彼の笑みを見た、それがこんなにも嬉しい。表情をなくしているときには想像もできないほど、幼い顔だった。 少なくともこの瞬間、彼の厚い警戒の壁のひとつを越えることを許された、そう思う。 「俺の言ってること」 不意に彼が言う。言葉を切ってしまうのは癖なのかもしれない。 「わかりますよ」 「なぜ」 心から不思議そうな顔。 コンラートは彼がどうしてそんな顔をするのかこそが、わからない。 「なぜでしょう。でもわかりますよ」 口ではそう言った。 が、心の中ではコンラートは理解している。彼のことを理解したい、と思っているから、わかる。 それを言えばまた警戒されてしまいそうな気がして、コンラートは告げなかった。 「いまも」 やはりそれだけを言って彼は首をかしげた。 かしげた、と言ってもそれとわかるほどの動作ではない。わずかに首が動いたかどうか。 それでもコンラートには彼が問うているのがわかる。 「なにを聞いているかよくわかった、と?」 答えずうなずく彼に微笑を向け、 「勘がいいのかもしれませんね」 そう言った。 夏樹はコンラートに不思議そうな目を向け、そして軽く目を閉じる。 いやに子供じみた仕種だった。 目を開けたとき、彼の目は明らかに笑みを含んでいてコンラートを驚かせる。 「ふうん」 いまだ不思議そうではあるものの、彼か喜んでいるのはわかった。 ふと理解する。 夏樹と言う人は言葉を口にするのが苦手なのだ、と。 それを強制しない、言いたいことを察してくれる自分は彼にとってありがたい人物なのだろう、と。 それはコンラートにしても充分すぎるほど幸福なことだった。 自分が一目で魅せられた人。その人がこうして認めてくれる。それがなにより嬉しかった。 木漏れ日がきらきらと輝いて彼の髪を、自分の手元を染めていく。なにを話すわけでもない時間。黙ったままでも豊かな時間があるのだと、初めてコンラートは知った。 遠くでチャイムの音が聞こえる。 「次の授業は出なくては」 このままここにいたくて、コンラートの言葉もつい名残惜しげになる。 それに夏樹はかすかに笑う。そういうわけにはいかないだろう、と。 「次」 「現国ですよ」 「ああ……」 「水野先生の授業をサボったりしたらあとが怖くて」 茶化して言うコンラートの言葉に思わず夏樹が吹き出した。 国語の水野は夏樹の叔父になる。コンラートにとっては多少の親戚になるわけで、その彼の授業を抜け出したりしては後々保護者である夏樹の父に面目が立たない、という所。 もっとも、興味深い授業なので夏樹にここで会う以前は戻る予定だったのだが。 「水野君も戻りますか」 「戻りますよ」 あえてコンラートの口調を真似して見せ、口許だけでにやりと笑う。 それで戻りたくない授業なのだ、と知った。 「増田の数学」 さも嫌そうに言う。 ここ紅葉坂学園は幼稚園から大学院までの一貫教育を謳っている。分けても中高一貫だけは自信があるようだった。私立校の良い所で教師陣は中等部も高等部も同じ人材が生徒を教えている。 そういうわけなので夏樹が口にした増田、と言う教師にコンラートも思い当たる節がある。それはそれは面倒な教師なのだ、と聞く。幸いにしてコンラートはその授業に当たったことはなかったけれど、噂話に聞くだけで充分だ、と思ってしまうほどに。 「重箱を叩くような、と聞きますが」 「……重箱の隅をつつく、だ」 「失礼」 調子に乗って言った言葉を間違える、という恥ずかしいことを仕出かしてしまったコンラートは一人赤面するが、夏樹は気づかなかったようで安堵する。 あるいは気づかなかったふりをしてくれたのかもしれない。気づいた、としてもそれ言葉を間違えた恥ずかしさだ、と思ってくれることだろう。 それだけではないことを知られたくはなかった。 「それじゃ」 「ええ、私も戻ります」 立ち上がり、一人先に彼は歩き出す。確かにこんな人気のないところから二人で一緒に出てくるところなど、見られては要らぬ憶測を生むばかり。 けれどほんの少しの寂しさが付きまとう。 黙ってコンラートは彼の背中を見送る。 中等部の濃紺のブレザーに木の葉が作る光の模様が浮かんでいた。 不意に彼が振り返る。木立から抜ける間際のそこはひときわ光が踊っていた。 「また」 と、そう。 それだけを言ってまた歩き出す。今度は振り向きもしなかった。 それがどれほどコンラートを有頂天にさせるかなど、知るはずもない言葉だった。 彼が出て行った木立の隙間をじっとコンラートは眺めていた。 ほんの半時間ほど。 あの葬儀から二ヶ月。彼に近づきたい、そう思っても何一つ行動することができなかったと言うのに、だった半時間でここまで彼を知ることが出来た。 静かに胸に手を当てる。 温かかった。 体温ではないぬくもり。自分は彼の言葉にしない言葉を聞くことが出来た。それがこんなにも心を温めている。 目も合わせてくれなかった最初の時間。嫌われているのかと、疑いもした。違うとすぐに悟った。 初めて間近に見た彼の目。射竦められたかに感じる視線の強さ。心が騒いだ。 「君が」 知らず呟く。 自分の声を耳にして驚いて辺りを見回してしまった。まるで他の誰かがここにいてなにかを語ったとでもいうように。 「馬鹿だな」 自分の行為に呆れてはわざと声に出して笑った。 けれど声は聞こえていた。 心の中、叫びだす声が自分にだけ、聞こえていた。 ただ一言。一言だけをずっと。そう、彼が現れたあの瞬間から、ずっと聞こえていた。 違うのかもしれない。あの晩出会ったあのときから、ずっと聞こえ続けていたのかもしれない。 もう聞こえないふりはできなかった。 心の声をなだめるように、そっと呟く。 「君が、好きだ」 午後の最後の授業はまったくといっていいほど、身が入らなかった。 当然かもしれない。 教師の声が頭の上を通り過ぎていくのを聞きながらコンラートは思う。 初めての恋をした。 知らず口許に笑みが浮かんでしまうのに気づいては人目につかないよう、引き締める。 けれど思うのだ。 これが恋だということは、わかっている。このときめきは友情ではないということくらい、コンラートにもわかる。 でも彼は。 そう、「彼」なのだ。紅葉坂学園は男子校で、周りを見渡せばそういう恋人同士が、いないわけではない。 いいや、わかっている。彼はそういう人間ではない。むしろ察したではないか。いままで彼にまとわりついてくる人間にどれほど嫌な思いをさせられたのか、先ほど知ったではないか。 「そうだよな」 授業中だというのも忘れ呟く声。それが思いのほか通って首をすくめた。 「なにが、そうなんだ」 案の定。教師に聞きつけられてしまった。 「なにやら理解しているようだからな。続きはコンラートに読んでもらうことにしよう」 意地の悪いことを言う教師の顔を見つめてしまう。それで気づいた、水野先生と彼はずいぶんよく似ているのだな、と。 「早く読め」 慌てて教科書に目を落とす。 なにをやっていたのかさえ見当がつかなかった。 「八十七ページ、五行目」 聞き取れないほどの小声。 額に浮かぶ汗をぬぐってコンラートは教科書を読み上げ始めた。 ではここまで、の声を最後に教師が出て行くのを確認し、思わず机に突っ伏した。 「馬鹿だねー、お前」 それを隣の席の友人が笑う。 「本当にね」 「水野ん時に考え事なんかしたらばれるに決まってるじゃんか」 まして独り言なんて馬鹿の極み。言って友人――露貴が爆笑する。どれほど罵られようともまったくもって事実なのだから返す言葉がないとはこのこと。 「さっきは感謝」 「どういたしまして」 「全然聞いてなかったんだ」 「そうだろうと思ったよ」 軽く手を上げて感謝の意を表するのに、露貴も答えて手を上げる。 「礼はいらんよ」 「……要求してないか、それ」 「お前がどうしてもお礼がしたい、と言うなら拒む気はないな」 そう言っていたずらをするような目をして笑った。 夏樹の従兄はあまり彼に似てはいなかった。染めているわけでもないのに淡い色合いの髪。少し茶色がかった目の色など、自分と並ぶとどちらが日本人なのか悩むほど、と言うのは大袈裟か。 もっとも正面からコンラートを見れば間違えることはないだろう。珍しいほどの色合いをした金の目なのだから。 「談話室でお茶一回ってとこだな」 「謹んでお受けしましょ」 茶化して言った露貴は自分の口調に自分で笑い、コンラートもつられて笑い声を上げていた。 「コーヒーでいいのか」 「いいよ、紅茶はまずいから」 談話室の小さなキッチンに詰める係員の前で臆面もなく露貴は言い、コーヒーを受け取る。 コンラートもまた同じものを受け取り、露貴に渡した。自分はさらに係りの小母さんから皿を二つ受け取って露貴を席へと促す。 「お礼の印にお納めください」 笑って言ってケーキを勧めた。 「ご馳走になりましょ」 答えて笑う露貴と共にフォークを手に取る。 コンラートも露貴も寮生だった。 紅葉坂学園は全寮制ではないのだから、コンラートはともかくも露貴は自宅から通ってもいいのだ。それを不思議に思って訊ねたことがある。 「家にいるより面白いじゃんか」 帰ってきた答えは単純極まりない。それにかえって拍子抜けしてしまったのだった。 実際、露貴の寮生活を問うならば自分だとてそうなのだ。保護者の家から通えばいい。事実、夏樹は寮ではなく自宅通学をしている。 日本に来た当初は遠い親類と関わりを持つ気がなかったためにした決断だったけれど、今となってはいささかの後悔をしてもいる。 あの家から通うことにしていれば、夏樹と生活を共にすることが出来ていたのに、と。 そうは言っても寮生活も面白いものだった。なにしろ同室なのは露貴だから。 寮は人数合わせに違う学年で組み合わされることもあるにはあるが、基本的に二人部屋の同学年同室だった。 コンラートは幸運にも同室となった彼に日本に来て初めての友情を持つことも出来た。朝から晩まで馬鹿をやって、これで楽しくないわけがない。 寮も申し分のないものだった。 部屋は質素ではあるけれど綺麗に整ったものだし、食堂も広々としていて味もよく、育ち盛りには肝心なことに量も充分だった。 そのうえ、小腹が空いたときにはこうして談話室に来ておやつをすることも出来る。たいして物はなかったけれど、二三の市販のケーキにコーヒー紅茶くらいならば食べることが出来た。 そもそも談話室なのだからキッチンの係りの小母さんがいないときでも、自分で飲み物や食べ物を持ち込んで友人たちとおしゃべりに興じることも出来る。 時には談話室のテレビをめぐって、バラエティー番組とスポーツ番組を争うのもまた、なにやら楽しいものだった。 「また考え事か」 「いや、ごめん」 「別に詮索するつもりはない」 そう言って露貴は手を上げ目を閉じる。 「たぶん、すぐ話すと思うよ」 「ここじゃなくってってことだな」 「たぶん。あとで、部屋でね」 そんな風にコンラートが言葉を濁すなど、珍しいことだった。少し驚いたように露貴は目を丸くし、けれど口には出さずにやり、笑う。 「ま、いいさ。話したかったら話せよ。聞くだけは聞いてやるから」 わざと軽い口調で言っているのがわかる。それにコンラートは目顔で感謝し、残りのケーキを口に運んだ。 「そうだ」 気分を変えるように明るい声を出し、言葉を続けようとしたけれど、まったく話が変わらないことに、コンラートは自分だけが気づいた。 「水野君に会った」 いまさら言葉を止めることもできず、言う。ついでに小声で。 すでに留学して二年。友人も多いコンラートではあったけれど、夏樹に近づくのを許さない気配、と言うのはずいぶんあるのだった。 |