夏樹は今日の顛末を手短に語り、珍しく声を上げて笑った。照れ隠しなのだな、と思うと僕まで何だか気恥ずかしい。 「まったく、桜さんにはかなわない」 「お前の男好きは今に始まったことじゃあない」 「女嫌い、と訂正して欲しいね」 からかう露貴さんの言葉にさも嫌そうに夏樹が言う。 叔父甥と言うより仲のいい友達、と言った風だ。無理も無い。彼にとってのたった一人の味方だった人でしかも年と言えばたったの三つ違い。学校だって一緒だったはずなのだから。 「訂正の必要がどこにある」 「女嫌いだからといって男が好きだと言うわけでもあるまい」 「それを真人君の前でいけしゃあしゃあとよく言ったもんだ」 どうやら軍配は露貴さんのほうに上がったらしい。 言葉に詰まった夏樹が僕をすまなそうに見るのに思わず吹き出してしまっていた。 「些細なことを気にしない。夏樹に似合いの……いい子だな」 突然ふわりとやさしい目をした露貴さんに僕は一瞬見惚れ、その言葉のありがたさをしみじみかみしめる。世を憚る仲でも、こんなに見守ってくれる人がいるなら、悪くない、と。 夏樹以上に本当は照れ屋の露貴さんは、ぬるくなった茶を一息に飲み干しては立ち上がりひとつ大きく伸びをする。 「じゃあな」 夏樹が何かを言う前にそれだけを言って背を向けた。それ以外のことを僕に気づかせる前に。 「妙な奴だ」 こちらも再び照れたものか、夏樹は苦笑混じりに呟いていた。 何日かして僕は露貴さんのところに使いにやらされた。 彼の会社の社内誌に夏樹は短い文章を寄稿しているのだそうだ。その原稿の使いだった。 市電に乗って桜木町に差し掛かれば、今日はずいぶん占領軍の兵士の姿が目に付いた。 「そうか……開港祭か」 教えられた駅で下車したとたん、歓声が聞こえる。振り向けば、花電車。体いっぱいに造花を飾り、開港祭の額を掲げた、花電車。 「きれいだなぁ……」 日本人と占領軍の兵士が肩を並べて花電車を見ている。片言の英語と片言の日本語。身振り、手振り。それで通じる。 もともと横浜と言う町はそういう町だった。日本人の中にたくさんの外国の人たちが交じり合い、異文化と伝統文化が何の不思議も無く横浜の文化になっていた。 港町の文化だ。戦前の日本が、ここにあった。これからこうして平和の灯が広がっていけばいい、そう思う。 戦争が終わった初めての春、広島に、長崎に芽吹いた草の芽を平和の証として、これからは僕らが育てていくべきだ。 そうも、思う。けれどまた、戦争の噂が町に流れている。もう繰り返したくなんて、ないのに。誰しもきっとそう思っているはずなのに、どうしてこの世から戦争はなくならないのだろうか。 時々僕は人間と言う存在そのものが哀しくなる。溜息をひとつつき、僕はきっぱりその思いを胸にしまう。 藤井貿易とかかれたドアをくぐる。この建物自体も藤井ビルヂングとなっていたから、たぶん彼個人か少なくとも藤井家の持ち物なのだろう。 駅から程近いところにある雑居ビルだ。これだけでもたいした資産だな、なんて思ってしまう。 「原稿、届けにきました」 「ずいぶん早いね。郵送で間に合ったのに」 「そうなんですか」 いぶかしげに聞き返す僕を見て露貴さんはしたり、とばかりに笑う。 「開港祭、見たかったろう」 「……はい」 だからなんだというのか、僕にはよく分らない。確かに今ちらりと見てきて楽しかったけれど。 「私に連れて行ってやってくれ、とそういうことだな」 「……え」 「だからね」 そう言って組んだ足の上に軽く頬杖をつく。細身の体に三つ揃いのスーツがよく似合っていてそんな仕種が、やっぱり役者みたいだ。 「夏樹は人ごみに耐えられるような性格じゃあないからな。どうせ会社は閑なんだろうから、お前連れて行ってやってくれ、と。そういうことだ。分ったら行くよ」 「し……ッ、仕事っ。いいんですかっ」 いくら閑だからいいなんて言われたってはいそうですか、と言う訳にはいかないだろう、やっぱり。 「いい、いい。昼間は閑なんだ」 「え……」 聞き返せば彼はいたずらでもする様ににやりと笑い、僕の耳元でとんでもないことを言ってくれた。 「夜になるとな、占領軍の兵士が物資の横流しにくるんだよ。ま、遊ぶ金欲しさだろうがね。私はそれを闇市に出してもうける。市民は物資が手に入る。これで八方丸く収まるわけだ」 「……立派に闇ブローカーやってんじゃないですか」 「闇、に立派がつくかどうかは知らんよ」 「皮肉です」 ちらりと見上げれば――並んで立ってみて気がついた。こんな優男なのに僕より少し背が高い。僕はいたって小柄なほうだけど――不敵に笑っている。 「いい度胸だ」 ぱしり、頭をひっぱたかれた。他の人がやれば不愉快極まりないだろうけれど、なぜか彼がするとあまり気にならない。悪意が微塵も感じられない所為と、その中に好意をかすかに感じるからかもしれない。 「藤井さん」 「まだるっこしい。つゆき、でいいよ」 「いいんですか」 「苗字で呼ばれるのは好きじゃない。かといって、つゆたか、は呼びにくい」 「露貴さん」 「なんですか」 照れ隠しのぶっきらぼう。言えばまたひっぱたかれるかな、と思いつつ言ってみる。 「よろしくお願いします」 今度はどんっと背中にきた。 「桜、美人だろう」 人ごみにもいいかげん飽きて僕らは今、野毛山の公園にいる。 戦争中は陸軍の陣地になっていたのだけれど、二年程前、公園としてまた市民に開かれることになった。来年あたり、動物園が公園内に造られるらしいという噂もちらほら。僕が平和の匂いをしみじみ感じるのは、そんな些細なことだった。 「ええ。本当に……こんなこと言ったら失礼かもしれないけど、なんだかお母さんみたいでした」 「いいんじゃないか。母親だし」 そう言った彼がふとほろ苦く笑って、僕はそれ以上のことがなんとなく訊けないでいる。けれど、彼は続ける。 「娘が一人いてね。ゆきお、雪に桜と書くんだが、これがまた桜そっくりの美人だよ」 彼自身それに気づいたかわざと明るく言って見せるのさえ、僕は痛ましく感じてしまう。 桜さんの結婚は不幸なものなのかもしれない。ことのほか妹を大切に思っているらしい露貴さんにとってそれは自身のことよりつらいのかもしれない、そう思っていた。 「旦那さん、酷い人なんですか」 だからついそう、訊ねてしまったのだった。立ち入るべきことではない、そんな風に思ったはずなのに。 「え……、旦那ってなんだ。あれは独身だよ。なんだよ、夏樹、話してないのか……」 拍子抜けした、とも安心したとも取れる顔で露貴さんは笑った。僕はちらり、知っていたほうがよかったのかな、とも思う。 「ん、特に何も訊いていませんよ。複雑な家系のこと以外は」 「じゃあ、なんで複雑になったのかは、聞いてないわけか……」 たぶんそれは独り言だったのだろう。 僕はここから先はそれこそ決して立ち入るべきことではないように感じ、あえてその話題を続ける気にはならなかった。 ただ、妹を案じる彼の目の中にふっと後悔の色がよぎったのを僕は印象深く覚えている。桜さんそっくりの美人、ということは娘である雪桜さん自身も少なくとも少女の年齢に達しているということで、と言う事はまだ桜さんがれっきとした子爵令嬢であったときに生まれた子供、ということだ。 華族の令嬢が未婚の母であるとなるとどんな批判や中傷をされたかは想像に余りある。兄としてそれが妹を思えば思うほどつらかったに違いない、そう僕は思っていた。 「桜は夏樹の許婚だったんだ」 「え……」 覚えず露貴さんの顔を凝視してしまった僕に、彼ははっとし、言ってはいけない事を言った事に、気づく。少なくとも、僕には。 細かいことは気にしない質だけど、以前の許婚とあれほど親しくしていると分って気分の良いものではない。 まして桜さんは未婚の母、だ。子供の父親が夏樹でないとどうして言い切れるだろう。よく考えれば、分ることだったけれど。 「すまない。忘れて……は無理だな」 「無理ですってば」 今度は僕がわざと明るく言う番だった。強張った顔をして露貴さんが笑った。きっと僕も似たような顔をしていただろうと思う。 「私はどうも口が軽くっていけない。奴が話してないと言うことは聞かせたかァない事なんだろうけど……納得しないだろ、君は」 無論と肯く。こんな半端なところでやめられたら寝覚めが悪いと言うものだ。 けれど露貴さんが話したくないことならあえて聞きたい、とも思わない。人の傷口に塩を塗りたくるような真似だけはしたくないから。 そう僕が言えばくしゃりと僕の髪をなでて、ぽんと叩いた。それから話してくれたのだった。 「桜には当時恋人がいて、妊娠が分った時、そう知りながら奴は嫁に貰ってくれようとした。当然、子供の父親はその恋人のほうだ」 あいつの母親のことは知っているね、そう僕に確認した後、彼は軽く目を閉じゆっくりと話し出す。 まるで積年の罪を告白するかのように。そしてそれはある意味では、当たっているのかもしれなかった。 「夏樹はあんな母親が側にいたものだから、とにかく女と言うものには嫌悪感しか持っていない。だからこそ桜を妻としても桜はたぶん指一本触れられはしなかったろうよ。……それは夏樹が桜の恋人に対して恩を返すことにもなる。そう奴は考えたのさ。自分と結婚した後でもいつでも会いに来たらいい、そう言ってな」 「……露貴さん」 「そもそも婚約自体が嫌がらせみたいなもんだ。桜は血筋から言えば夏樹の叔母に当たる。けどな……婚約させられたとき、あの娘は母親の籍に入ったままだった。夏樹の母親にとってあいつは憎んでも憎みたりない男だ。その男に不義の娘を配する……嫌がらせ以外になにがある」 「嫌がらせ……」 「夏樹の母親は桜の恋人も憎んだのさ。あんまり夏樹をかばうからってな。誰もが不幸になることを見据えた、婚約だった」 あまりに自虐的な物言いに僕はふと疑う。もしかしたら、と。 「そう、桜の恋人ってのは……私さ」 まるで泣き出しそうな瞳の中に一瞬の狂気が通り過ぎる。それは痛いほどの愛情だった。けれど桜さんに向けたものだけではなかったことを僕はまだ、知りはしなかった。 「雪桜は私と桜の娘さ。だから兄のところに養女にやられた。桜は座敷牢に押し込められて、私は勘当同然。夏樹は母親との溝が決定的になって家出。みんな、悪いのは、私かもしれない」 「そんな……そんなことないです」 僕は言わずにいられない。突風が僕らの立っている丘の上を吹き抜けていく。それはまるで露貴さんの心の中で荒れ狂う嵐のように。 「たぶんきっと誰も不幸じゃないです。桜さんだって結局愛する人の子供と今いるわけでしょう。勘当同然って言っても桜さんと会えるんでしょう。夏樹だって、夏樹だって、あのまま家にいたら殺されてたって、言ってた。それに……家を出てくれなかったら僕は夏樹と会えなかった」 今、ようやく分る。どうしてこの兄妹が僕らの恋をんなにもあっさりと受け止めてくれたのか。彼ら自身がそれ以上につらい恋をしている所為だった。 僕らは公に出来なくったって一緒にいることは出来る。ずっと側にいることが出来る。けれど、彼らはそれさえ、かなわない。どんなに苦しいことだろう、そう思って僕は涙さえ出そうになる。 「……露貴さんがそんな風に思っていたら、きっと桜さんも夏樹だって、悲しいと思う。きっと、そう思います」 遠く、港のほうを見詰める彼から、肯定の意思は感じられなかった。 そのとき彼の心で吹き荒れる嵐の原因がよもや僕だったなんて、僕は考え付きもしなかったのだった。 |