愛してる。 あなただけをずっと見てきた。 これまでもこれからも命ある限り、変わらない。 いや、死んでもなお、あなただけを想い続けるだろう。 愛してる。 あなたは知りもしない。 「カイル」 男の物にしては柔らかすぎる声に呼ばれ彼、コンラート・カイル・フォン・シュヴァルツェンは振り向く。 ドイツ人である。何代か前に日本人の血が入っているという所為か、容貌はそれほど西洋人らしくはない。 すらりとした体に、日本人に立ち混ざっても奇異な印象を受けないダークブラウンの髪。 ただ。金の目をしていた。ドイツどころか西洋と区切ってさえ珍しい色のキャッツアイ。それが厳しい面差しを唯一和ませていた。 あまりにも長い名は普段コンラート・シュヴァルツェンと呼ばせている。カイルとはめったな人間には呼ばせはしない。いや、今のところただ一人にだけしか呼ばせない。 「どうしました、カイザー」 彼がカイザーと呼ぶその人にだけ。 水野夏樹、という。 カイザーと呼びはしても妙な商売ではなく、製薬会社の若き社長である。 彼の父と言うのが心臓外科医としては自称・世界屈指の名医で、事実としては国内で有数と言うところ。それ以上に多才でもあった。若い頃から自分で経営していた製薬会社も息子が大学を卒業してしばらくしてからはさっさと譲り医療に専念してしまった。 おかげで企業全体がこの人を心底主と認めた今でも随分若い社長である事には変わりない。 長い付き合いのカイルが愛称のように呼んでいたカイザーという呼称もすっかり定着し、誰もが彼をカイザーと呼ぶ。 極々親しい人だけが彼の事をかじゅ、と呼ぶ。 本来の名を音で読んだその愛称をためらいもなく使えるのはカイルの知る限り、彼の従兄だけ。 カイザー、そう呼ばれるのにふさわしい人だった。 日本人としてはそれなりの身長もカイルの横に立てばさほど大きくは見えない。 が、その存在感、だろうか。 大きな契約やなにかの時、彼の体は突然大きく見えることがある。若い日本人男性らしく細身の体にみなぎる圧倒的な存在感。迫力と言い換えてもいいもの。若造と侮った取引相手は何度それで痛い目にあったか知れない。 長めの髪は夜と見まごうばかりの漆黒。瞳もまた。 けれどその瞳は時として蒼く見える。ごく親しい人しか知らない色だった。 すらりと伸びた手足も、あまり動く事のない表情もカイザーという響きにふさわしい、そんな人だ。 けれどカイルは知っている。笑うと意外に幼い顔になる、ということを。 カイルを呼ぶ声だけがこんな柔らかい色を帯びる事を。 カイルはそんなこの人の秘書だった。正確には秘書兼執事、というところか。 「香水、変えただろ」 秘書室長であるカイルだけは社長室の中にデスクを持っている。彼の好みから癖まですべてを把握するカイルが側にいないと彼の社長業は成り立たない。 「あなたが変えましたからね」 「別にお前まで変える必要はないだろ」 じろり、睨む。 が悪戯にそうしているのがカイルにはよくわかる。機嫌のいい証拠だった。 「エゴイストなんていうあくの強いものに変えるからですよ。同じブランドの物のほうがなじむんです、香りが」 カイザーのいる所には常に彼がいる。一歩下がり、または彼が前面に出、いつもカイザーの側にいる。 そうしてお互いのつける香りがふと入り混じる瞬間、カイルはなんともいえない嬉しさを感じるのだ。 カイルだけが知る事ではあるけれど。 「ふぅん」 そんなものか、半ば興味を無くしたまま彼はなにに変えた、そう訊いた。 「アンテウスに」 エゴイストの甘く立ち上る香りに一番あうと思ったから。 窓を多く取った社長室の中、午後の光が穏やかに満ちていく。 そんなことを話したのはそろそろ年末の忙しい時期にかかる少し前の事だった。 忙しさにかまけ気づくのが遅くなった。 カイルが気づいた時、彼は疲れ果て、気力を無くし、どうにも成らない所まで追いこまれていた。 それでもカイル以外には誰一人として気づいていない。 自分のプライベートを持ち込まない、それは組織の上に立つ人間として当然のことではあるけれど、カイルにはどうしても彼が無理をしているように思えて仕方ない。 だからこそ配慮できなかった自分というのを責めるのだ。 二人の付き合いは長く、深い。 カイルは十六歳の時日本に来た。 千九百十年、日本から十七歳の少女がドイツ・シュヴァルツェン伯爵の元に嫁いで来た。文豪・篠原忍の叔母にあたるその少女がカイルの曾祖母である。つまり夏樹の曽祖父とカイルの曾祖母が兄妹ということだ。 嫁ぎ先からも年に一度ほどは故国に帰っていたという彼女の影響かカイルは少年の頃から日本に興味を持っていた。留学を望む彼に家族はイギリスを勧めたけれど、ヨーロッパではまだ近すぎる、そう思った彼は曾祖母を思い出す。そして日本の高校に留学をしてきた。 儀礼以上に日本の遠い親戚と付き合う気はなかったのだが、学校は多少の不安もあったものか水野に縁の深い学校を選んだのだった。 紅葉坂学園高等部、だ。 いまだ知り合う事のない三つ年下の後輩に生涯仕えることになるとはさすがのカイルも当時は想像もしていなかった。 夏樹という人を知ったのは彼の祖母の葬儀の席でだった。 遠いとは言え親戚であり日本にいる以上出席するのが礼儀と心得たカイルはそうして十四歳の夏樹を知った。 以来十六年のながきにわたり日本に滞在し続けている。 公私ともども夏樹の側に仕えながら。 カイルは小さくひとつ溜息をつき自宅マンションのリビングから図書室として使っている部屋のドアを開ける。 部屋の中には階段があった。階下につながる階段の周りの壁はこの階も下の階も一面、本で埋まっている。 ただ、微妙に上下で本の傾向が違った。持ち主の差、だった。上の階はカイルの住居であるからもちろんカイルの本。 下の階は、夏樹が住んでいた。 もともとは独立するただの上下の部屋に過ぎなかったものを何年か前、カイルがいちいち外に出てから自分の部屋を訪れるのを不便と見た夏樹が思い切って改造を提案しカイルが了承するなり決行してしまったのだ。 階段に続くドアに普段ならば鍵をかけることもない。 けれどここ半年ほどカイルは自分の方のドアには鍵をかけるようになった。 夏樹の部屋には今、彼の恋人が彼と共に住んでいる。 夏樹ならば勝手に部屋に入られたとしてもいっこうに気にならないけれど、彼が選んだ恋人とはいえ、カイルにとっては立派な他人だ。 他人が好きなときに入ってくることができると思うとぞっとしない。 だいたい自分が好きに出入りしているのにお前はだめだと言えるような人だとも思いがたく、仕方なくカイルは自分の部屋に鍵をかけているのだった。 様子がおかしいならその恋人の少年に任せておけばいいとも思うのだけれど、何かいやな感じがしてつい、手を出す事に決めたのだ。 ためらいがちにドアをノックする。開いているのはわかっていても、ドアの向こうで何をしているかわからない以上それが礼儀というもの。 「カイザー。入りますよ」 返事はない。 ドアの隙間から漏れる光にいる事はわかっているのだけれど。 もう一呼吸をあけ、そっと扉を開く。ソファーの陰、きつい目がカイルを睨んだ。 「……真琴さんは」 ちらりと部屋中に視線を走らせカイルは問うた。 「出て行った」 予想はしていた。 考えに考え抜いて、仕事の上でのフォローは完全だった、そう結論した。ただプライベートは真琴さんがいるから大丈夫、そう思ってなにも手を打っていなかった。 だからもしも彼がいないのならば。 そう仮定すれば夏樹のこれほどまでの消耗も分かるというもの。わかったからといってなんの慰めにもならないことだった。 ソファーの傍らに軽くひざをついては彼を見詰める。 そげてしまった頬に血の気はなく、作り物めいた白さ。酒でも飲んだものか唇だけが、赤い。 「食事、されていませんね」 そらしていた目を一層そらし、食べたくない、誰に言うともなく夏樹は呟く。 「上に来ませんか。正月に、と言って兄が送ってくれたワインのいいのが、ありますよ」 ね? そういって穏やかに微笑むと金の目が揺らめく。 「飲みましょう」 明日は休みですし。再びカイルは笑い、それに促された夏樹はしぶしぶといった風に立ち上がったのだった。 ちょうどよく冷えたワインを二つのグラスに注ぎ分け目顔でどうぞ、と促せば彼は一気にあおった。 それをまた注ぐ。飲み干す。注ぐ。 そこまでされてようやく夏樹は大人気ないと気づいたものか一口含んでうつむいた。 「……おいしい」 ためらうよう唇を引き結ぶ仕種。それから決然と顔を上げ、そう言った。 「いいんですよ。無理しないで」 カイルの口元に、思わず笑みが浮かんだ。 全身で食べたくない、いやだ、ほっとけと主張する彼がまるで幼子のようで、だから余計に放って置けなくなってしまう。ふと浮かんだ考え。こんな子供のような彼を、あの少年は知っていたのだろうか。カイルは浮かぶ側からそんな思いを打ち消していく。考えても詮無いことであったから。 「せっかくなのに、悪い」 そう思ってくださるなら、そう言ってカイルは立ち、程なくなにかを手に戻ってきた。 小鉢に小皿、いずれにせよ中に入っているのはたいした量ではない、ほんの一口ほどのつまみもの。 「あ……」 小さな驚きの、声。 どれもこれもが彼の好物。夏樹に恋人がいるときのほかはいつもカイルが彼の身の回りの事をしていたのだからカイルにとってはこれくらいの事、なんということもない。 篠原忍ではないけれど、夏樹という人は放っておけばそれこそ「埃だらけの部屋で洗濯物に埋もれて餓死しかねない」人なのだ。 徹底した生活無能力者といっていい。その点、本当に篠原によく似ている、カイルはそう思う。彼の名を貰った所為かもしれない。 もっとも真実は多少、違う。カイルがするからこそ夏樹は何もしないのだ。カイルが手を出せない状況にあれば通常の生活程度は営める。そのあたりも篠原とよく似ていた。 「気が向いたら、手を伸ばしてください」 「ん」 この日初めて、いや今年になって初めて、夏樹が笑った。 少し俯いて。動かされた心を恥じるように。口元だけでそっと。 ぽつり、ぽつりと彼が語る。特別、何を話すわけでもないし、まして夏樹は恋人と別れた愚痴だの泣き言だのは決して口にしなかった。 ――こういうところが無理をしすぎる所なんだ。 カイルはそう思いはしたものの口には出さない。本人が一番よくわかっている事だから。 いつの間にかつまみもあらかた片付いている。ワインの空き瓶は、三本。 飲みすぎだな、と苦笑がもれはするけれど明日は休み。二日酔いでもいっこうに問題はない。それよりもむしろ。 グラスに残った最後のワインを夏樹は飲み干しふらり、立ち上がった。 「寝るよ」 答えを待たず背を向けては肩越しに手を振っておやすみ、とカイルに言うわけでもなく呟く。 その背中に声をかけずにはいられなかった。 「眠れないんでしょう?」 はっとしたよう彼の背が震える。けれどそのまま夏樹は立ち尽くすだけ。 いっそ酔いに任せてすべて吐き出して欲しかった。 「他の誰を欺けても私には、わかります」 「ああそうさッ。寝れないよ、全然な。だから、なんだよっ」 背中を向けたまま彼は言う。泣き声まじりと聞こえたのはカイルの錯覚だろうか。 黙ったままカイルは彼の背後に立ち、そっとその肩に手を置いた。 細い。いつの間にこんなにやつれてしまったのだろう。そう思うと後悔がぎりぎりと胃の腑を締め付ける。 「眠れないならここに居ればいいでしょう? 眠りたくないなら、朝までだって付き合います。……下に居るから眠れないんじゃ、ありませんか」 真琴と過ごした月日がこもる、部屋。ましてそのベッドで穏やかな眠りの訪れようはずもない。 「ずっとそうやって付き合ってくれるわけじゃないだろ」 「ずっと、付き合いますよ」 「……迷惑、だろ」 「そう思うなら初めから言いません」 「そうやって、甘やかす……」 「世界広しと雖もあなたを甘やかせるのは私くらいのものですからね」 苦笑いを含んだ溜息が夏樹の唇からふっともれ、彼は振り向く。 「ベッド、借りる」 そうしてこつり、カイルの肩に額を預けた。 |