コンラート・カイル・フォン・シュヴァルツェンが日本の高校に留学してから一年が経っていた。すでに日本語も、日常なに不自由なく過ごせる、と言う程度には上達を遂げている。 元々覚えはいい方だった。世界一難解な言語、と言われる言葉であっても、生活しているうちにそれほど苦労せずに覚えていた。日本に来てはじめて出来た友人は 「人の気持ちがわかるんだな」 そう笑う。その表情も褒められているのだ、と理解出来ている。けれど言葉の意図はわからなかった。 「だってそうだろ。他人の文化を尊重する気がなきゃ言葉なんか覚えられっこないさ」 不思議に首をひねる自分に友人はまたもそう言って笑ったのだった。 その友人が実は遠い親類だった、とは後になって知った。それに二人して驚いたものだった。 「コンラートがねぇ」 いまだに信じられない、とでも言いたげに友人――藤井露貴は言う。 留学すると決めたときから、日本の親類とは距離を置こう、と思っていた。特別の理由があったわけではない。ただ、せっかく外国に勉学に行くのに甘やかされたくない、とでも思っただけだったのだが、考えてみればそれはそれで失礼な話しだった。 最初から外国人である自分を甘やかす、と決め付けていたのだから。 とは言え、急に親しくするきっかけもなく今までを過ごしてきた。あの日までは。 露貴の祖母が亡くなったのだった。礼儀、と心得て出席したコンラートは「運命」に出会った。 正に、正にそれは彼にとって運命、としか言い得ない者だった。 あれはまだ春浅い頃のこと。葬儀を抜け出したその庭に後輩がいた。 水野夏樹。 露貴の従弟はつまりコンラートにとっても遠い親類になると言うこと。 こちらが顧みることさえしなかったのに、夏樹はわずかなりともドイツ語を勉強してくれていた。それまで言葉を交わしたことさえ稀だった、と言うのに。 あの時の感動を今もコンラートは忘れていない。 彼の祖母の名は雪桜と言った。美しいイメージについ、それをドイツ語で呟いた。 それを彼は聞き取り、理解し、うなずいてくれた。 信じられなかった。 確かに自分は日本語を勉強した。当然だ。留学したのだから。でも彼は違う。ドイツ語を学ぶ理由など少しもなかった。 それなのに彼は。 今も浮かぶ鮮やかな彼の声。忘れようとして忘れられるものでもない。 「そういうことじゃないよな」 知らず呟きがもれる。言葉を覚えてくれたとか、肩の細い線が頼りなげで支えたいと思っただとか、そういうことではないのだ。 一目で魅せられた。 そうとしか、言えない。彼の持つあふれるような押さえるような存在感。吸いつけられて、目を離せなかった。 理由などなかった。 ただ、ずっと見ていたいと思った。 見ていたいだけではなく、力になりたい。側にいられたら、そうも思った。 なぜこんなことを考えてしまうのか、自分でもさっぱりわからなかった。 力になるもなにも今現在、彼がなにか問題を抱えているわけでもない。そもそもまだ中学生。抱えるほどの問題など、ありはしない。 自分がなにを求めているのかわからなかった。問題を抱えている、と言うならばむしろコンラート自身の方こそ。 溜息をひとつつき、空を見上げる。 木漏れ日がきらきらと綺麗だった。 季節はもう初夏へと変化を遂げている。萌え出たばかりの黄色いとさえ言えるような緑色、すっかり色濃い緑色。 重なる木々の葉が風に揺れては光を透けさせて輝く。時折、葉を通ることのなかった陽光が目を打つのもまた、美しかった。 ごろり、横になっては上着のボタンを外してしまう。風がシャツに触れていくのが心地良い。 日曜日ではなかった。土曜の午後でもなかった。 実を言えば水曜の午後だった。校舎の中では今頃は確か、古典の授業中。コンラートは自習中。もちろん、許可を得てのことではない。 中庭の、人目につかない場所を教えてくれたのは良き友と言うべきか悪友と言うべきか露貴で。 「あそこはいいぞ。今まで見つかったって奴、聞いた事ないからな」 そう、こっそり耳打ちしてくれた。 ペットボトル入りの紅茶を二本、昼休みに買った。一本は自分の「自習」用。一本は保健委員のクラスメイトを「買収」するために。 手馴れた友人は口許で笑ってペットボトルを受け取った。きっと自分は腹痛か何かで保健室、と言うことにでもなっているのだろう。 そう思えば少し、おかしい。 考えずともわかるではないか。自分が仮病でふらふらしていることなど、先生方だってとっくにお見通しのはずなのだ。 が、自由のない寮生。多少のことは大目に見てくれる。それで成績が甘くなる、なんてことは決してなかったけれど。 と。 風音ではない物音がした。 いくら黙認されているとは言え、見つかったら大目玉なのは間違いのないこと。慌てて振り返ったコンラートの視線の先にいたのは。 「あ」 水野夏樹が立っていた。 中等部の紺色のブレザーのボタンをきっちり留め、シャツのボタンも一番上まで、ネクタイなど微塵も弛んでいない律儀な姿。 その彼がいまここに立っている。 「君も……サボりですか」 思わず飛び起き、言葉を失っている夏樹にそう訊ねた。 あまりにも明白なことなのに、それしか言う言葉がない。 彼はただうなずいて見せるだけ。 それにすこしがっかりするものの、どことなくコンラートは喜んでいた。こんな機会など、そうあるものではない。 「先輩も」 ずいぶん間が空いた後に、夏樹が言った。 先輩も、何だと言うのだろうか。つい考え込んでしまったコンラートに、少し苛立たしげに 「サボりですね」 夏樹が言う。声変わり前の少年らしい澄んだ声が癇性な響きを帯びている。 「ええ……座りませんか」 「なんで」 「え……なにがですか」 素直に腰を下ろした夏樹の顔を覗き込めば、表情なく目を背ける。 なにかに気をとられたのかと思って視線をたどってもそういうわけでもないらしい。 「どうして、敬語なんですか」 今度ははっきり言った。 相変わらず、向こうを向いたままで。 「なぜ、と言われても。このほうが楽なので」 嘘、だった。 クラスメイトと話すときは敬語など使っていない。 確かに日本語は相手との関係で言葉が変化するのが難しい、そう思う。だから距離感がつかめない相手とは敬語で話すのが一番だ、とも思っている。 でも彼は違う。 年が下なのはわかっている。遠い親類なのも互いに知っている。 敬語で話すいわれは、ない。 でもなぜか。コンラートにもわからない、なぜか。彼にはそう話したい、と思う。 「そう……ですか」 「別に警戒しているわけでも敬遠しているわけでもありませんよ」 その言葉にふっと笑った。初めてだった。 向こうを見たままの口許だけがわずかに見えた。ほんの少しだけ弛む目許。 心が震えた。 「そうでしたか」 目をあわせないまま言った言葉は決して冷たいものではなかったけれど、もう少し表情が見たかった。 彼はどうして顔を合わせないのだろうか。そんなことをつい思ってしまう。 「水野君。別に私が敬語だからと言って、あなたまでそうすることはありません」 彼のまだ細い背中に向かって言った。柔らかそうな黒髪が白い首にかかっているのがやけにはっきり見える。 「それは違うでしょう」 「どうしてです」 「あなたは先輩だ」 ついにこちらを向いた。心の中で思わずコンラートは快哉を叫んでしまう。 彼の黒い目に浮かぶ強い光。馴れ馴れしさを許さない、とでも言いたげな色をしていた。 「確かに」 彼の目のその強さについ、微笑んでしまった。 けれど夏樹はコンラートの言葉にほっとしたように、少しだけ目の色を弛める。 「ただ……」 言いかけた言葉に、またふっと警戒の視線。 それでわずかなりとも理解した。彼と言う人がいままで自分に近づいてくる人間にどれだけ嫌な思いをさせられたのかを。 そんな人間とは違う、安心していい、そう言いたくて、けれど言葉では伝わらない気がして黙って微笑んだ。 「サボり仲間に堅苦しくされては、気詰まりです」 しばらく経ってから、それだけを言った。 夏樹は言葉を返さない。 けれど格段に彼の持つ雰囲気が弛んだのを感じた。黙って木の幹に背中を預け、コンラートからは目をそらしたままペットボトルに口をつける。 それを見て、コンラートは自分もやけに喉が渇いていたことに気づき、ボトルの口をひねっては紅茶を流し込む。 気持ちのいい風が吹いていた。 「木の生えているところは、好きです」 「ドイツの」 「いえ……。故郷の森はもっと、その。暗くて、なんと言うか……ein dichter Wald」 「鬱蒼とした森?」 「あぁ……そう、それです」 答えながら思わずまじまじと見てしまった。 夏樹は相変わらずどこか遠くを見たまま、なんでもないことのように答えてくれている。 人一倍勉強家のコンラートのこと、「鬱蒼とした」と言う単語を知らなかったわけではない。知っていたからこそ、彼の言葉にうなずけているのだから。いまここに彼がいる、と言う事実に多少とも舞い上がってしまっているから、言葉が出てこない、それだけなのだ。 夏樹は違う。あの時もいまも、平然とコンラートが口にする言葉を理解している。 取り立てて聞き取りやすいように話していることはない。むしろそれは独り言なのだから。 「少し、気になったから」 彼はそれだけを言った。 その少ない言葉の中にいったいどれほどの情報量をこめていることか。 自分と言う遠い親類が留学してくる、と聞いて少なからず気になったからこそ、言葉を学んでくれた。 決してコンラート自身に興味を持っていないわけではなかった。取り立てて接触してこないから静観していただけなのだ、とたったあれだけの言葉で知らせてくれている。 「親父、医者だし」 ドイツ語を学ぶ環境はあった、と言っているのか。 彼も、また日本での保護者をしてくれている彼の父も、一度として夏樹が勉強しているなどと言ったことはなかった。 日本で自分たちと深く関わることなく楽しめるならばそれもよし。手助けがいるならばいつでも。 彼らはきっとそういう気持ちでいてくれたのに違いなかった。 「まだいたりません。良かったら、もっと言葉を教えてください」 返ってきたのは。 小さくとも吹き出した笑い声。変わらず向こうを向いたままではあったけれど。 「いたりません、って」 「おかしいですか」 「おかしくはないけど」 変なやつ。小声で呟いたのが聞こえる。それから慌てて咳払い。 突然、先輩だった、と言うことを思い出しでもしたように。 「こんな所で、なにしてたんですか」 「ですからサボっていたんですよ」 「まじめな留学生だって」 「あなたこそ、噂では」 「噂なんか」 「では、同様に」 ようやくこちらを向いた夏樹は、笑っていた。 初めて仲間を見つけた、そんな笑み。 |