自分の苦しみなど、この人が知る必要はない。少なくとも今はまだ。カイルはひっそりと笑って夏樹の髪を撫でた。 「そうだ、お土産がありますよ」 「なに?」 「ロイズのピュアチョコレートと六花亭のマルセイバターサンドです」 言ったとたんぴくん、と彼の体が跳ね上がる。まるで好物の魚を目の前にした猫のように。 「食べる」 まるっきり子供の顔をして夏樹は笑う。この顔が見たくてカイルは土産を買ってきたのだ。 いい年した男の癖に実はチョコレートに目がないこの人の為に。 ロイズも六花亭も本州には進出していない北海道の製菓店だ。そのいずれもが夏樹の好みだった。 ロイズといえば生チョコ、これが一般的だ。けれど夏樹はその生チョコが好きではない。 「甘ったるすぎる」 と言うのだ。 だから有名にならないほうのチョコレート、五百円玉を少し大きくしたほどの板チョコの形をしたピュアチョコレートがお気に入りだ。別けてもベネズエラビターが。 難点はガーナスイートと名づけられた少し甘めのものと一緒に販売している事。二十枚づつ四十枚で売っているのだがいつもスイートばかりが残る。 「ビターだけで売ってれば箱買いしてもいいんだけど」 夏樹は文句を言いつつそう笑う。 もうひとつの土産、六花亭のマルセイバターサンド、と言うのはいわゆるレーズンサンドだ。 クッキーの間にバタークリームとレーズンをはさんだあれである。 六花亭のものを夏樹が気にいる理由はそのバタークリームにあった。 北海道と言えばホワイトチョコ、ホワイトチョコと言えば六花亭かナシオと言うくらいだ。そのおいしいホワイトチョコがバタークリームに混ぜてある。だからクリーム、というよりはむしろバター風味のチョコレート、と言った風情。 それが夏樹のお気に入りの理由だった。 「お茶を淹れてあげましょう」 カイルは笑ってベッドから体を起こし立ち上がる。今までの怒りなど忘れたように笑う夏樹がなにはともあれ嬉しかったから。 「あ……」 同じく身を起こした夏樹が小さな声を上げた。 視線はドアの元まで早くも歩いていたカイルの、指に。 「……ごめん」 まだ血の滲み続けるその指先から目をそらし彼は少し唇を噛む。 「大丈夫ですよ」 「でも」 「大丈夫です」 それでもまだ後悔の念にとらわれている夏樹にカイルは笑いかければ、いたずらを思いつく。 「間接キスですね」 そう、言ってのけた。傷ついた人差し指を己が唇に押し当てながら。 と。猛烈な勢いで飛来する物。飛んできたのは枕だった。ベッドの上には夏樹。恥ずかしいカイルの言い様に声もなく赤面して。 「ッ大馬鹿ヤローっ!」 愛しい人の罵声を耳にカイルは悠然とドアを閉めた。 やかんのお湯がようやくふつふつ音を立て始めた頃になって夏樹はやっと姿を見せた。 視界の端に映った彼がまだ少し赤い顔をしていたからカイルはあえてそちらを見ない。 不意に。背中から抱きしめられた。 「夏樹?」 胸の前にまわされた指は白くなるほどきつく、カイルのシャツをつかんでいる。 「……ごめん」 「指の事でしたら大丈夫ですから」 背中で彼の髪が揺れる。違う、そうじゃないと首を振る彼の髪がカイルの首に触れては離れる。 「俺、酷いこと言った。怒ってたからって、愛してなんかいない、なんて言われたら、きついよな」 再び、ごめん、そう彼は小さく呟いた。 「大丈夫ですよ、事実ですから」 カイルは苦笑する。自分でそう言ったものの、言い切れてしまえる「事実」とやらが情けない。 「でも」 「いいんですよ、今のところそれが事実には違いありませんから」 言いながらだんだん投げやりになっている自分に、気づく。自分で思っているよりずっと。 「お前の事、傷つけた……」 そう、思っている事を指摘された。 「こんなに想われてるのに俺は愛してないどころかお前の事、痛めつけてる」 そういう彼こそが、痛そうだった。まるで自分の方が傷つけられたかのように。 「好きじゃ、ないけど、でも大事なのに」 ごめん、ごめん、カイル。彼は呟き続ける。 その姿があまりにも辛そうで胸の前の腕を強く引っ張っては自分の前に。 つけてしまった傷におびえた顔で自分を見上げてくる想い人をそっと、カイルは抱きしめた。彼の体からふわり、エゴイストが香る。 「そう何度も連呼しないでください。わかっている事実でも、ね」 「ほら……やっぱり」 「でも、それは今の事実であってこの先ずっとそうだとは限らないでしょう?」 返答など何も期待はしていなかった。そうやって今まで過ごしてきたのだから。 けれど彼は。小さく、しかし確実に肯いたのだった。 「でも……お前の今際のきわになって『ほんとは好きだった』って……言うかもしれない。それじゃあ無駄じゃんか」 「どこがです? 今際のきわであろうが嬉しいですよ、きっと。ましてあなたに見取られて死ぬなら本望です」 「そんな事……」 「大体その仮定だと、少なくとも死ぬまで片腕としては側においていただけるのでしょう?」 「そりゃ、そうだけど」 「それに先程の話を蒸し返すようですが、独占欲を感じていただけているのでしょう? 正月から考えてもたいした進歩です。私にとっては」 カイルは笑う、気は長いって言ったでしょう、と。 「馬鹿だよ、カイル。俺なんか好きになって」 ちらりと見上げた目はそれでもなぜか少し嬉しそうですら、あって。 「それでもあなたが好きなんです。私は」 カイルの深く響く声に、その内容に夏樹は安堵と嬉しさの混じったかのような抱擁で応える。 それは決して恋人同士の抱擁にはなりえなかったけれど、今はそれでも充分だ、カイルは思った。 「さあ、向こうで待っていてください。お茶を淹れたら行きますから」 もうだいぶ前からしゅんしゅんと音を立てるやかんを口実に、そっと彼を引き離した。 片手には土産を入れた紙袋、もう片手には淹れたての紅茶。 リビングをドアをくぐるとそこは薄暗い。天井の照明ではなく、窓際に置かれたフロアランプだけの明かりだった。 天井から床までの大きな窓からはみなとみらいの夜景が夜空の星を映したように煌いている。 ランドマークタワーのストレートに光る明かり、クイーンズスクエアの波を模した明かり、ちらりと見える観覧車のライトはまるで光の花火。手前にはマリンタワーの明かりも見えた。 横浜一の夜景を特等席で望めるなんとも浪漫的なリビングだった。 彼はソファの陰にいる。ソファ、そう便宜的に呼びはしても実際、ソファではない。大きな大きなクッションや、ビーズクッションを三つも四つも並べ、重ねてはマルチクロスをかけてソファの体にしている。 この、好きなように体にそう感覚がカイルは好きだった。 今でこそ夏樹と同居の形になってはいるものの、以前はほぼ独立した生活を送っていた。 だからこそ、疲れた。仕事でばかり彼を見、そして帰ってきては階下に彼の恋人がいる気配。 やるせない気持ちは「疲れ」という現象にすりかえる以外なかったから。 実際、秘書という仕事は想像以上に気を張る仕事だ。資料を集めたりスケジュールの調整をしたりだけが仕事ではない。社長が社長としての業務を気持ちよくかつ滞りなくこなせるようにする、それこそが仕事だった。 そんな仕事を終え、一人きりの部屋に帰れば季節のいかんを問わずしんと寒々しい。 階下では彼の帰りを恋人が待っているというのに。 飛び切りの夜景を楽しむ気持ちにもなれず上着を脱ぎ、そのソファに倒れこむ。喉元に指を入れ乱暴にネクタイを緩めては溜息。毎日の、それが繰り返しだった。 そのソファの陰から今は愛しい人が笑っている。それが恋人に向ける笑顔ではないとわかっていても、彼がここにいてくれる、ただ、ただそれだけで本当に、嬉しい。 夏樹はカイルの姿を認めると、少し照れたように笑いマルチクロスの下から大きなクッションをふたつ、引き出す。 ひとつは自分に、もうひとつは右側に。そうして早く来いよ、と笑った。 窓に面して腰をおろせば、一面の夜景。 「しばらくぶりだよなぁ」 彼は言う。薄明かりの中二人並んで夜景を眺めている。そんな今までは想像もできなかった事態にカイルはわずかに戸惑っていたのかもしれない。 「Was?(え?)」 思わずそう問い返していた。 「めずらしい」 夏樹は笑う。 「ドイツ語が出てきちゃうのって久しぶりだろ?」 「ええ、ちょっと考え事をしていたものですから」 苦笑がもれた。 「あなたに日本にいるなら日本語で、と昔言われましたからね、今ではほとんど気にする事もなく日本語が出てくるんですけど……」 「考え事してるとだめとかか?」 「いえ……なんと言うのか、物の弾みみたいなものですよ」 そういうものか、彼は呟いて首をかしげる。それからいただきますをきちんと言って土産の菓子を手に取った。 「あぁほんと、久しぶり。美味いよ、ありがとう」 喜んでいただけて嬉しいですよ、普段なら簡単に出てくる言葉がなぜかすっと出てこなかった。 代わりに笑顔が浮かぶ。 夏樹にはそれはなんとも幸せそうな笑みに見えた。 カイル自身はその笑いが痛い笑顔だと気づいた。 「そう言えばさ」 夏樹は痛みに気づく事はなかった。 「なんです?」 あちち、と夏樹は笑いながら紅茶のマグを手にとっては吹き冷ましている。猫舌の彼にはまだ充分熱すぎるそれを彼は注意深く口にした。 「お前さ、考え事してる時ってドイツ語なわけ? 日本語なわけ?」 「さぁ……ごちゃ混ぜですよ。いいかげん日本にいるのも長いですからね」 「でも不意にはドイツ語が出る」 「それはそうですよ。一番最初に覚えた言語なんですから」 「ふぅん……十六年か」 「え?」 今度はちゃんと日本語で聞き返してきたのがおかしいのか、夏樹はくすりと笑いながら答えた。 「だから日本に来てから、さ」 「ああ、もうそんなになりますね」 何気なく答えはした。けれどその月日はおそらくカイルの頭から離れた事はなかったことだろう。そこから一年をひけば夏樹と出会って過ごした年月になるのだから。 「俺の事いつから好きだった?」 「Was!?」 「だから!」 「あ……ああ、すみません」 「人が話してんのに考え事に熱中するのは失礼だぞ」 「いや……そうではなくて、その、あまりにも驚いてしまって」 思わず取り落としそうだったマグを慌てて持ち直せば先程の傷がジンと痛む。その痛みにまた、マグを取り落としそうになってしまう。そんな自分の姿に苦笑が浮かぶ。 「……そんな事を訊いてどうするのですか?」 ようやく返したのは質問の答え、とは言いがたいものだった。 「別に。知りたいだけ」 「言わなくてはいけませんか?」 「……けっこう前から、だろ?」 「そう、思われますか?」 質問に質問で返す失礼を咎められるかと思ったけれど夏樹はそうしなかった。ただ熱い紅茶を吹き冷ましつつカイルをちらりとうかがうだけ。 「いまさらだけど思い当たる節がないわけでも、ない」 「いつか……いつか言いますよ」 「……うん」 今はまだ、言えはしなかった。彼に友として裏切られた、そう感じさせたくはなかったから。 「カイル、なんで口説かない?」 「精一杯口説いているでしょう?」 嘘をつけ、彼は手を振ってあっさりそれを否定した。 「たとえば今だってさ、こうやって薄明かりで寄り添ってたりするわけだ。もう一押しすればなんとかなるとか、お前思わないのかよ」 恨みがましげに見上げて来る目とぶつかる。 そして彼はわざとらしく二人の間においてあった菓子を追い遣ってはカイルの腕に寄り添った。そっと抱き寄せれば頬に彼の髪が触れる。満足そうな、溜息。 「あなたがね、雰囲気に弱い事も、押しに弱い事もよく知っているんですよ?」 「だから」 「だからこそ、あなたがあなたの意思で好きだと言ってくれなければ意味のないことでしょう?」 わかりませんか、そう髪を指先で弄いつつ、カイルは答える。 「そうかもしれないけどさ、誘い水がなきゃ絶対に言わないかもしれないぜ」 「いつか言わせてみせますよ」 「どうだか!」 腕の中で笑う。夏樹が楽しげに笑う。だからこそ、恋人同士ではありえない。こんな明るすぎる笑い声をこの状況でたてられるはずがない。少しでもカイルの事を想っているならば。 知らず暗澹たる気持ちになりかけるのをカイルは必死で振り払う。ようやくここまでたどり着いたのだ、と。十五年かけて腕に抱いて好きだと言えるまでになったのだ、と。これからなのだから。 たとえ今は仲のいい兄弟がじゃれているようにしか見えなかったとしても。これからなのだから。 |