彼がそこにいた。驚くコンラートに目もくれず、唇をきつく噛んで夏樹がそこにいる。 「あれ、どうしたの」 振り返れば高遠が茶を持って立っていた。 「ん。親父がわざわざ、すいちゃんに松茸持ってけって。叔父貴には食わすなってさ。頂き物みたいだよ」 やはり夏樹はコンラートを無視して高遠に荷物を渡す。 「ありがとう、でもハルが喜ぶ。なに、喧嘩してるの、あの二人?」 「この前じゃれてたけど、知らないな。――叔父貴も好きなんだ?」 変なとこで双子だ、夏樹が笑う。けれど作られたもののように固く響いた。 「夏樹君もお茶飲んでいきな。コンラート君、座布団とってあげて」 「あ、はい」 言われるままに座布団を取って隣に敷く。夏樹は動かない。 高遠は少しばかり首をかしげ、それから唇が動く。喧嘩中?と。それに目顔で違う、と答えれば、冷たい視線が突き刺さる。 苦笑いをして高遠は消えてくれた。自分がいないほうが良い、と思ってくれたものだろう。コンラートは内心で感謝する。 「夏樹さん」 「なんでここにいるんだよ」 言葉が重なった。詰問の声にわずか逡巡してコンラートは言葉を失った。 「ずいぶん、すいちゃんに興味あるみたいだ」 わざと視線を外して彼が言った。濡れた庭に立ち尽くす夏樹を見ているのが、怖かった。 「夏樹さん……」 「答えろよ。そうなんだろ」 「違います」 「じゃあ」 「嘘みたいですが、迷子になったら偶然出くわして、雨宿りに……」 「もうちょっとマシな嘘つけ」 「本当です」 「すいちゃん、優しいし。この前あった時だって、ずっと手ェ握ってた」 吐き出すような彼の言葉。本当は、こんなことを言いたくはないのだろう。自分の誇りにかけて、そんなことを言うのは嫌なはずなのだ。でも彼は、言わずにいられなかった。 それが、そんな彼が、たまらなく愛おしい。 「ちょっとびっくりすることがあって。他意はありません」 「なんだよ、それ」 「……内緒です」 兄に似ている、と言えばどれほどその兄を愛していたのか言わざるを得ない。そんなことを言ったらまた話がこじれる。今は黙っていたほうがまだ良かった。 「帰る」 一度きつく唇を結び、夏樹を背を返そうとした。それをとっさに手を伸ばして引き止める。 「放せ」 「放しません」 嫌がるものを無理やりに、自分の腕の中へ背後から抱きこんだ。小さな体が嫌悪にではなく、震えている。 黙ったまま濡れ縁に戻って彼もろとも腰を下ろし、改めて夏樹を抱きしめた。 強く握った掌に、爪が食い込みそうになっている。コンラートは片手で抱いたままそっと夏樹の手に触れ、解きほぐすよう、その手を開かせた。 「誤解ですよ」 まだ震える彼の耳元で静かに囁く。小さくいやいやをする。髪がコンラートの頬に触れる。柔らかく抱きしめたまま髪を撫でれば少しずつ震えが収まっていく。 「夏樹さん。本当に偶然ですから」 わずかにうなずこうとして、けれどもやめてしまった気配。強情を張っているくせに夏樹はコンラートの胸に頬を擦りつけていた。 「夏樹さん――」 呼びかけに答えることもせず、彼はじっと腕の中にいる。とっさに抱いてしまったものの、どうしていいのかコンラートは悩む。こんな風に触れていいものか。けれど嫌がってはいないし。思考があちらに振れこちらに振れしているうち、いつの間にか夏樹が体勢を入れ替えて、自分からコンラートの背に腕を回している。 一瞬、身をすくめそうになる。しかしそれをしてしまったら彼がどんな思いをするだろう、そう思えば身じろぎひとつ出来なかった。 抱き返されているわけではない。そのことにしばしの後に気づく。 ――これは、しがみついてるだけだな。 心の中で苦笑して、それでようやく調子が戻った。いま腕の中にいるのは、愛しい人ではない。愛しい人だけれど、幼児のようなもの。怖がって震えている子供をこれ以上怖い目にあわせないよう、心を尽くせばいい。 「カイルが……」 ふいに夏樹が口を開く。が、途中で止めてしまった。 励ますよう、抱いた腕に力を入れれば、逡巡の後に語りだす。 「カイルが他の誰かと仲良くするの、嫌だ。……馬鹿みたい」 自嘲もあらわに彼が言う。決してその顔を見られないように、なのだろうコンラートの胸に顔を埋めて。 他の誰かに言われたならば、コンラートとてなにを言うのか、と憤慨するかもしれない。けれど言ったのは余人ならぬ夏樹その人。こんなに愛しさをかきたてられる言葉もなかった。 「そんなこと言ったって仕方ないじゃん。そんなこと言う権利もない」 しがみついてくる夏樹の髪を指でかきあげ、そっと梳く。コンラートからそむけようとした目尻にかすかな涙が残っていた。 「そんなに大事に思ってもらえるのは、嬉しいですよ」 「嘘」 「本当に。大切な人にそう思ってもらえるのは、やはり嬉しいですし」 「大切……」 「はい。あなたは、私にとって本当に大切な人ですよ」 これくらいは、許してもらおう。想いを明かしはしない、悟らせはしない、露貴に誓ったコンラートだけれど、このくらいは。 「あなたに出会えたおかげで私は日本で勉強を続ける覚悟ができましたから」 鈍い夏樹のことだから、変に勘繰ったりはしないだろうけれど、一応の言い訳はしておくにこしたことはない。少なくともこれもまた、嘘ではなかったから。 「自分が大切だと思う人から大切にされる。こんな嬉しいことはありませんよ」 「本当に、そう思う?」 ようやく顔を上げて夏樹が問う。 「えぇ、思いますよ」 「でも」 「信じて、くれませんか」 「……ずるい」 言って再び顔を伏せた。夏樹の腕から緊張は去り、残念なことにすでに背中には軽く回されているだけ。けれどコンラートはそれがまた喜びでもあった。彼がもう怖がってはいない、それがわかったから。 「なにがずるいんです?」 「だって、そう言われたら、信じちゃうから」 夏樹は照れたように頬をコンラートのシャツに埋める。 それがコンラートを救った。今の表情を夏樹に見られてしまったら、今度こそ弁解の余地はない。それほど、コンラートはいま幸福だった。 「校内でいちゃつくなって言ったからってなにも人の家でしなくってもいいだろうが」 突然の声に驚いた。 見れば庭先に水野の呆れた姿がある。聞けば伊達眼鏡なのだとかで、校内でしかかけていないのだと言う。今日もやはり眼鏡はかけていなかった。 「誰がですか!」 まだうっとりとコンラートの胸に抱かれている夏樹はとっさに反応が遅れる。だから言い返したのはコンラートだった。 「誰がって、お前らが」 「いちゃついてなんかいません」 「その格好で言っても甚だ説得力に欠けるとは思わんのか」 「……若干は」 「だろう?」 にやにや笑いながら水野が言う。が、自分の言葉を真実だと思っていないのもわかっている。ただ可愛くない甥っ子をからかっているだけなのだろう。 「でも、違いますから」 きっぱりと言うコンラートは、自分で言っていて胸が苦しい。こんな風にしているのに、違うのだ、と断言できてしまうそのことが。 「でもあれだな、そうしてると可愛いもんだ。女の子みたいだしな」 なにかを察したのか水野が茶化して話をずらしてくれる。コンラートは感謝の眼差しを向けてしまったけれど、夏樹が今度こそは反応した。 「ふざけんな、誰がだよ!」 「叔父様になんという口の聞きかたをするんだ。誰がってお前に決まってるだろうが」 「信じらんない!」 「でもなぁ、ほんとだもんな、コンラート?」 「えぇ、可愛いですね」 言ってからしまった、と臍を噛む。半ば可愛いものは可愛い、と開き直ってはいるのだが、腕の中から漂ってくる冷気はいかんともしがたかった。 「Kacke!」 憎々しげに夏樹がぼそり、言う。コンラートは片手で思わず頭を抱えた。 「いったいどこでそんな言葉を覚えたんです」 「どこだっていいじゃんか。俺だって男だもん」 「あなたが男性なのはよくわかってますよ。そんな卑俗な言葉を使って男性性を主張する必要はありません」 「だって、可愛いって言った……」 そう言っては悔しそうにコンラートに頬を摺り寄せる。その態度と言葉の乖離に気づいているのかいないのか。少しばかり空を見上げてしまうコンラートだった。視線を戻せば苦笑している水野と目があってしまってこちらもまた苦笑い。 「言いましたよ」 「だから」 「可愛い、と言うのは愛すべしって書くんでしょう? 大切な友人であるあなたを可愛いと言って、なにかおかしいですか」 「……ものすごく、おかしい」 コンラートの論理につい、夏樹が吹き出した。コンラートとて、わかってやっているのだ。日本語として微妙にずれていることは承知の上。こういうとき外国人である、と言うのは多少は有利だ。 「それは失礼」 「いい。悪意がないのは、わかったから」 「それじゃ、俺には悪意があったとでも言うのかね」 水野が再び茶々を入れる。どうしてこの教師は大人気ないことをするかな、とコンラートは冷たい視線を向けてしまった。 「ないわけがない」 「断言するなよ」 「だって悪意だったでしょ」 「悪意はない。からかっただけだ」 「そういうのを悪意って言うんだよ!」 「失礼なことを言うな。だいたい、いつまでコンラートに抱っこされてるつもりだ。ん?」 「あ――」 そうして初めて気づいたように慌ててコンラートの腕から夏樹は抜け出す。放っておけばそのまま走り去ってしまいそうなのを引き止めて隣に座らせた。まじまじとは見ず、視界の端に収めて様子をうかがう。あからさまにそっぽを向いて照れている。かすかに見える耳が赤くなっていたから、きっと真っ赤になっているのだろう。 なんとなくそれが微笑ましい。コンラートは視線を水野に向け、目顔で感謝する。意図はきっと知れないだろう。 ずっと、抱いていたかった。抱きしめて、彼の体温を感じていたかった。けれど、そうしていたら理性が持たない。間違いなく彼を傷つけることになってしまう。 本当に、限界だったのだ。だから、口が滑っている。あんな風に可愛いの大切のと言うつもりはなかったのだ。心の中ではいつも思ってはいる。しかしそれを彼自身に聞かせるなど、考えてもいなかった。それなのに自分を甘やかしてしまった。 「しかし本当にコンラートといるとお前は可愛いもんだな」 夏樹とは反対隣に座った水野がさらに混ぜ返す。ようやく納得した所をなぜこうもからかうのか。今しがた感謝したことも忘れて睨みつけたくなってしまう。 「いい加減に……」 食って掛かろうとした夏樹を手で押し止めては体ごと彼のほうを向いた。そして聞こえよがしに言う。 「夏樹さん、水野先生と本当によく似てますね」 「親父、双子だし」 「えぇ、でもそっくりですよ、叔父様と。だから、きっと叔父様もご本人曰く『女の子みたいに可愛い』時期があったはずですよ」 背中の方で絶句した気配。正面の夏樹が破顔一笑。思わずコンラートもしてやったり、と微笑んだ。 「そうだね、ハルの卒業アルバム見たけど、ホント可愛かったもんね」 いつの間にか茶を淹れ直していたはずの高遠が三人の背後に立って笑っている。思わぬ援護射撃にコンラートは振り返って頭を下げた。 「翡翠、お前なぁ。どっちの味方だよ」 「そりゃ夏樹君の味方。ハル、いじめすぎ」 酷いよね、となぜか夏樹ではなくコンラートを見て首をかしげる。再び隣で夏樹が体を硬くするのが伝わってくる。 「まったくです」 生返事にならないよう、気をつけて高遠に応じ、そして夏樹に顔を向ける。 「雨も上がったようですし、行きましょうか」 口には出さず、こくり夏樹はうなずいた。視界の端で水野がにやつくのが目にはいる。なにかを言う前に、とそちらを向いて 「お邪魔しました」 それだけ言えば、呆れたように水野が笑った。 「お前も本当に過保護だな」 「放って置いてください」 「……なにが?」 「なんでもないですよ。さ、行きましょう」 夏樹を促し立ち上がる。改めて高遠に茶と雨宿りの礼を言えば腕に夏樹が絡みつく。 ――喜べばいいのか悩めばいいのか。 心の中で苦笑い。水野がなにも言わずににやり、笑った。 まだ濡れた道路を二人で歩く。黙ったままなのが余計に心地良かった。しばらくそうしていた後に、ようやく夏樹が口を開いた。 「俺ってそんなに女っぽいかな……」 「気にしてるんですか」 「そりゃ……」 「気にすることはないですよ。少なくとも私には、間違っても女性には見えませんし」 「そっか。でもさ」 「可愛いって言ったの、まだ気にしてます?」 「ちょっとはね。でもカイルが言うならいいか、とも少しは思う」 照れ隠しとありありとわかる態度で夏樹は空を見上げて笑った。 「早く大人になりたい。可愛いって言われるより、いい男って言われたいじゃん」 「見た目より中身ですよ」 「中身も、だよ」 精一杯に背伸びをしたようなことを言う。だから、思わず。 「Sie sind bereits genug wundervoll.」 口走ってしまった。 「なに? 今のわかんなかった」 「……今度、書いてあげますよ。自分で辞書をお引きなさい」 そう言ったけれど、コンラートは決して書かないだろう。あっさりと夏樹が引き下がったのをいい事に、彼の背後に一歩下がって息をつく。 「なぁ、カイル」 振り返らずに彼が言う。 「なんです?」 問い返しても答えない。わずかの間ためらうように一歩ずつ足を進めていた。 「俺、カイルのこと大好きだ」 コンラートは言葉もない。露貴があっていたと言うのか。否、違う。自分は間違ってなど。 「お前のこと、もっと知りたいと思うよ」 おかしいかな、こんなこと言うの。そう言葉を続けた彼は変わらずに前を向いたまま。後ろのコンラートが返事もできずにいるのを気にも留めない。聞いている、と信じているからだろう。 「嬉しい、ですよ。とても」 必死で出した声は、掠れていた。足を止め、振り返った夏樹が微笑む。立ち止まって二人、なにも言わずに相手だけを見ていた。 「だから、もっとドイツ語教えて欲しい」 気がつけば早夕暮れ。赤い陽が彼の背後にあって夏樹の顔を影にする。 「いつか、カイルとドイツ語で喋ってみたい」 「えぇ……いいですね。楽しみです」 「だろ? 友達の言葉だから、ちゃんと覚えたいんだ」 照れたのだろうか、少し視線を外した。けれど陰に隠れた夏樹の表情をうかがうことは出来なかった。 ――友達、か。 顔には笑みを浮かべたまま、コンラートは落胆する。落ち込むことなどないのだ、とわかっていてもなお。一瞬、ごくわずかの間だけ、期待してしまった。そんな自分が嫌になる。 ――でも、いつか。いつか、きっと。 「俺、今まで知り合った人の中でカイルが一番好きだ」 歩き出した夏樹が言う。コンラートに声をかけるでもなく、それだけ言って先に進んだ。 その後姿にしばし見惚れる。彼はああやっていつも先に先にと歩いて行くだろう。自分は彼の後ろにいよう。彼が時々立ち止まって振り返りたくなったとき、そこにいよう。 「カイル」 振り返った夏樹が呼ぶ。 「いま、行きます」 コンラートは静かに一歩を踏み出した。あるいはこれが、もしかしたら彼のそばで過ごす長い時間への、はじめの一歩になるかもしれない、そう思いながら。 ――いつか、振り向いてくれないとも限らない。 夏樹を見つめたまま、コンラートはゆっくりと歩を進める。過分な期待はするまい。けれど、望みがないわけでは、ないのかもしれない、そんなことを思って。自然、口許に笑みが浮かぶ。 「カイル」 再び、呼んだ。 その瞬間、影が途切れて夏樹の姿が浮かび上がった。そこにあったのは、他の誰が見ることも叶わない、コンラートにだけ見せる夏樹の、笑顔。 |