酔いの所為だとしても、肩の力が幾分抜けたものか、急に怪しくなった足元をカイルははらはらしながら見ている。 手を貸そうと思ったとき、夏樹はベッドに倒れこんだ。と、思う間もなく珍しく乱暴な手つきで上掛けをめくる。 「ちゃんとかけていないと風邪引きますよ」 「だったら早く入れよ」 「……え」 「どこで寝るんだよ、お前」 黒曜石色の瞳がスタンドの光を映し、揺れる。じっと見詰めてくる、瞳。なにもかも、自分のあさましい思いさえ見抜かれそうでカイルは独り、身を震わせた。 「いくらダブルベッドでも、邪魔でしょう? 大丈夫ですよ、ソファで寝ますから」 丈夫はとりえのひとつですよ、カイルは笑ってベッドの側を離れた。 「カイルの匂いがする」 その背中に彼の声が届く。理解するまでわずかに間があった。振り向けば彼が笑っている、そんな気がした。 「おやすみなさい、カイザー」 何を思うこともなく目元に笑みさえたたえ、カイルはドアを閉めた。 こんな調子でカイルの方が眠れるわけもない。 さすがにいいかげん酒には飽いて熱い紅茶を淹れては飲んでいる。 それが一層眠気を飛ばしてしまったのか、胸の動悸は収まることもなくいまだ高鳴り続けている。 まるで十代の恋のように。 十代の恋、ある意味では正しいのかもしれない。十七歳の時の恋のまま、こうして十五年。 生まれ育ったドイツで過ごした時間より、こうして日本に暮らす時間の方が刻々と長くなっていく。それもただひとえに彼のため。 「カイルの匂いがする、か……」 たぶん自覚して言っている事ではない。それはよくわかっている。 それでも自分という存在が彼にとって安らげる場所のひとつである、というのはなににも増して嬉しい。 だからこそ、この望みの薄い恋のためにこんなにも長いこと、故国を離れる事になったのだ。 「故国」 口に出してみれば妙な気がする。そうして気づく。帰る気のないことに。 カイルにとっては夏樹が自分の主でしかないにしても、彼の側こそが自分の居るべき場所に成っていた。 開け放したカーテン。暗い部屋。七階の自分の部屋から見る月は随分久しぶりだ。そんな気がした。 一月十日の夜がふけていく。月齢8.9の月が夜空に冴え渡っている。明日から一週間、夏樹もそして自分も遅い正月休に入る。 「どこかに、連れて行こう」 カイルはそう決めた。 「どこか、行きませんか」 あれほど飲んだにもかかわらず、お互い酒には強い質だったから二日酔いにもならない。 それでも酒の力を借りて少しばかりではあったとしても自分の思いを吐き出してしまった夏樹の顔色は優れない。 熱い紅茶の入った大振りのマグカップを両手で抱え、ちらりと窺うようにカイルを見上げた。 そんな仕種が頑是無い子供のようだ、カイルは思う。 「……人気のないところ」 その一言で決めた。随分前の事。まだ夏樹に恋人が出来る以前の事だ。 仕事にというより、人付き合いに疲れた彼を連れてよく行っていた宿がある。常宿と言っていい。とは言え、お互いに忙しいこともあって中々訪れることはできない。ただ夏樹が気に入っていることだけは確かだった。 「箱根、どうです?」 言えば気の乗らない風にただ、あぁとだけ彼は言う。 「ではそうしましょう」 それでもカイルには充分彼が行く気になっているのが見て取れたからそう言っては、さっさと動き始めた。 想像していたよりずっと自分が楽しんでいることを発見しては内心で驚いてしまう。彼もまた少しでも楽しんでくれればいい、そんなことを思ってカイルは準備を始めた。 階下に行ってまずは彼の着替えを一通り。入るなり愕然とする。部屋が、荒れていた。 夏樹が荒らした、というよりも真琴が何もしなかった、と言ったほうがいいような荒れ方だ。 あんな人間に大事なカイザーを預けていたと思うと憤りを覚えるなどという生易しいものではなく、これこそが憎悪だ、そんな気になってくる。今までの気分が台無しだった。 暗澹たる気持ちを強いて押さえ、自分の部屋に帰ってきた時には、既にいつものカイルの顔に戻していた。彼にこんな自分の内面を知られたくない、その一心で。 「電車、やだからな」 あの部屋を見てどう思ったかな、そう彼の顔は語っている。 遠くを見ているふりをしてその実カイルを横目で見ている。 会社ではそんなそぶりは毛ほども見せないが、二人でいる時だけにする仕草。カイルにとってはそれだけで充分、夏樹の気持ちは掌を指差すようによくわかる。カイルのささやかな、幸せだった。 「もちろん」 答えはしたもののふと気になってネットをつないでは天気を調べる。 大丈夫。雪はさほどでもない。そのことに安堵した。雪で道路の規制でもされていたら、やっと気持ちを浮上させたばかりの彼がまた沈んでしまう。 自分の用意などたいしたこともなく、すぐに済んでしまう。男二人で出かけるというのは手間がかからなくていい。 「行きますよ」 提案から戸締りまで正味三十分。 手早く済ませて連れ出さないといつやめた、と言い出すかわからない、というのももちろんあったのだが。 喋る気などさらさらないと言いたげな夏樹の横に並んで歩きながらカイルは他愛ないことを話す。自分は口をきかないくせ、カイルが話すのを彼は止めようとはしない。 そんな夏樹を横目で見つつカイルは心の中で苦笑する。この人の昔からの癖だな、と。不機嫌を、そうやって彼はなだめるのだ。そしてそれに応えられる自分がわずかばかり誇らしい。 駐車場に並んで停められた車が三台。一台はカイルの物だったが、選んだのはそれではなかった。セブン、RX-7である。 夏樹の叔父と言うのがロータリー狂いで幼い時からなついていた彼も、長じて車に乗るようになってからはマツダの車にしか乗らない。 いくらロータリーの音が好きでも会社に行くのにスポーツカーはまずい、と半ば仕方なく出勤にはほかのマツダ車に乗っているくらいだ。 二人分の荷物を積み込むとそれだけでいっぱいになってしまう車の後ろを相変わらず狭いなと苦笑しつつナビのドアを開けた。 小気味のいい音がして、エンジンが唸り始める。独特のロータリーサウンドを響かせつつ、車はスタートした。 箱根ガラスの森の横を抜け、車は仙石原温泉へと入っていく。 箱根の町を見渡せる少し高台になったその宿は、突然の訪れだったにもかかわらずにこやかに二人の客を迎えた。 「離れ、空いていますか」 案内に立った若女将はもちろん、と笑う。 離れ、と言ってしまうには少し豪華すぎるかもしれない。 ロの字型に建てられた離れは玄関を入ると二手に分かれる。 左手すぐが広々とした本間、横手に折れて中庭を挟んで玄関の正面にあたるのが次の間。珍しいのがやはり庭を挟んだ向こう側、本間の正面。一間丸々湯殿にあつらえてある。 畳敷きの脱衣所の向こうは焼きを入れた杉で張った内湯。 「檜よりこの方が好きだ」 そう言う夏樹の要望で張り替えたとか張り替えないとか。 その向こうが露天。岩造りの風呂は雪に映えてきっと美しいだろう。 そして中庭は今となっては珍しくなった坪庭。カイルも書物で知ってはいたものの、この宿にくるまで実物を見たことはなかった。 どこにいてもどこから見てもよい風情の庭にいつのまにか降り出した雪が、深々と積もり始めた。 いずれどこに行くにしても庭に面した縁廊下を通るから外から見られる気使いは、ない。 他のすべてを差し置いても夏樹がここを気に入った理由がそれだった。 「お湯、使ってこられたらいかがですか」 「ん……」 答えて彼はふらり、立ち上がり、何気ない動作で着ている物を脱いでいく。子供の頃からと言っていい長い付き合いだけにそのあたりはたいして遠慮はなかった。 細くなってしまった肩に浴衣と丹前を着せ掛けて、カイルは何度目かの鈍い痛みを感じている。 もっとしっかりしていればこんなになってしまうまで放っておかなかったのに、と。 背中を向けて立つ、自分より少しだけ小さな細い体を抱きしめてしまいたい。 嫌がりも、抵抗もしないだろう。今は。そう思えば自己嫌悪にさえ陥りそうで人知れず胸の中、カイルは溜息をついた。 「お前も来いよ」 夏樹が笑った。 こんな事で試されていると感じてはいけない。カイルは再び溜息をつく。 今ではパスポートの書き換えくらいでしか帰らなくなってしまった故郷、ドイツ。 幼い頃の事を思い出してもどうにも湯につかった、という記憶はない。 というのもドイツでは温かい湯につかる、というのは病人のする事だったし、医者のアドバイスもある。当然保険も効く医療行為だ。 たぶんその所為だ。 十六の時日本に来て、寮生活には驚かなかったものの同級生たちと一緒に温かい湯につかる、と言うのがなんだか妙な違和感があった。 それも一糸まとわぬ裸で。お湯と言えば温泉で、温泉と言えば水着だったからそれも無理はない。 それが現在では巷にあふれかえる男女混浴水着着用の温泉の方に違和感を持つのだから、人間変われば変わるものだ。 そんな事をカイルは考えている。視界の端に夏樹の姿を映しながら。 片手を枕に岩に身を寄せ眺めるともなく、雪を眺めているその、姿。 ほんのりと染まりつつある肌の色がやつれた線を隠し、それどころか妙に艶っぽく見えて、困る。 幸いにも湯は白濁していて全身が見えることはない。それを考えた途端に眩暈を覚えた。 「先、出ます」 硫黄の匂いのする煙の中、ちらり、夏樹が振り向いた。 真冬の箱根であっても、温泉につかった後は体が火照るほどに、熱い。 本間の障子を開け放しては廊下越し、すっかり雪の積もってしまった坪庭を眺めれば、なんだか日本の冬を満喫している気分だ。 夏樹はまだ出てこない。 「相変わらずの長湯だな」 と苦笑がもれる。 ライターを鳴らせば仄かなオイルの匂いが漂う。自分の体からする温泉の匂いと相まって、悪くはなかった。 彼の前で煙草は吸わない。なぜ、というわけではない。なんとなく、だ。夏樹が吸わないせいかもしれない。まったく吸わないわけではなく、気分良く酒に酔ったときなどはカイルの煙草に手を伸ばすこともある。 古びた色合いにしつらえたブロンズ色のジッポはもうだいぶ手ずれがしている。 高校を卒業し、そして日本に残って大学に進んだ時、高校で国語を教えてくれた恩師がくれたものだった。 なにも言わずにぽんと肩を叩き、ブレザーのポケットにこれを滑り込ませた。意味などわからずただありがたかった。 後から訊けば先生自身、自分の伯父から貰ったという古いもの。 いくら先生が夏樹の叔父になるとはいえ、いやだからこそなんの相談もしなかった。 あくまでも一教師とただの留学生。自身の親戚だと思った事もない。 それでも先生はわかっていたのかもしれない。 「いや、相談に伺ったこと、あったな」 ふ、とカイルはそんな事を思っては苦笑した。 軽く目を閉じては耽っていた物思いに気を取られ、夏樹は既に次の間の前の廊下に。 慌てて煙草を消そうとすれば、いいとたしなめられた。 「別に子供じゃないんだから、隠れて吸うことないだろ」 湯上りの桜色の頬が、笑う。雪明りが目に反射して、蒼い。 「お嫌じゃ、ありませんか」 「べつに」 言いながらひょいと手が伸びてきた。あっと思う間もなく煙草は彼の指に。 「……甘い。いらない」 一口吸っては、あっけに取られたままのカイルの唇に夏樹は煙草を押し込んで、顔の前で手を振った。 「暑いな」 背を向けながら丹前脱いではごろり、横になる。 独特の甘い香りのする煙草が普段より、ずっと甘い。 夏樹の唇の触れた、煙草。いつもと同じ煙草。 向こうを向いたままの彼の背中にカイルはなんともいえない笑みを投げた。 |