二人とも今日は普段のスーツより少し、上等なもの。 細身の体にほっそりとしたシルエットのスーツがよく似合う、カイルは目の前の人をやさしげな目で見ている。 そのカイルのタイにはあのキャッツアイ。夏樹、心づくしの贈り物が光っている。その礼、というわけではないのだが、今日はディナーにご招待。 「いかがです?」 「うん、いいな」 この日、毎年恒例のことではある。夏樹の誕生日だから。夏樹に恋人がいるときは贈り物にカードくらいで済ませるのだけれど、今年は久しぶりに一緒に過ごせる。それだけでカイルの心は弾む。 「そっちも美味そうだな」 夏樹は青りんごのシャーベッドとカイルの柚子のシャーベッドを見比べて少々不満げ。子供みたいな仕種が愛おしくてならない。 「シェアしますか?」 「あ、いや……いい」 カイルは微笑する。そう言うだろうと思っていた。 妙な所で妙に遠慮がちな彼はこれだけ長い付き合いであってもカイルと物を半分ずつ分け合って食べた事はない。 そんな事は恋人としかしないのかもしれない。以前見てしまった姿がいまだ、瞼の裏に焼きついている。 胸を焦がす嫉妬。そんなものを彼は知りもしないに違いない。心のうちで小さくひとつ溜息をつき、カイルは笑顔を浮かべ言う。 「今年は何を差し上げようか悩んだのですが……」 そこで少し言葉を切った。 「なにもしないことにしました」 「もらうほうが言うのもなんだけど、なんでだよ」 「私の気持ちを知っているわけですから、あなたの負担になるのではないか、と思って」 困った顔で笑みを浮かべるカイルの前で夏樹は答えない。 シャーベッドの最後のひとくちを唇に触れさせ、彼は言葉を探している。つ、と氷菓子が熱い血に溶け出す。 「なにを差し上げてもあなたは気を使ってくださるでしょうし、ね」 「……そうかもしれない」 「でしょう? でも……」 「わかってる」 ふいっと彼は目をそらす。照れて染まった頬を見られるのを嫌がるように。 そらされた彼の頬の代わりにカイルの頬に微笑が浮かぶ。 「最後まで言わせてください。誕生日、おめでとうございます」 「わかってるよ。さんきゅ」 出るぞ、ぶっきらぼうに夏樹は言う。 わざと、ぶっきらぼうに彼は言う。本当は嬉しくて仕方ないのに、いや、だからこそ夏樹にはそんな態度しか取れないのかもしれなかった。 「ちょっと寄り道をしましょう」 「どこへ?」 今日ははじめから出かけるつもりだったからいつものセダンには乗っていない。夏樹の大好きなセブンだ。夜のすいた道に独特の高回転域のエンジン音が快く響いている。 「野毛山のほうを通って下道で帰りましょう」 と、そういう事になった。 「ちょっと止めて」 それからしばらく走った頃。彼が言う。道はちょうど野毛山公園の前に差し掛かりつつあった。夏樹がドアを開けて出て行く。 「夏樹?」 追いかけた先は、野毛山動物園のフェンス。 「子供の頃さ、よく来たなって」 閉じたフェンスを鳴らした彼はどことなく照れ臭げで。 「先代と?」 「いや……叔父貴と、すいちゃんと。三人でよく来たよ。親父は忙しい人だったし」 今でも忙しいか、彼は笑う。 「翡翠さんはお元気ですか?」 「……んだよ、それ」 わざとらしく彼はフェンスを鳴らす。ちょっとは妬いてくれているのかもしれない。そんな些細な事がどうにも嬉しくてならない。 「水野先生には時々お目にかかるんですが、しばらく翡翠さんには会っていないな、と。それだけですよ、他意はありません」 「だからなんですいちゃんに会いたがるんだよ」 「まぁ、あのお二人はワンセットですから」 そうカイルは笑った。 笑ってごまかしただけで実は会いたがる用もあるには、ある。 夏樹の叔父でもあるあの教師の所に呼びつけられるたび、どちらかといえば物柔らかな彼のほうにこそ悩み事を話していた。 兄のように懐かしい、そんな気がする。それも亡くなった長兄のような。そんな事を言ったらなぜか夏樹が不快に思う気がして言えなかった。なぜか。 「ま、いいけど。でも!」 彼は振り向ききつい目で睨んでくる。 「いくらすいちゃんが美人さんだからってちょっかいかけるなよな」 きつい目にはわずかな微笑が透けて見え。 「愛しく思うのはあなただけです」 するり、指で彼の髪を梳いた。そう、言って欲しかったのかもしれない。 「恥ずかしいヤツだ」 軽い動作で身を翻した彼の顔は柔らかに笑みをたたえていた。 夏樹は車の中、花束を抱いたまま、微笑んでいる。 誕生日の贈り物に形の残るものは渡せなかった。けれど花束ならば。いい年した男がいい年した男にもらって嬉しいものでもないだろうけれど、それならば彼が負担に思わずにもらってくれる、そんな気がした。 「ありがと」 夏樹はほんのり頬染めてそれだけ言った。 その花束を抱いている。 マンションについても彼はそれを傍らから離さず自分で抱いて降りた。 そんな事が彼には想像もできないほどカイルには嬉しかった。たったそれだけの事が。 「もう少し、部屋で飲むか?」 「いいですね」 「俺の部屋にいいワインがある、取っていこうよ」 他愛ない言葉。エレベーターの中で交わす会話。狭い、言わば密室で、二人。不意にどうしようもないほど抱きしめたくて腕を伸ばす。 「ん……だよ」 夏樹はそう言っただけで抵抗しはしなかった。それどころか。そっと抱き返してきさえした。背中で花束のセロファンが、がさり、鳴る。 と、電子音が階についたのを知らせ、二人ともが慌てて飛びのくように離れては顔を見合わせ笑った。ドアが開く。 ドアが、開く。人が、居る。夏樹の部屋の前、頼りなげな人がいる。くたびれて望みを失いかけた人がいる。一歩踏み出す。夏樹はもうカイルを見ていない。 痛い。でも、わかっていたことだった。……いつか。この日が来るはずだ、と。 「真琴……」 少年は、笑った。力なげに。 「……帰ってきちゃった」 言葉を最後まで聞かず夏樹は。彼をその腕の中、抱きしめていた。その手がそっと少年の頬を包む。まるで幻ではないのかと確かめでもするように。 これ以上見ていたくない。痛い。 「……では私はこれで」 カイルはエレベーターに体を向けた。 「……カイル!」 ようやくカイルがそこにいた事を思い出したか、夏樹は声をかけ。しかし続かない。 「なにか?」 営業用の顔。自覚してはいる。カイルとてそれほど馬鹿ではない。でもいまはこんな顔しか作れない。 痛感。自分はどれほどの信用を得ても、今まで夏樹を腕に抱いて眠ろうとも。 彼の恋人ではない。愛されては、いない。愛されているのは自分ではない。エレベーターのドアが開く。 「おやすみなさい、『カイザー』」 後悔、呆然、自失。夏樹のうろたえた表情をドアが遮っていく。そっとカイルの殻を作っていく。こんな日が来ると、わかっていた。それでも。 「キツイ……な」 小さな箱の狭い壁に身をもたらせ、カイルはうめく。唇を噛もうとして、やめた。後できっと夏樹はくる。 だから打ちのめされている所を見せたくはない。ささやかな誇り、かもしれない。そのカイルの心を打ち砕いたもの。夏樹の残り香。香るエゴイスト。 案の定彼は来た。カイルが立ち直ったふりをするのに十分な時間を経て。それまでになにがあったのか。想像したくもない。 「カイル……」 彼はそれだけ言うとまた黙った。 「あの人と、よりを戻したのでしょう?」 もどかしくて自分から聞けばこくり、肯く。 「……ごめん」 「謝って頂く事なんて、ありませんよ」 どうか、幸せに、そんな顔を作ってはカイルは微笑む。 「ッんで……引き止めないんだよ」 「できません。はじめからあなたが愛していたのは、あの人だったのですから」 「なんだよ、それ」 「気づきませんか? 気づいていないでしょうね」 「だから、なにがっ」 いらだつ彼に向かってカイルは一度目を閉じる。言いたくない。けれど。 「毎晩、私の腕の中であの人の名を……呼んでいましたよ」 瞬間、彼は震えた。 「そんな……」 カイルは目を伏せる。それがなにより、その言葉の真実を物語っていた。 「カイル……」 言葉に吸い寄せられるよう、カイルはそっと夏樹を抱いた。髪に頬を寄せ、彼の体温を感じ。 「しばらくはこれで、終りです。愛しているとも言いません」 あの人に失礼ですから。口先だけでカイルは、笑う。 けれど顔の見えない夏樹にはそれが振り絞られた痛みに聞こえた。 カイル。呼ぼうとした声は出ず、抱き返した腕にだけ悪戯な力が入る。奇しくもそれが夏樹にきつく抱き返された初めてのことだとカイルは気づき、嗤った。 「最後です。……愛してます、ただ、あなただけを」 そっと彼の体を押し戻す。 「さあ、待ってますよ、あの人が」 自嘲の笑みから自嘲を消して、カイルは口元に微笑を浮かべる。 「おやすみなさい、カイザー」 「おやすみ……」 言葉がなかった。混乱した頭の中、お互いにこれ以上なにも言えなかった。 だから。ただそれだけを言って、彼は階下に降りて行く。カイルは黙ってそれを見送る。 最愛の人がその恋人の下へ帰っていくのをただ、黙って見送った。閉ざされた、ドア。 もしかしたらまだあの人がいるかもしれない、そんな希望。 一瞬。ドアを引き開けそうになって、やめた。いるわけが、ない。 こわばった頬を無理に笑いの形にゆがめてきびすを返す。電話の前に。 「露貴(つゆたか)? 忙しかったか?」 「いや」 「飲みにでも、行かないか」 自分の声が震えている。勘のいい彼にはきっとなにがあったのか、わかってしまったに違いない。 「じゃあ、シャノワールで会おう」 なにも聞かずにただそれだけを告げ、電話は切れた。 露貴は夏樹の従兄だ。が。カイルの同級生でもあった。会社の取引銀行の跡取、ということもあって今でもたびたび顔をあわせるけれどそれ以上に長く信頼しあった付き合いなのだ。 シャノワールについたとき、露貴はすでにきていた。それがカイルをどれほど心配しているのか、表している。そんな表情は露ほどにもうかがわせなかったけれど。 「待たせた」 「今きたとこだよ」 ぴりぴりとしたカイルの顔に少し苦笑を返し露貴は言う。それでどれほどきつかったのか思い出してしまった。 「暁。ラスティネイル、頼む」 マスターの暁(あきら)はバーテンダーでもある。小さなこの店を独りで切り盛りしている彼とも長い付き合いだった。 |