結局いつもそうなのだ。
 カイルは腹立たしい思いで空港にいる。
 新千歳空港は空港それ自体の面積より土産物屋の方が広いのではないかというような所だ。
 ここで買い物をすればそれこそ北海道全域の土産が買える。食べるものも空港にしては多い方だ。
 カイルは自身の買い物を済ませ端の方のハンバーガーショップでやはりと思う。なにもカイザーを呼ぶ必要なんてどこにもなかった、と。
 二日間の出張で、来てみればカイザーどころか自分ですらなくとも担当者同士で煮詰めればよかったような話ばかりだった。
 それを調整するのも仕事のうち、と心得てはいるけれどどうにも疲れた気がするのだった。
 彼の側にいないせい、もあった。声すら聞かなかった。報告はすべて会社にメールで送った。書類の類はファックスを使った。
 電話は一度も、しなかった。
 不意に思い出す。夜の街で買った女の事を。体の下でうごめく冷たく白い肌。短く整えた黒い髪が散ったシーツ。
「寂しいのね」
 女は言った。崩れた性の匂いのする肌を擦り付け赤い唇が愛撫をする。
「身代わりね、私」
 くっきりとした目で見上げたその女はどこか、あのひとに似ていた。
 搭乗のアナウンスが響いている。

「ただいま、戻りました」
 静かにドアを開ければ部屋から明かりが漏れている。そんな事が妙に、嬉しい。
 けれど。ダイニングに人影はない。
 普段なにかの都合でカイルのほうが遅くなったりする時にはいつも、そこにいたのに。
「夏樹?」
 ダイニングを抜け、リビングへ。ソファーの陰にその姿。
「ただいま戻りました」
 彼はちらり、カイルに視線を泳がせそして、そらす。
「……お帰り」
「もっと早く帰ってくるつもりだったのですが、遅くなってしまいました」
「べつに」
 ふいっとあらぬ方を見据えた夏樹は明らかに不機嫌だった。
「夏樹、どうました」
「俺のこと好きか」
 唐突な、問い。
 冬の箱根で飽きるほど繰り返された問いもこの頃はされる事はなかった。
 なにもない所を一心に睨みつけていたその強さのまま、カイルに目を移し、睨む。
 一瞬にして黒い瞳が青い煌きになる。笑えば穏やかな夜の海の色になるくせ、今はまるで青い炎のようなその、色。怒り。
「どうしたのです? 急に……」
「答えろ」
「……愛しています」
「うそだ」
 伸ばされた腕を払い背を向け彼は言う。そう、言い切る。
「夏樹」
「下行く」
 そう言って振り返った目が少し、すがった気がした。
「行かせません」
 不意、だったろう。後ろから抱きしめた体がこわばった。
「離せ」
「離しません」
「カイル!」
 半ば無理やり取った腕でこちらを向かせ、力ずくを詫びるようにそっと抱いた。なだめるように何度も何度も髪を、梳く。時折頬に指が触れるたび、びくり、彼は身をすくませた。
「愛しています」
「嘘だ」
「嘘なんて……眠っておられないのでしょう? だから……」
「ああそうさ!」
 ようやく静まりかけていた彼の怒りを再燃させた一言は「眠っていない」だった。
 肩口に埋めていた頬をきっと上げ、睨みつけるその目の下に、わずかながら影があった。
「俺は眠れない。あれからは……一人じゃ寝れない。お前わかってるくせに電話一本よこさなかった!」
 思わずきつく抱きしめていた。愛しくて、愛しくて。今はまだ、もしかしたらこの先もずっと、自分が抱くとは同じものを決して持ってくれないかもしれない彼が放つ言葉がたまらなく愛しくて。
「離せよッ」
「すみません、私のわがままでした」
「なにがだ」
 ストレートに問われては少し困ってしまう。
 けれど理由を言わない事には決して納得してはくれないだろう。
「あなたの声を聞きたくなかったんです」
「離せ」
「あなたの声を聞けば仕事を放り出して帰ってきてしまいそうでしたから……」
「ンな馬鹿を部下に持った覚えはないぞ」
「でも、正解でした」
 再びゆっくりと力を抜いた体を預ける夏樹を抱く。
 肩に寄せられた頬。彼の髪がカイルの頬をくすぐる。話すたびに吐息が首に触れ、わずかに唇さえ、触れた。
「愛しい人のことを考えていては、仕事になりません」
「大馬鹿」
 大事な想い人の体をそっと抱きなおし、抱きしめる。
 今度は素直にまわされた腕がカイルの背を包んだ。
「まだ……怒ってるんだからな」
「はい」
「ほんとに、怒ってるんだからな」
 一言の電話もしなかった、そう言って怒る。お前がいないから眠れなかったと言って怒る。カイルの腕の中でなければ、眠れない。そう。
「ベッドに行きませんか」
「……っ! なっなに、急にッ」
 ようやく落ち着いた夏樹が慌てて体を引き離す。
 珍しいほどに動揺した表情に、ほんのりと赤い、目元。思わずくすり、笑ってしまった。
「誤解です。少し眠りましょう、と」
「そうならそう言え。馬鹿野郎ッ」
 制止も聞かず足音荒く彼は寝室へ。明らかに照れ隠しだった。

「お前どこ行ってたんだよ」
 幾分収まったもののまだ怒りは解けずベッドの中で彼は背を向けたままカイルに問うた。
「どこ、とは?」
「とぼけんな。何度も携帯鳴らした。夜中だったのにお前、出なかった。そりゃそうだよな! 狸小路なんてとこ泊まってんだからさッ」
 あの晩のことだ。間違いなく携帯には着信記録があった。彼のものだと知ったカイルは嬉しくて後ろめたくて、だから連絡が出来なかった。
 思い当たる節があるだけに言い返せないカイルにいらだつように夏樹は重ねて言う。
「狸小路からすすき野まで歩いてすぐだ。ま、無理ないか。俺はこれ以上指一本触れさせないわけだし、キスくらいならいいって言ってもお前しないし! ああそうだよな。そんなんじゃ生殺しだな、わかっちゃいるさッ」
 言い募る彼が見た目以上に傷ついているのを知ってカイルは愕然とする。
 そして、そんな彼が示す態度が不謹慎ながらも嬉しかった。
 抱きしめようと伸ばした手はあっさり振り払われ、夏樹は痛みをこらえるかのように己の体を抱いた。
「……女、抱いたんだろ」
「……」
「答えろよっ」
「……はい」
「出てけ! ベッドから今すぐッ!」
 振り向きざまに彼は飛びのいてはベッドの端から冷たい視線を送りつけた。
「頭のてっぺんからつま先までシャワー浴びてくるまで側よんなッ」

 水の匂いと共にカイルが戻ってきた時夏樹は、ベッドの中で背を向けて横たわったままそれは小さく、小さくうずくまっていた。
「夏樹」
 答えがないのを都合のいい方に解釈しつつ隣にもぐりこんでは背中からそっと彼を抱く。抵抗は、ない。
「まだ、怒ってるからな」
「はい」
「お前……体つめたい」
「水浴びて反省してきました」
 馬鹿かお前、口の中で彼は呟き、胸の前にあったカイルの指をそっと唇に当てた。
「夏樹?」
「この指で俺以外の誰かに触れたわけだ」
 カイルの指先を試すように軽く噛み彼は繰り返す。俺以外の誰かをその目で見つめたわけだ、と。
「俺は我が侭で残酷だ、わかってる。自分でもそんな事はよくわかってる。それでも……お前が俺以外の誰にであっても目を奪われるのは許せない」
 再び指を含んで少し、噛む。
「お前を好きかなんてわからない、たぶん違う。愛してなんかいない。それでも……いやなものはいやだ。独占欲、ただの独占欲でも……嫉妬は嫉妬だ。認めさせるなこんな事……っ」
 きつく抱きしめたカイルの腕を振り解き、みたび指を含んだ。
 今度はねっとりと他のなにかを愛撫するように。
 試して、いるのかもしれない。
「夏樹」
 戸惑いつつ声をかけたカイルを無視して彼は指を含み続ける。カイルの形のいい指を、人差し指を喉の奥まで飲み込んでは舌を絡み付けた。
 あるいは浅く唇ではさみつつ舌先が爪の周りをたどっていく。時折軽く歯をたて音をたててキスをする。
「夏樹……」
 戸惑うカイルの声が彼の中になにを爆発させたのか。
「……っ」
 ちからいっぱい噛まれた指が空気に触れて冷たい。
 生暖かいぬめった液体が指先へと滴り落ちていくのを感じた。
「まだ怒ってんだからな」
 振り向いた彼の唇はカイルの血に、鮮やかに染まっていた。
「まだ怒ってる。でも謝るなよ。謝ったりしたらたぶんもっと……もっと不愉快だ。だから謝るな」
「はい……」
「返事のほかに言う事、あんだろ」
 子供がするように夏樹はすっぽりとカイルの腕の中、抱かれている。
 こちらを向いては息苦しいほど、頬をカイルの胸に押し付けながらそのくせ腕はためらいつつ背中にまわし、抱いている。
「愛しています」
「……うん」
 彼は満足そうに少しだけ、微笑んだ。
「眠りますか」
「いや……その」
 珍しく彼は言いよどみ、決心するように一度きゅっとカイルの背を抱く。
「……どんな女だったんだよ」
「悪趣味ですよ」
「ッかってるよ、んな事は」
「怒るから言いません」
「言わなきゃもっと怒る」
「言ったらもっと怒ります」
「……なにいつまでも子供みたいな事言ってんだ、言えよ」
 夏樹が笑っている。おかしくてたまらないと言いたげにくすくす声を立てて笑っている。
 カイルの腕の中で。
 自分の言い様の方がよほど子供みたいだ、そう思ったのかもしれない。
「どこか……あなたに似ていましたよ」
 夏樹は一瞬身を固くし、それからゆっくりと力を抜いていく。そして問う。
「俺以外、欲しくないわけ?」
 と。カイルはわずかな失望を隠すよう、大袈裟にため息をついてみせる。
「そんな当たり前のことを訊かないで欲しいものです」
「でも……ほかのやつ抱いてきた」
「女に言われましたよ。身代わりなのねって」
 夏樹は息を飲み、動揺を静めようとでも言うのか荒々しく呼吸を整えた。
「買った女に悟られるような真似、すんな」
「それだけあなたの事しか見ていないと言っても、免罪符にはなりませんか」
「答えさせるな、馬鹿」
「……はい」
 他愛無いやりとり、その至福。
 どれほどの幸福なのか、夏樹は知りもしない。わかりもしない。
 同時にそれがどんなにか苦しい事にも。夏樹は気づこうとも、しない。




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