僕は午前中の風に吹かれているのが好きだった。梅雨入り前のこの時期の風はきらきらと輝くようで、それを見るのがとても好きなのだ。 さわさわと鳴る木の葉ずれの音を聞きながら僕は庭の手入れをする。彼ときたらこういった事にはてんで無頓着と見えて、いたるところに色々な草木が生えっぱなしになっている。 元の造りはいい庭なのだから少し手をかけてやるだけでずいぶん見栄えがよくなるはず、そう言っても彼は興味なさげに手を振るばかり。 「じゃあ、まかす」 そして、かえってこれ幸いと匙を投げられる始末。そんなのも、悪くなかったけれど。 僕はゆっくり振り返り、彼の寝間の雨戸を見やった。いつも寝坊の彼だけど、今日はたぶんもっと遅くなるまで起きてはくるまい。朝方になってようやく眠ったのだから。 露貴さんが話してくれたことを僕は黙っているのが嫌で、彼に言ったのだった。 「あのおしゃべりめ」 そう、苦虫を噛み潰したような顔で呟く。その場に露貴さんがいたなら殴り飛ばしかねない、そんな勢いで。 だから、やはり僕はいま言ってしまってよかった、そう思ったのだ。露貴さんの前で彼が知ってしまえば、きっと二人の間は険悪になってしまうから。僕なんかのことで、彼が親しい人と不仲になるのは見たくない、 「桜さんの事も……いずれ話そうとは、思ってた。すまない」 「ん。先に聞いてたら、きっと変にこだわっちゃって、せっかくの機会をだめにしたかもしれないし。大丈夫、気にしてない」 そっと抱き寄せて彼がくれたくちづけは、感謝だったのかもしれない。 嫌なことは一度で済ませてしまいたい僕はついでとばかりに、これもたぶん彼が言いたくないだろうことを聞いてしまうことにする。 「篠原忍って、つけたの露貴さんなの」 「……そうだ」 なんで気づいた、言葉にそんな刺がある気がして僕は笑って言う。 「あてずっぽうだよ。仲いいからさ。それにほら、あなたそんなしおらしい名前を自分で考えるような性格には見えないし」 いくら笑い飛ばして見せたって、そんな答えで彼は納得なんかしやしない。 けれど、露貴さんがつけたのだと聞いた以上、僕にそうやってごまかす以外に何が出来ただろう。篠原忍、そう聞いて僕みたいな人間が一番最初に思い出すのは「浅茅生の小野の篠原忍れど あまりてなどか人の恋しき」という百人一首の歌。 要するに隠しても隠してもあなたへの恋はあふれるばかり、そういった歌意だ。つまり、露貴さんが想っているのは夏樹だ、ということになる。 だからこそ昨日露貴さんはあれほどまでに荒れたのだ。そうとっさに理解した僕に、これ以上何ができただろう。 夏樹は分っていて、露貴さんの所に僕をやった。あきらめろ、という事か。気づいて僕は慄然としたのだ。桜さんのことはひとまず置くとしても、どれほど露貴さんが彼を愛しているのか、僕は知ってしまった。そしてまた夏樹がそれを叶える気のないことも。 僕は今まで危うい均衡を保っていた二人の間に一石を投じてしまったのかもしれない。僕はいてはいけない存在かもしれない。そう考え僕は強く首を振る。そうさせたのは選ばれたのは僕だ、そんな自信かもしれなかった。 彼は昨日、抱きしめた僕を離そうとしなかった。抱かれたときも執拗で、いや執拗というよりもむしろそれは哀願だった。どこにも行くな、そばにいて欲しい。そんな。 だからこそ彼は裸のまま僕を抱きしめ続け、朝までまんじりともしなかった。うとうととしては目が覚めて彼を抱き返す。 そうしてようやく彼が眠りに落ちた頃、朝の最初の光が差し込んできたのだった。 けれども僕は、結局その緊張に耐えられなくて、逃げ出した。愛されている自信、それを僕は持ちきれなかった。 露貴さんは僕よりずっと前から夏樹を知っていて、なにもかも見てきていて、彼の年の違わない叔父であることを乗り越えて、夏樹のことを愛していた。 すごした時間の長さじゃない、理性はそう告げるけれど、理性がそう言えば言うほど、ならばその均衡を破ったのも僕だ、ということに気づかされる。 身を引くべきは、僕のほう。二人の間にそれで以前の平穏が訪れるなら。夏樹がそれで穏やかな毎日を過ごすことが出来るなら。望むのは、ただひとえに彼の幸せだけだった。 偶然のめぐり会いから、こんなにも深く、彼を大事に思うなんて想像だにしなかったのに。彼の平穏を願い、幸せを祈る。 反面、誰のものにもなって欲しくない、ことに露貴さんのものにだけは。そう叫ぶ僕がいる。 それはたぶん僕に会ってからの露貴さんの気持ちでもあったのだ、そう今ならわかる。 自分のものにならないのなら、せめて一人でいて欲しい。友として側にいられるならそれでもかまわないから、誰のものにもなってくれるな。それで充分だから。そう、利己的な、祈りにも似た思い。 やさしい笑顔の向こうで、鮮やかな言葉の影で、どれほど露貴さんが苦しんだのか、ようやく分った僕は感じる必要のないはずの罪悪感に身をさいなまれ、心を失っていく。 不可抗力だ。そんな言葉は今なんの役にも立ちはしない。なにより、露貴さんの苦しみよりもなお、僕は夏樹の平穏を乱したことを厭う。 ひとつの季節にも足らない日々のことをいつしか夏樹は懐かしく思い出してくれるかな、そう思って僕は己を嘲った。 いつの間にかに降り出した雨が僕を濡らしていく。あの家から僕がたった一つ持ち出した、最初の晩に借りた飛白の着物を着た僕の体を濡らしていく。 雨に始まって雨に終わったんだ。そんなことを考えながら小さくひざを抱えた。目を閉じれば浮かんでくる彼の、笑顔。閉ざしてもなお聞こえるその、声。着物に、かすか残っていた彼の、匂い。 僕はあの野毛山の、群れて咲いた紫陽花の陰、涙があふれて止まらなかった。もうどうでもいい。彼の側にいることを僕は放棄した。もう、どうでもいい。彼に出会う前の自分に戻っただけ。ただ、それだけ。 あの家から逃げ出して、いったいどれくらい経ったのだろうか。三日までは数えた。後は知らない。 なにをするわけでもなく、むしろ何もしないためにただじっと座っている僕を、最初は奇異の目で見ていた人達もいつか気味悪そうに近づいてこなくなった。梅雨の冷たい雨が憔悴した僕から体力を急速に奪っていく。 「死んじゃうかな」 呟けば、潰れて掠れて汚い声が、嘲う。それならそれでいい。彼がいなくたって生きていける。人間そんなにやわじゃない。そう、分っていたって、生きていたくない人間だっているものだ。 僕は生きていたくなかった。閉ざした瞼の向こう、旧友たちが笑っている気がした。無意味で無駄で、勝ち目なんか最初からありはしなかった戦争で犬死していった友達。あいつら僕のこと、迎えてくれるかな。 それきり意識はなくなった。 どこか遠く、僕を呼ぶ声が聞こえる。抱きかかえた腕のぬくもり、あせり声、叩かれている、頬。 放って置いてくれ。僕は還って来たくなんてない。我知らず固く引き結んだ唇に、固いものが差し込まれ液体が流れ込んでくる。金属の味。スプーン。しょっぱくて、甘い水。 それが砂糖を混ぜた塩水と知って僕は脱水症状を起こしているんだな、なんてことを思う。軍人は嫌だ。こんなときまで理路整然と考える。僕の性格かもしれない。 温かくて柔らかいものが唇に触れては、じれたように塩水を流し込んできた。口移しの塩水。 誰かが泣いている気がした。誰かが僕を呼んでいる気がした。誰。聞きなれた声。懐かしい、声。愛しい……。考えたくない、還って来たくない。意識はまた闇に呑まれていった。 何度も夢を見た。目が覚めるたびに、泣いていた。死ねなかったからかもしれない。生き残れたからかもしれない。 朝がくるたびに泣いて、泣き疲れて夜がくる。そして目が覚めて、いつしか眠る。何度繰り返しただろう。何日経ったのだろう。僕はどこにいるのだろう。 目を開けたまま遠くの世界にいた僕は、なにも見てはいやしなかった。ようやく「目を開けた」時そこに、彼がいた。憔悴しきった姿で、泣き笑いの顔で。 「真人」 と僕を呼んだ。 「……夏樹」 僕は信じられなくて、どうして彼がここにいるのか、分らなくて。 けれど辺りを見渡せばそこは懐かしいあの家。僕らが暮らしたあの家。僕はそんなそんな事も分らなくなっていた。ずっと見ていたはずなのに。 「おまえ、ばかだよ。なんで……」 きつく抱きしめられた体が苦しくて、痛い。それよりも心が。 「お前連れ戻してからずっと……ずっと側にいたのに、泣いてた。俺のこと呼びながら、泣いてた。馬鹿だ、お前。ずっと側にいたのに。……お前しかいらないのに」 狂おしげにかき抱く、腕。僕はこんなにも夏樹が好きだった。こんなにも夏樹に愛されていた。 心を閉ざしていた僕にくれた数え切れないほどのくちづけ。 抱きしめてはささやいてくれた言葉の数々。僕が遠くに行っている間ずっと、ずっと側にいてくれた。帰ってきたくないと泣いている間中、彼はずっと側にいてくれた。 「夏樹……」 「おかえり」 「……うん」 「もうどこにも行くな。愛してる、お前だけだ。お前が望むなら誰も知らない所に行ってやり直したっていい」 「夏樹」 「山ん中引きこもって二人きりで暮らしたっていい――」 「夏樹、違う」 「違わない」 そう、きつく叱られては彼の腕の中、びくりと身をすくませた。 彼がそう言ってくれるのと同じくらい、僕は夏樹を愛していたから。彼を失うくらいなら死んだほうがずっといい、そう思うほど夏樹を愛しているから。 小さく固まった僕の体をそっと抱き起こして彼は笑う。困ったようなやさしい笑顔。指で伸びっぱなしの髪をかきあげられ、ただ黙って見詰められた。 その目の中にどれほどまでに僕を想っていてくれるのかを、僕は見つけた。そうして僕も少し、笑った。こんな近くにあったものを見過ごしていたなんて。 「お前しか要らない。本当に」 けれど僕は。彼が真摯に言っているのだとわかっているのに、いるはずなのにどうしても素直に答えられないでいる。自分で自分が嫌いになりそうだった。 「言え。黙るな」 「……露貴さんは」 この期に及んでもまだそんなことを言う自分を憎みさえしそうなまま、僕は言う。はっきりさせておかなきゃ、また同じことを繰り返したくないから。 矮小で見苦しい僕の質問に、けれど夏樹はかすかに笑った。それからそっと髪をなでてくれた。たったそれだけのこと。それなのに僕は僕のすべてを彼が肯定してくれるのを感じる。 僕でいい。ありのままのどうしようもない卑小な僕でいい。僕が僕であればいい、と。簡単なことだった。そして難しいことだった。ただその思いだけがすとんと僕の胸に落ちてきた。 「露貴の気持ちに応えられるなら、とっくにそうしてる。応えられないから、友としてやってきた。お前を愛しく想った」 「……うん」 「だから露貴は桜さんに逃げたんだ」 「え……」 「俺の気持ちが揺らがないのを知って、兄を男として愛していた桜さんに、逃げた。桜さんはすべて知った上で、露貴を受け入れた。当然いろいろあったけど、今露貴がより愛しているのは彼女のほう」 動揺してお前を死なせかけて合わす顔がない、そう言っていたとも付け加え彼は微笑む。その瞳の奥にかすかな不安が揺らぐ。 「夏樹が好きなんだ」 同じ言葉を何度も何度も繰り返し、僕は彼の背に腕を回す。安心したかのため息が耳元で聞こえ、それからくちづけ。夏樹のぬくもり。 露貴さんにとって夏樹は永遠の想い人なのかもしれない。僕は夏樹が真実を語っていると信じている。それでも露貴さんのことは嘘だと悟ってしまった。だから嘘をついたのは、露貴さんなんだ。 僕は夏樹が好きで、どうしようもなく好きで、だから露貴さんの気持ちが痛いほど今はわかる。そんなことを考えながら僕は彼の腕の中、体を沈めていった。 「また、泣いてる」 唇で涙を吸いながら、彼は言う。けれど今度は悲しいわけじゃない、夏樹も分っているのか笑っていて。 「夏樹が好き」 すべてここからやり直そう。まだ露貴さんを前にする自信はなかったけれど、夏樹に愛されている自信はついたから。 元気になったら会いに行こう。夏樹を間に露貴さんといい関係が築けるならば、僕だって当然それを望んでいるのだから。いや、築かなくちゃいけないと思う。夏樹のために。 夏樹の話をたくさん知りたい。露貴さんと、そんな話をたくさんしたい。嘘まみれでもいいじゃないか。露貴さんが夏樹を悲しませるはずはない。だから、露貴さんは僕を渋々であっても許してくれる。 甘えかもしれない。それでも僕にできるのはそんなことだけ。露貴さんと二人で夏樹を支えていく。この先ずっと。 「俺のために死のうと思う位なら……俺のために生きてくれ」 彼の言葉に僕は黙ってうなずいた。今は言葉なんか、いらなかったから。 夏樹と二人、長い道を歩いていこう。甘さも痛みもすべて二人で。夏樹と一緒に生きていこう。蝉の声がかしましい、それは盛夏の事だった。 あれから一年。水野琥珀の初めての歌集を上梓した。耳成山の梔子、と言う。 耳なし、口なし。誰にも言えない僕らの恋。けれどじゃれあい、笑いあいながら僕らは生きている。きっと死ぬまで離れない。 |