息。ここまでくれば子供にも魔導師にも捕まらない。なにしろここはフェリクスの私室だ。彼の部屋まで捜索に来るような物好きは星花宮にはいない。無論、フェリクスの部屋で寝転がるなどという暴挙ができるのは星花宮広しと雖もエリナードだけだ。カロルはやろうと思えばできるだろうがやる意味がない。おまけに部屋の主はいま二人とも留守中とくる。やはりフェリクス不在の間に平気で入ってくるのもエリナードくらいなものだった。
「なに、エリィ? いたの」
 しばらく転寝をしていたエリナードの髪の上、柔らかに置かれたフェリクスの手だった。起こしたくはないけれど風邪を引くよ、と言うような。それほど軟弱なつくりではない、言い返そうとしてけれどエリナードはやめた。
「勝手に入らせてもらいましたよ」
「いいよ、別に。逃げてたの?」
 くすりとフェリクスが笑う。仰向けになって横たわる、という師の前では考えられない格好のエリナードをフェリクスは咎めない。ちょこん、とエリナードの腰のあたりに座り込む。
「もう疲れましたよ。なんであいつらあんなに元気なんだか」
「あなただってちっちゃな頃があったでしょ」
「ありましたけどね、俺はあそこまで元気いっぱいじゃなかったですよ」
 そうだったね、とフェリクスの目が笑う。今となっては信じがたい事実ながらエリナードは少年時代、非常に内気だった。なにが切っ掛けでこんな風になってしまったのか、自分で自分がわからない。逆に子供時代はなぜあれほど内気だったのかも。
「大人になったよね、可愛いエリィ」
 認めてくれるのは大変に嬉しくはあるのだが。エリナードは顔を顰める。押しやろうとしたフェリクスはけれど笑顔のまま。
「師匠。どいてくださいって。これ、誤解されるから!」
「いいじゃない。誰も見てないし」
「そう言う問題じゃないですから!」
 横たわったエリナードの上に圧し掛かっているフェリクスだった。誰がどう見てもこれは「見てはいけないもの」だろう。エリナード自身そう思う。二人とも単に親密な師弟の会話だと思っていたとしても。問題は他者が断じてそうは思ってくれないことだった。
「ほんと、大きくなって。僕としては嬉しいやら恥ずかしいやら?」
「なんで恥ずかしいんですか、なんで!」
「なんとなく?」
 ふふ、と笑うフェリクスがエリナードの胸の上でことりと首をかしげて安らいでいる。天を仰ぎたいエリナードはすでに天井を見上げていることに気づいては情けなく笑った。
「今年は忙しかったでしょ、あなた」
「主に師匠の用事ですけどね。別にそれが嫌ってんじゃないですよ? 対人関係が面倒だったな、とは思いますけど」
「だよね、それは僕もそう思う。今年はなんなんだろうね。次から次へと厄介事ばっかり」
 それを回してきたのはフェリクスだろう。エリナードは言わない。師を非難するように聞こえかねなかったから。そのような気は毛頭ない。フェリクスとしてはやらせたくなかった仕事もあるだろうし、否応なくエリナードが受け持ってしまったこともある。
「俺は……ちゃんと師匠の気持ちを知ってるつもりですよ」
「うん」
「師匠は、俺のことをちゃんと考えてくれてる。だから、大丈夫ですよ。それに、子供じゃないんですからね、もっと用事を言いつけてくれたっていいんですよ」
「わかってるよ。だからなんでもかんでもはやらせない。あなたじゃなきゃだめなことだけ、頼むんだ」
「なんでもかんでもやらせていいのに」
「それじゃあなたの研究が捗らないでしょ」
 ただでさえ悪いと思っているのに。呟くフェリクスを意外なものを見たような目でエリナードは見つめる。
「なにその目」
「別に……悪いと思う必要なんかないと思って? 俺は師匠の弟子だし。いくらでも使えばいいのにと思いますよ」
 好きでやっている仕事だから。エリナードは笑う。いまはまだ遠いフェリクスの背中。ならばせめて手伝いだけでも。そしていつか必ずその先へ。
 決意と言うほど固いものではない。あるいはなお堅固な。エリナードにとってのそれは当然の生き方。愛弟子を見つめるフェリクスの目は柔らかだった。そっと伸ばされた指がエリナードの頬をたどる。大きくなった子供を愛おしむように。
「こういうことはタイラント師にすればいいんですよって言うか、俺とじゃなくてタイラント師としてくださいって」
「タイラントとは……」
「あぁ、誰も見てないとこだったらしてるのか」
「馬鹿な子。するわけないでしょ。僕とタイラントをなんだと思ってるわけ?」
「そりゃ最愛唯一無二の伴侶でしょーが」
「だからだよ。わざわざこんなことする必要もない」
 冷たい言い分なのかとんでもない惚気なのか判断に迷うところだな、とエリナードは思う。フェリクス自身はそう思っていたとしてもタイラントはどうなのだろう。やはり二人でこうして過ごしたい日もあるのではないだろうか。よけいなお世話かもしれないが。
「エリィ――」
 言いつつふわりとフェリクスが笑った。それこそ誤解では済まないような師の笑み。エリナードは戸惑わない。にやりとする間もなく扉が開く。そして絶叫でも悲鳴でもない、息を飲む音。
「タイラント師。誤解する余地なんざないと思うんですが。相手は俺ですよ?」
「なんで君はそんなに冷静なんだよ!?」
「慌てふためくと師匠が喜んでからかうから、です」
 なんだつまらない。胸元から非常に聞きたくない言葉が立ち上ってきたけれどエリナードは聞こえなかったふりをする。それより早くどいてほしかった。どう見てもいま邪魔者なのは自分だ。
「エリィ、気がつくの早かったよね。僕と同じくらいだったでしょ」
 扉が開くより先にフェリクスはタイラントの存在を感知していた。伴侶のことでもあったし、なによりフェリクスは技量に優れた魔術師だ。けれどエリナードは誰がどう言おうがいまだ弟子。フェリクスの息子はにやりと笑う。
「そりゃ簡単ですよ。俺が気づいたんじゃないです。師匠が気づいたのを見て悟っただけ」
「どう言うこと?」
「……ていうかな、君たち。俺が置き去りなんですけど」
 扉を閉めただけでいまだもじもじとしているタイラントだった。力ずくでエリナードを放り出せばいいだろうにそうはしない彼。師弟揃ってそれを知っているからこそ、こうして遊んでいられる。エリナードはそんなタイラントを横目で見やって目で笑う。
「簡単なことなんですけどね。タイラント師が近づいてくるだけで師匠、すっげぇ幸せそうな顔するから。それですぐ――」
 最後まで言わせてもらえなかった。一息でフェリクスを放り出しエリナードは長椅子から飛び起きる。次の一息で扉の側まで逃げ。
 恥ずかしかったのだろう、フェリクスは。それは理解する。それが魔法の攻撃と言う形になって表れるのも己が師のことだ、理解できる。加減もしてくれていることだし――本気の攻撃ならばエリナードはいまごろ壁の染みだ――それはそれで構わない。
「って待て! 師匠はともかくなんで俺はタイラント師にまで攻撃されてんですか!?」
「知るか! うっかりだよ!」
「さすが僕の可愛いちっちゃなタイラント? 攻撃に容赦がないね。でも、僕の可愛いエリィに何してくれるの!」
 ここでエリナードはようやく部屋の外へと逃げ出した。扉を閉め、厳重に封印を施す。粗忽な誰かなどいないはずではあるけれど、万が一にも誰かが見てしまわないように。
「ったく。もう!」
 文句を垂れてエリナードはそれでも笑っていた。部屋の中からは何か聞こえてはいけない音が聞こえた気がするけれど、いずれ二人の師のことだ。放っておいても問題はない。
「しょうがねぇな、のんびりしようと思ってたのによ。……ロイんとこでも行くか」
 そういえば降臨祭には顔を出せと言っていたな。思い出してエリナードは歩きだす。ちらりと背後を振り返れば師の部屋の扉。名残惜しいと思う自分に苦笑して、エリナードは降臨祭の夜に出て行った。




モドル   オワリ   トップへ