その日は朝から忙しかった。社長、秘書室長共に残業ができないせいで、普段より気ぜわしいのが原因だった。新庄は遠目に忙しそうにしている室長を見つつ自分の仕事を片付けている。 「室長」 恐る恐ると言った体で部下が持って行った書類にカイルが目を落とし、いつもと変わらぬ笑顔の一言で突返した。 「明日ね」 がっくりと肩を落とす部下を見送りつつ、いい加減に仕事の優先順位くらいは覚えて欲しいな、カイルは内心でぼやく。 「室長、そろそろですが」 そんな彼に新庄はそっと声をかける。はっと驚いたところを見ると五時近いのに気づいていなかったらしい。 「ありがとう。カイザーにも声、かけてきてくれるかな」 「了解です」 いつまで経っても使い走りめいたことを嫌がらないでくれる新庄にカイルは頭を下げ、自分も支度をしに秘書室を後にした。 カイルが着替えて戻ったとき、夏樹は秘書室のソファでむっつりとしていた。彼もまた着替えている。 着替え、と言ってもたいしたことはしていない。スーツの彩度を落とし、ネクタイを多少よいものに変えた程度だ。 「用意は」 「できました。お待たせしてすみません」 「たいして」 待っていない、と言うのだろう。カイルにだけわかるよう微笑んで夏樹は立ち上がる。 「室長、格好いいですよね」 後から従った新庄の言葉に思わずカイルはむせそうになる。 「なにがだ、急に」 「いやぁ、ほら。俺たちだって普通にスーツ着ますけど、やっぱり西洋人のほうが似合うんだなぁって」 「そんなに違わないだろう?」 「違います、全然。そうですよね、カイザー」 無茶な所に話を振らないで欲しい、そう思うカイルの溜息など新庄には聞こえないだろう。こっそりと夏樹が笑った。 「そうだな。やっぱり体格が違うんだろうな」 珍しく新庄の話に乗った。 「ですよね!」 新庄とて自分がそれほど体格的に劣るとは思っていない。ただ、やはり筋肉のつき方なのか骨格の問題か、室長と比べると根本的なところで彼のほうが似合う、そう思ってしまう。 「新庄には憧れのカイルって訳か」 夏樹の冗談口に新庄は何度か目を瞬き、でもそのとおりです、とうなずく。 「こんなのに憧れると大変なことになるぞ」 「どうしてですか」 「もれなく俺がついてくる」 そんな夏樹の軽口めいた口調に今日は機嫌がいいのだな、と新庄は思ったのだが事実は違う。カイルは内心で頭を抱えたくなった。 「私ほど献身的な男がそうそういるとも思えませんが、あなたほど面倒な人がごろごろいるとも思えません」 「自分で言うか、お前は」 「社長のことを申し上げていますが?」 「そうは聞こえなかったが」 「残念です」 さも落胆した、そんな表情を取り繕ってカイルは言う。それに夏樹が口許を歪めて笑った。 それで確信してしまう。やはり機嫌は悪いのだ、と。とっくにわかっていたことではあるけれど、まざまざと見て心躍るわけもない。 「今日はご機嫌ですよね、社長」 これ以上夏樹の機嫌を下降させるようなことは言わないで欲しい、と願うがすでに遅い。嬉々として言う新庄を夏樹がじろりと彼を睨んだ。 「なにがだ」 「パーティー、楽しみじゃないんですか? おいしいものもいっぱいありますよね、きっと」 いったい日頃どんなものを食べているのだろう、そう思わずにはいられない新庄の顔だった。 年に二度ほど、医療関係会社の懇親会がある。そこそこ人数も集まるせいでホテルの大広間を借り切るのが普通だ。だから、新庄の言うとおりそれなりに食べられるものも、出る。 ただ、懇親会など名ばかりなのだから面倒だ。実際の所はパーティーに名を借りた腹の探りあいと言うところ。製薬会社同士では新薬の開発程度を探り、医療機器メーカーは相手が画期的な発明をしていないものか窺っている。 同業者だけで集まれば自ずから生々しくならざるを得ない。そこで誰が考えたのか、医療関係会社の懇親会、となったわけらしい。 「今回はまた盛況のようですね」 ホテルのロビーを見渡してカイルが呟く。まだ時間前とあって、そこここに参加者が集っていた。 「いや、違うみたいだぞ」 「え……?」 「見ろ」 言って夏樹が指したのは本日の宴会予定。彼らが出席するものの他にもいろいろと書いてある。 「あぁ、今日は大安ですか」 その言葉に新庄が吹き出した。 「室長ってホント、妙に日本人ですよね」 「もうずいぶん長いからね」 「ホント不思議だなぁ」 普段ならば新庄もカイルが外国人であることを意識してはいない。先程のスーツの会話がまだ頭に残っているせいだった。 「政治家の後援会のパーティーも入っているようですね」 「そろそろ選挙か?」 「どうでしょう。衆議院解散と言うところまではまだ行かないとは思いますが」 「あれを見る限り怪しいと思っていたほうが良さそうだな」 夏樹が首をかしげて何事かを考えている。選挙になれば株も相場も動く。その辺りのことも彼には考える責任があるのだろう、と新庄は思う。いずれにしろ新庄には当面関係のなさそうな話だった。 「それじゃあ、新庄。悪いが頼むよ」 三人は大広間付随のロビーに移動していた。座り心地の良さそうなソファに低いテーブルが散見している。 「はい、了解です」 冗談のよう片手で胸を叩いた。二人はそれに苦笑して大広間へと消えて言った。 新庄は、つまるところ運転要員だった。パーティーとなれば酒が出る。さすがに車だから飲めません、と言うわけには行かない。 いっそ二人とも電車で行くと言ったのを、自分が運転しますから、と言ってついてくることにしたのだった。 「そもそもなぁ」 呟いて独り言だったことに気づいて新庄は慌てて首をすくめた。 どこの会社もそれほど規模の小さな会社ではない。社長だの常務だのには会社から車と運転手が出ているところも多いと聞く。 それなのにうちの会社はな。新庄は思わず微笑みたくなってしまう。社長は秘書室長に運転させるのを好んだし、そうでなければ平然と自分で運転してしまう。何だかそんなところが好もしい、とも思うのだ。世間では一般的にそれを公私混同と呼ぶ。 新庄にとってカイルは確かに憧れだった。いつかあんな風になりたいと思っている。室長みたいになったら、カイザーが頼ってくれるかもしれない。それは新庄がこっそり自分ひとりの胸に秘めていることだった。 「いかがですか?」 ホテルの従業員だろう、きちんと制服を身につけた青年がトレイを捧げて微笑んでいた。 「あ、酒は……」 「アルコールの入っていないものもご用意していますが」 「あ、じゃあ。ウーロン茶ください」 言えばトレイの上のグラスを手渡して再び微笑み彼は去っていく。わずかながら自己嫌悪に陥った。どうして会話の前に無駄に「あ」と言ってしまうのだろう。緊張したときの癖だけに中々直らない。グラスをあおれば氷が唇に冷たかった。 会場は熱気に包まれていた。むんむんと、と言うほどではないにしろ今回は本当に参加者が多いようだ。あながち先程のカイルは間違ってもいなかったらしい。 最初こそよそよそしい雰囲気が漂っていたものの、いつものことなのだ。酒が入るとたいていの日本人は酒席のこと、と言う文字がよぎるらしくいつの間にか座が乱れていく。 今回とて例外ではない。欧米のよう、こういう場に夫人を同行しない習慣のせいだろう。男ばかりでは華やぎに欠けていけないと決まって誰かが思うようで、こういう場にはそれを生業とした女性の姿が見える。 そして酒が入るにつれてあちらこちらでみっともない男が出現すると言うわけだった。もっとも、それでも同業者を探ることはしているらしいから、半分くらいは愚かな男を演じるのも礼儀の範疇かもしれない。 「社長」 そっと冷たいグラスを取って手渡されたそれを夏樹はそっと口に含み、それから半分ほど飲んでしまう。 「社長」 今度の響きは非難を含んでいた。 「誰も見てない」 「そう言う問題ではありませんよ」 「いいだろ」 からりとグラスを降って見せ夏樹は口許だけで笑う。カイルから渡されたグラスにアルコールは入っていなかった。熱気に渇いていた喉が心地よく潤う。 呆れたようカイルは眉を上げ、それから改めてウイスキーの水割りを取っては押し付けた。 「お疲れですか」 「それほどでも」 「あまり気が乗らないよう、見受けましたが」 二人で話していても半ば業務中だ。だから口調は社にいるときと変わらない。 「これだけ集まってると気が楽だな」 見回して夏樹が言う。人数が増えれば増えるだけ、一人ずつに関わる時間は減る、と言うところだろう。確かにそれほど深刻にこちらの状況を探られてはまだいなかった。 「花田製薬の社長がお見えですよ」 彼が示したほうを夏樹は見て、それからカイルの背中に隠れるようにして顔を顰める。 「お前、わざとか」 「多少は」 背中から聞こえる不機嫌な声にカイルは仄かに微笑って向き直る。 「それでもご挨拶くらいはなさらないと」 渋々足を進める夏樹の後ろ、いつでも彼を救えるようカイルは付き従った。 |