コンラートは天井を見ていた。階下からはまだ文化祭の熱気が残っているのか、寮生たちが浮かれ騒ぐ声が聞こえている。 ベッドに横たわり、ただ黙って天井を見ていた。 「なぁ」 そんなコンラートに露貴が声をかける。 「ん、なに」 気の入らない返事をするのは、夏樹のせい。あのあと彼と別れてからずっと、夏樹のことを考えている。 ずっと一緒にいたい、と言ってくれたこと。他愛ない子供の焼きもちであっても嫉妬してくれること。馬鹿みたいに嬉しい。 それと同じくらい、苦しい。 彼の髪が触れた感触だとか、少しだけそばに寄ったときのほのかな体温だとか、そんなものが脳裏から去らなかった。 「あいつ、さ」 「夏樹さん?」 「うん……」 「なんだよ、そこでやめるなよ」 言葉を濁した露貴に、初めてコンラートは顔を向けて笑って見せる。 「お前に悪いこと言ったのかもしれない」 「なにが?」 「あいつ、お前のこと……」 「違うよ」 露貴が言いかけた言葉にかぶせるよう、コンラートは言う。聞きたくなかった。聞いてから否定するのは、つらすぎたから。 「あの人は、俺を好きなんじゃないよ」 視線を天井に戻す。 「でも、さ」 「好きの意味が違う」 「友達として好きってやつか」 「あるいは兄弟みたいに、ね」 「俺はそうは思えない」 「思えなくても、そうだよ」 俺が言うんだから。コンラートは言葉を続け、そして自分の口許が歪むのを感じる。 「時々な、最近。お前を止めなきゃ良かったとも思う」 「馬鹿なことを」 「そうかな。あいつがあんなにお前になつくとは思ってなかった」 「なついてるだけ」 「それでも」 「それだけだよ、露貴」 横になったまま、露貴に背を向けた。 露貴が言うように、確かに他の目から見れば夏樹が自分を好きだ、と見えるのかもしれない。コンラートはそう思う。それはコンラートとて自分が他人だったらそうも見えると思うのだ。 けれど自分と他ならぬ夏樹自身はそうではないことを知っている。 夏樹は自覚していないだけかもしれない。そんな幻想を持つことも可能かもしれない。けれど、そんな幻を追ってなにになるというのだろうか。夏樹を傷つける結果になるだけではないか。 だから、コンラートは現実にそこにあるものしか見ない。例えどんなに夏樹が自分を慕おうとも、どれほど深く大切にされようとも。それを友情の結果としか見ない。 そうでなくては、心が持たなかった。 「ごめん、コンラート」 部屋の向こう、露貴がぽつりと呟いた。 ――気にするなよ。 口に出すことはできず、黙って寝転がったまま片手を上げた。 文化祭は土日を使って開催されたので、翌月曜日が代休になる。コンラートは露貴の誘いを断って、ひとり外出することにした。 あてはない。 ただ、ひとりきりになりたかった。 ――今は、なにも考えたくない。 露貴の誘いを断ったのも、彼といれば間違いなく露貴は自分に気を使ってくれる。夏樹の話題を出さないよう、昨日のことを思い出させないよう。 そんな腫れ物に触るような態度を取られるのもまたつらいものだから。 今にも降りそうで降らない天気もいまの気分にはちょうどいい。出がけに 「降りそうだから傘持ってけよ」 と、露貴は言ってくれたのだが、降られて濡れるのもいいかもしれない、そう思って手ぶらで出てきた。 適当な所で電車を降りて、適当に歩く。場所などどこでも良かった。ここがどこだかわからない、というのも良いもの、かもしれない。 町並みは、今までコンラートが知る日本、とは違った。近代的なビル群があるわけではなく、装いを凝らした男女がいるわけでもない。 かといって薄汚れているとか、暗くて怖いとかでもない。古い町並み、と言えばいいのだろうか。幼いころ、日本の風景を写した写真集で見たような町だった。 板塀があり、生垣がある。昼食の用意だろうか、煮炊きする匂いが漂っていた。 ――どの辺なんだろうな。 どこでもいい、と思っていたくせにそんなことを思ってコンラートは内心で苦笑する。 その額にぽつり、雨粒が当たった。 「あ……」 ついに降ってきた、と辺りを見回しても雨宿りができそうな喫茶店の一軒もない。これは予定通り濡れることにするか、と覚悟を決めたとき前方から走ってくる人影があった。 「あれ、コンラート君?」 人影は頭上を覆った封筒をよけてコンラートを見上げる。 「高遠さん」 驚いてそれだけしか言えなかった。なぜ、彼がこんな所にいるんだろう。 「どうしたの、ハル――水野先生にご用?」 「あ、いえ。そういうわけじゃ」 「とりあえず雨宿りして行ったら。すぐそこだから」 なぜ水野の名が出たのかよくわからないままにコンラートはうなずき、好意に甘えることにした。 家は本当にすぐ近くだった。古い町並みの中でもことのほか古い家で、けれど手入れを怠っていないのだろう、懐かしいような匂いのするいい家だった。 黒い板塀の中に入るとこぢんまりとした庭がある。高遠はちょっと待ってて、と言い残しそしてすぐに家の中から顔を出した。 「ここから上がって」 そう言って庭に面した濡れ縁のガラス戸を開けてくれる。 「玄関の方はちょっと、散らかっててね」 照れ隠しだろうか、彼の顔は笑っていた。 こんな古風な日本家屋に入ったことのないコンラートはまず濡れ縁でどうしたらいいのかがわからない。とりあえず腰をかけるだけにして靴は履いたまま庭に下ろしておくことにした。 いつの間にか雨は強く降り出し、あっという間に庭の土が濡れて染まる。小さい庭の木々の葉に、雨粒が当たる音が聞こえる。それくらい静かだった。 「はい、お茶」 「ありがとうございます」 「あ。日本茶、大丈夫だったかな」 差し出された熱い茶を受け取りながらコンラートは微笑む。気遣いが嬉しかった。 「好みです」 「良かった。つい聞かなかったから」 高遠もその場に座布団を持ってきて正座しかけ、コンラートがなにも敷いていないのに気づいては慌てて彼の分も持ってきてくれた。 「本当に水野先生に用じゃなかったの?」 「ええ、全然。……なんで水野先生なんですか」 「え……あ、もしかして、聞いてないのか」 「聞いてはいけないことだったら……」 「違う違う。夏樹君言ってないんだな、と思っただけ」 そう高遠は苦笑して、目の前で手を振った。 「この家はね、元々篠原忍の家だったんだよ」 篠原、知ってる?そう高遠は首をかしげる。それにコンラートはうなずくものの、いったいなにを言い出すのかがわからなくて少しばかり混乱した。 「そこに歌人の琥珀が一緒に住んでた」 「ええ」 「で、篠原は水野先生の育ての親なのね。だからここは先生の家なんだよ」 「それは……知りませんでした」 ここが水野の家ならばなぜ高遠がここにいるのか。鍵も持っていたようだし、まるで自分の家のようではないか。そんなコンラートの思いが顔に出てしまったのだろう。 「僕は琥珀の研究をしているからね、ここに下宿させてもらってる」 高遠は少し慌ててそう続けた。 それで、直感した。以前、夏樹の部屋で彼らに会ったとき、水野がなにか口止めしていたではないか。もしかするとそういうことなのかもしれない。 今度はコンラートも顔に出さないで表面上の説明で納得したふりをする。 「あぁ、それでなんですね。ちょっと混乱しました」 そんな風に言って見せさえしたせいか、高遠もほっとした様子で笑みを向けた。 「今日はひとりなんだね」 「え?」 「夏樹君と一緒じゃないんだ、と思って。水野先生がいつも一緒だって笑ってたから」 「そんなことは」 「あの子、あんまり友達らしい友達いないからね、あの子に友達ができて僕はすごく嬉しいんだ」 「なんだか、お兄さんみたいですね」 「うん、もう気にかかっちゃって気にかかっちゃって仕方ないよ」 なにせ親が親だし、叔父様は頼りにならないし。続けて言っては声を上げて笑った。 「水野家の人たちと、親しいんですね。俺はあんまり遊びに行ったりしなかったから」 「水野家の人たちって言うよりね、水野先生とは、長い付き合いだから」 「あ、そうなんですか」 「久しぶりに先生って呼んでるよ。なんか昔に戻ったみたいだ」 高遠はまた声を上げて笑った。今度はどうやら照れ隠しらしい。コンラートはあえて視線をはずして庭に向ける。なんとなく、幸せな人を見ているのが苦しかったし、見てはいけないはずのものを察してしまったというのも具合が悪い。 「僕は元々あの人の教え子でさ」 「初耳です」 「結局、一緒に――というか、ここに住まわせてもらってもうずいぶんになるから」 それになんと答えていいかがわからない。困惑したようにコンラートが口を口をつぐめば、 「君も、仲良くして欲しいな」 そう言って手を差し出してくれた。 「こちらこそ、よろしくお願いします」 高遠の手を握る。 前のように嫌な感じがすることはないはず、そう思ったのにやはり彼の手は兄の手に似ていた。離したいのに離せない。じっと握った手を見つめてしまう。 「……兄の手に、似てるんです」 おかしく思われないうちに、そう思ってコンラートは口を開いたのだけれど、実際ずいぶんな時間が経っていたのだった。 「お兄さんに?」 「もう、ずっと前に亡くなりました」 「それは……寂しかったね」 「あ。すみません。気持ち悪いですよね」 慌てて手を離したけれど、つい名残惜しむような態度になってしまった。死んだ人間に似ていると言われて気持ちのよかろうはずはない、と思ってもどうしても彼が兄に似ている気がして仕方ない。 「そんなことはないよ」 高遠は一言の元に否定してくれたが、コンラートは顔を伏せてじっと物を思うばかりだった。 「コンラート君」 「はい」 「お兄さんには及ばないはずだけど、僕でよかったら相談事、乗るよ。言ってみたら」 はっとしてコンラートは顔を上げた。彼は高等翡翠で、間違いない。顔つきも体格もまったく違う。そもそも日本語で話している。 けれど、その口調の持つ優しさ柔らかさ。 まるでそこに最愛の兄が座っているのかと、思った。 「いつか、お話できると思います」 一度言葉を切り、コンラートはもうぬるくなってしまった茶を飲んだ。喉が渇いて仕方ない。 「いまはまだ、自分でもなにをどうしたいのか、わからなくって。お話しようにもどうしようもないんです」 どうしたいか、ばかりがわかっていて、それを叶えられないことも知っている。いま自分がこの状況で取り得る道もたぶん、わかっている。それが苦しいばかりだ、と言うのも。 それをいま彼に苦しいんだつらいんだ、そう愚痴を言うことはできなかった。コンラートはそんな生産性のない愚痴だけは言いたくない、そう思っている。 「でも、嬉しいです」 相談事がありそうだ、と思ってくれたことが。自分でよかったら聞くと言ってくれたことが。 「うん。なにかあったら、いつでもおいで。ね?」 彼は言い、首をかしげてはコンラートを見て微笑んだ。そんな仕種まで、馬鹿みたいに兄に似ていた。 知らず唇を噛みしめて何度も瞬きをする。今ここに兄がいたら。 「馬鹿だね、泣くんじゃないよ。大丈夫だよ、コンラート君」 呼び名こそ違ったけれど。兄のように、兄が言うだろうとコンラートが思ったとおりに。 だから黙ったままうなずくことしかできなかった。返事をすれば、本当に声を上げて泣いてしまいそうだった。 コンラートの握り締めた手をそっと叩いて高遠は席を立つ。 「お茶、淹れなおしてくるよ」 言うともなしに彼は言い、コンラートが涙の衝動に耐える時間をくれた。 ――そんなところまで、兄さんみたいだ。 唇を歪めてコンラートは笑う。天井を振り仰ぎ、ひとつ大きく息をして睫毛から涙を払う。 高遠が兄その人でないことはよくわかっている。けれど、この世で再び、兄のような人に出会えるとは思ってもみなかった。 コンラートにとって、長兄はそれほどまでに卓越した人物だったのだ。いつも穏やかで、コンラートには優しかった兄。いまはない貴族の血統を信じ、それを誇りにもしていた。貴族の義務と責任を律儀なまでに果たして結局は時流と歴史の狭間に押しつぶされるように死んでしまった。 そんな不器用な兄を軽蔑する人もいた。コンラートは決して兄を蔑もうとは思わない。思ってもみない。あまりにも心優しい人だったから、早く天に召されてしまった、ずっとそう思っている。 だから余計に、また兄のような人に会うとは想像もしていなかったのだった。 自分の空想に一瞬コンラートはぞっとする。 もう二度とあのような思いを抱かずに済むように。どうか、高遠には兄の分までも長生きをして欲しい。高遠が知るはずもない兄の分まで、と言うのはおかしいだろうか。こんなにまで兄を重ねて見てしまう。今のコンラートはおかしいとも不自然だとも感じることはなかった。 ――兄さんの分まで、幸せでいてください。水野先生と一緒に。 そう思っては苦笑した。高遠はコンラートが気づいてしまったなど、知る由もないだろう、そう思って。 何度か瞬きをして涙の残骸を払う。見れば空は嘘のように晴れていた。 「あ――」 |