苦い心に今は、甘い酒が欲しかった。甘くて、強い。すぐにでも酔ってしまえるような。
 逃げているだけだ。わかっている。それでも今はそうでもしなければ壊れてしまいそうだ。
「で、どうした。コンラート」
 いつもの響きをした露貴の声。カイルはそれに少し、安心する。昔からそうだった。なにかあるたび彼は、どうしたコンラート、と柔らかい声で聞くのだ。
 ふ、と店内で演奏していたピアノの音が高まる。人に聞かれたくないだろう、そんな暁の配慮だった。前におかれたグラスと暁の控えめな微笑。それにほんの少し、微笑を返した。
「夏樹があの人と、より、戻したよ」
「は?」
 きっと上手くいく、露貴はそう思っていたに違いない。そもそもいつから夏樹を愛し始めていたのか、最初から知っているただ一人の男だ。
「だって、上手くいってたじゃないか」
「そんな事、ないさ」
「……正直に言えよ」
「言えない」
「夏樹のためか?」
 そうだな、カイルは肯き、でも心の中では違う事を考えていた。
 自分のプライド、かもしれない、と。毎晩腕に抱いていたくせに毎晩わかれた恋人の名を呼ばれていただなんて、親友にだって言いたくはない。
「まぁいいさ」
 飲めよ。そう言ってグラスを押される。客はいない。人目もなにも、ない。強い強いその酒をひと息に半ば飲み干し、喉が焼け。涙が滲んだ。
「バカ、一気に飲むから」
 露貴が笑ってくれる。だから。そういう事にしてもらおう。
「潰れちまえ。付き合うよ」
 こつり、拳で額を突かれた。
「Danke(ありがとう)」
「Gern geschehen(どういたしまして)」
 笑いを含みながら露貴が言う。懐かしい母語の、響き。
「ドイツ語でしゃべってもいいぞ」
 きついだろ。心遣いが優しくて、一瞬そうしてしまいたい誘惑に駆られる。
「ん……大丈夫」
 誘惑を振り払うにはさらに一杯の酒が必要だった。
「無理するな」
 露貴がドイツ語に堪能なのは承知している。なにせ留学して以来自分が彼に教えたのだから。
 元来、勉強家な彼はそれから自分でも勉強を重ねカイルがごく普通に話したとしても聞き取り、返せるだけの語力は身につけていた。
「大丈夫だよ」
 力なく、笑う。掲げたグラスの向こう側、手の中で氷がゆれる。
「Unssin! Korad」
 ばかだよ、コンラート。母語で語りかけるその柔らかな、声。
「Unssin……!」
 何度も、何度も。
「露貴……」
 そうもらしたのを最後、いつからドイツ語でしゃべっていたのか、カイルにもわからなかった。酔いつぶれてしまったのさえ、わからなかった。
「コンラート」
 カウンターに突っ伏して眠っていたのを暁に起こされた時は薄く、空が朱に染まり。肩には露貴のジャケット。本人は、いない。友人たちの志がありがたくも、痛い。
「露貴さんがこれを」
 彼の手帳を破ったと思しき紙片には一言だけ。
 ――俺が誘った事にしておけ。
 苦笑いに頬に手を触れた。二日酔いにむくんだはずの頬は一晩でげっそりとこけ。
「酷い顔だよな」
「たしかに」
 気休めを言わない暁に感謝の微笑がもれ、その事に驚く。笑えた、自分に。
「こんな時間まで悪かったな」
 立ち上がればくらり、天井が回る。
「酔っ払いおいて帰れませんからね」
 明るい暁の笑い声。なにも聞かなかった、ふり。なにも見なかった、ふり。ありがたい人の優しさにまた口元に微笑が、浮かぶ。
「またくるよ」
 気をつけて、おやすみなさい。そんな暁の声に送られて店をでれば酔った目に夜明けの曙光が、痛い。

 朝。何事もなかった顔をして。彼を迎えに行く。前のようにちゃんと、玄関から。チャイムを鳴らす指が一瞬、震えた。
「おはよう」
 言った彼の背中の陰にちらりとあの人の、姿。二人して黙ったまま駐車場まで降りて行く。車が走り始めた頃ぽつりと彼が言った。
「俺の、所為だよな」
「なにがです?」
「酷い顔、してるよ。お前」
「あぁ……」
 カイルは露貴に感謝する、心の中でそっと。
「……あの後……露貴から電話がかかってきて、朝まで飲んでたんですよ。その所為でしょう」
「でも、俺の……」
「ですから、誘ったのは露貴ですよ。あなたのことではありません」
 無理に浮かべた、笑顔。彼には区別がつくのだろうか。夏樹はただ目をそらして外を眺めて。
「カイザー?」
「カイザーって……言うなよ」
 なぜか泣き出しそうな、声。
「あの人はなんて呼んでるんです?」
「名前で、夏樹さんって……」
「それならば余計に私が呼ぶわけにはいきませんよ」
「関係ないだろ!」
 誘惑。かも知れない。かじゅ、という呼び名を無条件に許してきたのはただひとり露貴にだけ。
 カイルにも許されたその名を、カイルは自分で返上してしまった。プライド。かも知れない。
 そしてまた、彼がその名をくれようとしている。呼びたい、そう。あの人の前でそう呼んで自分と夏樹との絆を見せつけたい。
 いやらしくおぞましい、それは嫉妬だ。どろどろと渦巻くこんな感情を彼にだけは知られたくない。
 愛されないならせめて。頼りがいのある友人で、有能な部下でいたい。醜い嫉妬など、決して見せたくは、ない。
「関係ありますよ。あの人だって今まであの名で呼んでいるのは露貴だけだって知ってらっしゃるでしょう? 私が呼んだりしたらいい気持ちはしないと思いますよ」
「あいつに気を使う事なんかない。お前は、お前だ」
「……あなたの大事な、人ですから」
 触れれば手の届く距離に彼がいる。彼は黙って唇を噛み。
 なのに慰める手段が浮かばない。触れたらきっと、せっかくつくった心の堰が、あふれてしまう。
 彼は元の恋人の下へと帰って行き。手ひどい目に会った、人は言うだろう。なのにこの人を思い切れない。愛しくて、愛しくて。ただ、愛しくて。
「あなたがね……私とあの人の間で板ばさみになるのを、見たくない。それだけですよ」
「なんでそんな……」
 言葉を切った夏樹はいったいなにを言うつもりだったのだろうか。きつい視線で一瞬カイルを見、そして口元に嗤いを浮かべては目をそらす。
「あなたが誰のものであっても、私の大切な人には違いありませんから」
 まっすぐ前を見たままカイルは。ただそれだけを言う。約束どおり、愛している、とは言わない。代わりに笑おうと思った。優しく、夏樹を安心させるように笑おうと思った。
 なのに。口元も目元もぴくりとも動かせず。無理して笑えばきっとぎこちない笑みになる。だから結局ただ前を見たままそれだけを、言った。
「さぁつきましたよ、しっかりしてください。カイザー」
 励ますつもりで軽く彼の肩を叩いた。その手が。じわり。しびれるように、熱い。

 何事もなく過ぎて行く、日々。それが怖い。何事もなく過ぎて行きはする。
 けれどひとつだけカイルの習慣が変わった。仕事が終わり彼をドアの前まで送っていく。それは変わらない。
 変わったのはその後だ。今までは彼の恋人が部屋にいてもなるべく気にしないようにしていた。
 もう、耐えられない。だから。カイルは飲みに出て行く。シャブランへ。

 シャブランは露貴とよく行くシャノワールの姉妹店だ。オーナーバーテンダー自身、シャノワールの暁の、双子の兄だった。
 二卵性、だと言う。容貌自体はほとんど似ていない。たぶんそうだと聞かなければ兄弟には見えないだろう。暁は父親に、彼――旭(あさひ)は母親に似たのだ、と言った。
「いらっしゃいませ」
 いつもと変わらぬ静かな笑顔で旭が迎えてくれる。
 シャノワールと違って静かな店にふさわしい、笑みだった。
 シャノワールは店にバンドが入っている。けれどシャブランではただ旭がひとり、カウンターの向こうでシェイカーを振る。
 一枚板の厚いカウンターの右の端。そこだけ光の質が違う。小さな天窓から月の光が差し込むのだ。それがカイルの定位置だった。
「同じでいいですか」
 旭の問いに答えるように軽く肯けば程なく「いつもの」が出てくる。
「……ちょっと薄い」
「最近、飲みすぎでしょう?」
 旭が笑う。どこか痛々しい笑顔だ。
 彼が出す酒はシャノワールでも飲んでいたラスティネイルに似たものだった。
 通い詰のカイルの体を気遣って旭はいつだったかそれをソーダで割って薄いレモンを一枚、浮かべて出した。以来カイルも黙ってそれを飲んでいる。
 鳴らし損ねたライターが鈍い音を立て煙草からは紫煙が立ち上る。
「なにかつまみますか」
「いや」
 いつもの繰り返し。わかっているはずなのに旭は同じ事を毎回必ず聞いた。どこか痛々しい、あの笑顔で。
 昔からそうだった。旭の笑顔はいつも、痛い。辛い恋をしたのだ、と言う。いつだったか一緒になって飲んでは酔った暁がうっかりと口を滑らせた。
「コンラート」
 めずらしく旭の方から話し掛けてきた。
「差し出口だったら忘れてください、ね?」
 そんな前置きも、めずらしい。諒解、の合図に軽くグラスをかかげて見せ、煙草を灰皿に押し付けた。
「カイザーの……真琴さん、といいましたか?」
 その名が耳に入った瞬間、知らず肩が引きつる。
「あまり、いい噂を聞きません」
「どういう?」
「いま、あの人がどこにいるかご存知ですか」
「ご存知もなにも……カイザーと一緒だよ」
「昼間は?」
「さぁ? シュフしてるんじゃないのか」
 我ながら自嘲的に過ぎる、カイルは思う。けれど話題そのものにあの人の名が出てくる以上、こんな物言いになるのも仕方のないことかもしれない。
「昼間、この近くの喫茶店で彼を見かけた、と言う人がありました」
「……え?」
「例えばカイザーを迎えに会社に行ったとしてもこの辺りでは方向が違います。買い物に出たとしても……」
「この辺りには来ないな。もっと近くにある」
「でしょう?」
「……コーヒーくらい、気にいりの店で飲むだろう」
 なにか良くわからない、形になりきれない漠然とした疑惑がありはするものの、努めてカイルはそう言った。
 カイザーの、大事な人だから。かもしれない。気分の悪さにまた、煙草に火をつける。いつもは好ましいほのかな甘さが今は気持ち悪かった。
「ひとりではありませんでした」
「見てきたみたいだな」
 笑いに苛つきをごまかした。
「見たんです。僕も。でなければこんな告げ口みたいな真似しませんよ」
「……すまん」
 いいえ、そう旭はまた痛々しい笑みで答えた。どんな風に笑っても彼の笑顔は痛々しい。こうはなりたくない、どこかでカイルはちらり、思っていた。
「僕はもう二回、見ています」
 そして旭はその二回ともが同じ男と一緒だったと言い、旭に真琴の事を告げた客に尋ねても同じ人相の男だった、と言った。
「友達、かもしれない」
「ある世界では有名な男です」
「あるせかい?」
「なんと言ったらいいのか……産業スパイとでも言うんでしょうか」
「産業スパイ!」
 思わず大きな声を出したカイルにまあ落ち着いて、とでも言うようにそのグラスを取り上げ、旭は新しい酒を満たした。
 きついソーダの刺激に喉を潤しカイルは先を促す。落ち着いたつもりでも動揺したものか、新しい煙草に火をつけ、つけてからまだ吸いさしがあったことに気づいては苦笑する。古い煙草をねじ消してつけたばかりの紫煙を深く、吸い込んだ。
「彼自身が情報を盗む、というのではないそうです。情報源になりうる人物の、妻なり娘息子なりに――どっちでもいいそうですよ――近づいてその人に盗ませるそうです」
 もちろん詳しい手口は知りませんが、旭はそう言い言葉を切った。
「うちも……」
 それだけ言って旭はあいまいに、笑う。それでもカイルには言いたい事は充分にわかる。
 シャブランは客筋がいいのだ。カイル自身、一流の企業に属する人間であるし、露貴にしても銀行の機密にかかわる場所にいる。
 ここで会う客は多かれ少なかれそういった客が多い。静かな場所にある所為と旭の人柄の所為だろう。
 だから旭は客の中にも被害にあった人間がいる、と言いたいのだ。
「ありがとう。調べてみるよ」
「いえ……」
「旭?」
「なんだか……いやな役目ですよね」
 すみません、そう言った。
 それで救われる。カイルは思う。会社の機密に関する以上カイザーの恋人だからといって遠慮はしていられない。気分のいい仕事でない事は、確かだったが。
「社員の生活がかかってるからな」
 冗談めかして笑って見せたけれど、誇張でもなんでもなく、それは事実としてカイルの肩に重く圧し掛かってくる。
 他の誰でもなくカイザーに近づいた理由はただ一つ。新薬の情報に他ならないからとしか考えられなかった。
「少し飲みすぎたかな。帰るよ」
 鳴るドアの向こうで旭がまだすまなそうに頭を下げていた。




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