しばらく数人と会話をしていたら疲れてしまった。無論、他の誰にわかるわけもない。ただカイルにだけわかるだろう。
 肩書きは秘書室長とは言え、事実上の副社長である。カイルは常に夏樹の後ろに付き従っているだけではなかった。
 彼自身が数人と会談を持ったりしている。夏樹は視界の端にそれを収めながら、いま目の前の会話をさりげなく終わらせるよう努力していた。
「カイザー」
 何とか振り切って、ほっと息をついた夏樹の前にグラスが出てくる。冷たいジンジャーエールを一口飲んで肩の力が抜けた。口にしない、顔にも出さない疲労具合を感じ取ってくれる彼がありがたい。
「ちょっと、新庄の様子見てくる」
 グラスを渡し夏樹は軽く手を振る。自分が退席している間もカイルがいれば問題はないはずだ。黙って頭を下げてカイルは彼を見送った。
 大広間の扉を抜けただけで、辺りの音が消えたようだった。中もそれほどうるさいわけではなかったけれど、こうして人の少ない所に出てみればやはり、内部の騒音は相当なものなのだろう。
 見回すまでもなく新庄はいた。別に退出するための言い訳なのだから、新庄に用などない。それでも所在無くしている部下に声くらいはかけてやろうと夏樹は近づいていく。
「あ、社長」
 座り込んでいた柔らかいソファから飛び上がった拍子、手の中のグラスから飛沫が飛ぶ。
「いい、座れ」
 言ったものの、新庄が座るとは思っていなかった。だから手招きをして夏樹は窓際へと歩いていく。締め切りの窓だと言うのに、広間の熱気に疲れた体にはまるで外気のよう、ひんやりと心地良かった。
「なにか、ありましたか」
「別に」
「じゃあ、その。えーと」
「息抜きに出ただけだ。何かあったか」
「腹が水っぽいくらいです」
 言って新庄はグラスを揺らした。確かにすることもなく座っていては茶を飲むくらいしかできることがない。
「なに飲んでるんだ」
「アルコールは飲んでませんよ」
「当たり前だ。何をしにきているかわかってるか」
「わかってます。えーと、ウーロン茶を二杯と、アイスコーヒーと冷たいミルクティーと飲んで、いまはまたウーロン茶に戻ってます」
「……それはつらそうだな」
「けっこうつらいです。あ、いや。そんなことないです。大丈夫です」
 うっかり本音を言ってしまってから慌てて否定するも時遅し。だが意外にも夏樹は笑っていた。見ればほんのりと目許が赤らんでいる。だいぶ飲んでいるのだろう。
「俺も欲しいな」
 呟くように言ったのは、決して新庄に聞かせるためにではないだろう。事実、夏樹はホテルの従業員に向けて手を上げかけた。
 それを止めたのは新庄の手だった。一瞬早く彼の手が上がっている。やはり多少、酒が過ぎているのだろう。首をかしげて新庄を見る仕種など、普段の彼からは考えられない。
 それが新庄は嬉しい。いまはきっと夏樹の代わりを務めているのであろうカイルの場所に早く立ちたい、そう思う。
 いつもほんの短い言葉で室長と社長は意思を通じ合わせている。羨ましくてならなかった。いつか誰より近い場所で夏樹を助けたい。自分が彼を支えたい。そう思い始めたのがいつかはわからない。どのみち、まともな思いではなかったから誰に言えることでもなかった。
 まるでカイルのよう、新庄はグラスを取って彼の手に渡せば、黙って受け取ってくれた。まさか拒否することもないのだから、夏樹はそうしただけなのだけれど、新庄にそのようなことをされると、思わず視線が動く。大広間へと。
「悪いことをしたな」
「え、何がですか」
「カイル」
「室長が、どうかしました?」
「可哀想に、身代わりだ。あとで埋め合わせはしてやらないとな」
 新庄に言いながら、彼を素通りする言葉。夏樹は新庄にではなく、いまここにいないカイルに言っていた。
 冷たいグラスの中身は偶然にもジンジャーエール。広間の中とロビーとで、違うものを出しているはずもないのに、味が違うような気がする。
 隣に立つのがカイルではないせいだ。夏樹はそれを思ってわずかに微笑んだ。暗い庭を移したガラス窓、夏樹の笑みが仄かに映った。
「失礼だが……」
 ガラス窓に、確かに人影が映っていた。なんとなくこちらに歩いてくるような気はしていたのだが、声をかけてくるとは思わず夏樹は不覚にも驚く。
「はい?」
 どこかで見たことはあるが、記憶に鮮明に残ってはいない。どうやら仕事関係ではなさそうな気だけしている。
「水野、じゃないか?」
 はっとした。思わずきつくなった視線に新庄が体をすくめる気配がしている。
「奇遇ですね、こんな所で。西本さん」
 あの、西本だった。夏樹が中学生のとき退学に追いやった西本が、なぜこのような場所に。
「親父殿のお供……と言うか親父の秘書なんだ、いま」
「そうですか。ご用は」
「まぁ、そう冷たくするなよ」
 背筋に悪寒が走った。西本はまったく変わっていなかった。議員だと言う父親の秘書をしているというのか、あの凶暴性を持ったまま。夏樹への執着を持ったまま。いや、それは単に再燃しただけかもしれない。いずれにせよ、夏樹にとっては気持ちの悪いことに変わりはない。
「さほど親しくはなかったと思います」
「そうかな? 学生時代は君と一番親しかったのは、俺だと思ってたけどな」
「どうぞご自由に」
「なに?」
「妄想するだけならば勝手にどうぞ、と申し上げています」
 昂然と顎を上げた夏樹の表情を、新庄は驚いて見ている。新庄は個人としての水野夏樹を知らない。新庄が知っているのは、社長の彼だった。
「新庄」
「はい」
 声が震えそうになった。ここにいるのは新庄が知らない、どこか怖いような男だった。
「室長に、しばらく代理を頼むと言ってきてくれ」
「は……わかりました」
「すぐに」
 返事もせず新庄は飛び出す。ロビーを駈けてしまった新庄に非難と驚愕の視線が突き刺さった。

 大広間の扉を乱暴に開けたかった。けれど重たい扉は易々と開かない。そもそも自分が何に慌てているのか新庄にはわからなくなっている。
 体が抜ける程度に開けた扉をすり抜け、カイルを探した。
「室長!」
 幸い、彼はすぐに見つかった。思わず上げてしまった大きな声に、カイルがそっと唇に指を当てた。
「どうした?」
 誰にともなく軽く会釈をしながら近づいてくるカイルが急に大きく見えた。それで新庄はどれだけ自分が緊張していたのか知ったのだった。
「あ……俺……」
 なぜ急いでいたのだろう。夏樹からの伝言は、それほど急を要するものではないはずだ。何度か瞬きをして苦笑する。
「それで?」
 柔らかい声の促しにあって新庄はグラスのウーロン茶を飲み下す。こんなに急いで来たと言うのに、まだ手にグラスを持っていたことがおかしかった。
「カイザーが代理よろしくって言ってました」
 カイルの顔を見た途端、安心してしまったのだろう。悔しいけれど新庄はそう思う。何度か肩を揺らして息を吸う。広間の中は酒の匂いがした。
「新庄」
「はい?」
「カイザーはなんと仰ったのか、正確に復唱してくれるか」
「正確に、ですか。えっと……」
 今のいまだというのに、ぱっと出てこない自分の頭が呪わしい。唇を噛みしめ思い出す。
「室長に、しばらく代理を頼むと言ってきてくれ、と言われました」
「……カイルに、ではなくて室長に?」
「あ。言われてみれば変ですよね」
 普段、新庄に向かって彼を役職名で呼ぶことはなかった。当然、社外の人間がいるときにはそれなりの対応をするけれど、社内の、それも秘書室の人間相手には多少、夏樹は砕けて接している。それは最も接触の機会が多いから彼らのことをよく知っている、それだけの理由に過ぎない。
「誰か……いたか?」
 だからカイルの推測は当たり前のことを指摘したに過ぎない。なぜと言う理由もなく嫌な予感だけがしていた。
「いましたけど取引先や同業者じゃないみたいです。少なくとも俺は見たことないですし」
「誰だ?」
 呟いてカイルは口許を押さえる。指示に従っていいものか惑う。
「あ。思い出した。西本さんって呼んでました」
「西本!」
 カイルが目を見開いて、かろうじて叫びだすのを耐えたよう、唇を噛む。
「もしかして、お一人にしてまずかった――」
 新庄の問いをカイルは最後まで聞くことなく歩き出す。それでも歩調はゆったりと変わらない。
「室長」
「なに」
「いいんですか、その。代理って」
「いい」
「でも……」
「あっちを放っておくほうが心配」
 歩調からは読み取れなかったカイルの心の内が性急な言葉に表れている。
 新庄は不思議に思う。確かにあまり親しい会話と言うわけではなかったけれど、なぜカイルが夏樹の指示を破るのかがわからなかった。
「室長……」
「なに」
「カイザー、大丈夫ですよね。俺、置いてきちゃいました……」
 情けない口調にカイルはわずかに振り向き少しだけ微笑んで見せる。
「あの人も大人だから。少なくともすぐに殴り合いにはならない……と私は信じているけどね」
「殴り合いって!」
 あの夏樹が。まさかそのような。喧嘩などしたらきっと指は折れてしまう、そう思うのに。
「殴り合いはともかく、グラスの中身ぶっ掛けるくらいはやりかねない」
「だから、助け行くんですか。そうですよね」
「むしろ西本さんを助けることになっちゃうだろうなぁ」
 それほどのことを夏樹はしかねない、とカイルは言う。それもどこか面白そうに。新庄は酒も飲んでいないのに、くらくらとしていた。




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