親しくなるのにさほど時間はかからなかった。 屋敷にあるいは剣持家に訪問しあい、さまざまな話をした。 とは言えはじめからあまりに親しげだったわけでもない。 社交界の噂話や当り障りのない話をしているうちに次第にそうなっていった。 だからそれは、それだけしばしば会い、次を約束し、約束のない日に突然訪問したりもした結果だった。 頭の回転が早い彼と話しているのは私の知的好奇心をこれ以上ないほど満足させるから、そう思っていたのだ。はじめは。 そう、はじめは。 それが誤っている、と唐突に気づかされたのは薫さんのなんという事のない問いの言葉だった。 思えば彼はすでにそのとき、自身の感情に答えを見出していたのかもしれない。 「最近、千尋はずいぶん美しくなりましたね」 そう言った彼の言葉に、私はどれほど不快を感じた事か。 なにほどの事はない、そんな何食わぬ顔をしたまま言ったくせにどこか苦しげな薫さんの表情。 ただ事実を述べているに過ぎない薫さんの言葉なのに、私ゆえに美しくなった、とでも言われているような気がしてならなかった。 おそらく間違ってはいないのだろう。 彼はその言葉で私を試したのだ。 すでに答えを見つけていた彼と、いまだ子供の精神のままであった私と。 不快だ、それを感じた事で私は大人になった。 独占欲を知った。 自分の「間違い」に悩みはした。ごく短期間。 世間の思惑より、親の定めた許婚より、大切な人に会った。そういうことかもしれない。 私にはわからない。 結婚を間近に控えていたというのに私は人を愛する事がどういうことなのかを知りもしなかったのだから。 生まれて初めての恋に酔い、そして酔いきれない程度に大人だった。 薫さんと私はそれからもそれまで通り、非常に近しい友人である、という関係を崩すことはなかった。 手に触れたことさえなかった。 それを今は悔いている。 世間の思惑など、そう言った口で私は恐れていた。 誰も傷つかない、そんな事のあるわけもない私たちの恋をもっと早くに成就させていれば。 薫さんがあんなにも早く逝ってしまうと知っていたならば、私は誰になにを言われようとももっと早く彼を手に入れていただろう。 「散歩に行きませんか」 そう言って笑う、私より少しちいさな彼が隣を歩く。 お互いにそれで満足だった。 同じ時間を共有している。ただそれだけで。 特別な視線を交わすこともなく、体に触れることもない。 本当にそれで満足だった。 どうするわけでもなく、互いの想いを確かめたわけでもない。 それなのに満足、とは不思議だろうか。 物事がおかしな方向に向かったのはやはり、と言おうか千尋が原因だった。 いや、原因と言うならば私のせいなのだけれど。 「そろそろ式の準備など忙しいではありませんか」 それとない彼の言葉に、少しばかり血の引いた表情に、なにかあったと察せられないほど鈍くはない。 「千尋さんが、なにか」 思わず尋ねていた。 少なくとも私たちの間で、千尋の事が話題になることはなかった。 当然だろう。 どちらともなく避けていた話題を彼が持ち出したのに、千尋が関わっていないわけがないのは。 「いえ」 曖昧に笑う薫さん。 忘れもしない、梅雨時だった。 剣持家の庭の東屋にいたのだ。 あの日、訪問したばかりは雨が降っていて、そう、しばらくすると止んだ。 「歩きますか」 いつものように彼は言って私たちは誰に気兼ねする事もない二人だけの時間を持つため、庭に出る。 他愛のないことを話しながら歩くのはどれほど楽しいことだったか。 なにも話さず黙ったまま歩くのはどれほど幸福だったか。 梅雨の雨はそのまま止んでいる事はなく、ちょうど東屋についたころにまた降り始めた。 薫さんが千尋の事を持ち出したのはそのときだった。 いえ、と言ったきり黙ってしまった彼を私はどんな思いで見ていたのだろう。 ただ千尋への憤りしか感じていなかった、そんな気がする。 やはり私は幼かったのかも知れない。 薫さんの苦しみも抑えつけた感情も察する事が出来なかったのだから。 顔を背け、天を仰ぎ目を閉じた彼の顔を忘れられない。 堪えるように口を引き結び、それから彼は東屋から身を乗り出して雨に顔を嬲らせた。 「薫さん」 それ以上なにが言えたか。 引き戻そうとつかんだ手は、逆に押さえられ。 「もう逢わないほうが良い。違いますか貴治君」 顔を戻し目を開け、決然と言い放つのに言葉は静かで、なにより開いた目に沿って雨が流れ。 まるで、まるで泣いているようだった。 本当に泣いていたのかも知れない。私にはわからない。彼はそれを知らせない為に雨に晒されたのだから。 だから逆説的に泣いていたのだ、と想像するのだ。 忘れられるものか。 降りそぼる雨も、草いきれも。地面を叩く雨の音、まとわりつく大気、薫さんの体温。雨の味のした、唇。あのひとのちいさな吐息。 忘れられるものか。 彼の濡れた体を抱いたまま、一度水野の屋敷に戻った。 「貴治君」 そう、私の名を呼ぶだけで離れようとする薫さんを何度この腕に抱いて止めたことか。 このままでは見つかる。 まるで罪を犯して逃亡でもするような気になっていた。 冷静に思い返せば彼が屋敷に来る事など珍しくもなかったのだから、誰が不審に思うこともなかった、というのに。 私たちは充分なだけの金銭を持ってその足で旅にでた。 幼い、としか言いようのない行為だった。 けれどそれくらいしか考え付かなかった。 薫さんと離れたくない、その一心。 彼もまたそばにいたい、そう思っていることを表してくれたのだから。 いかにもそのままではあまりにも不自然、と私は旅行仕度をある程度整え、薫さんもまずは屋敷に戻って身支度を整えた。 無論、私はそれに同行した。 「ちょっと出かけてくるよ」 双方の家の者にそれだけを言って私たちの逃亡生活ははじまった。 |