信仰それ自体を持ちはしないフェリクスではあったけれど、何かと縁が深いことから青薔薇楼にはよく足を運ぶ。彼の仕事であったり、あちらの仕事であったりと。今夜は青薔薇楼からの招きだった。正確には、「双子神の神殿」としての青薔薇楼の。
 館の奥まった一室。客が入ることのないここはいわば神殿の内陣だった。様々な相を見せる一対の双子の像の前、祭壇が設えられている。花々で飾られ、香が漂い。客ではなく、神官でもないフェリクスは壁際に引き下がって儀式を見つめていた。
 今夜一人の神官が誕生する。見習いだった青年が位階を得て助祭へと。神官長のイザベラが香油を注いで彼を祝福するその様もどこか教義に則って艶めかしい。青年はすらりと立ち上がり、イザベラに答えを返している。横顔には誇りと穏やかさ。いい顔になったな、フェリクスは眺めていた。
 ゆっくりと儀式が終わっていく。大勢の神官たちが彼を祝福し、新たに誕生した神官もそれに応える。和やかないい儀式だ、とフェリクスは思う。どちらかと言えば好みだな、とも。マルサド神の叙階式はやはり軍神のそれだけあって猛々しい。嫌いではないがこのような艶めかしさは好みだった。
 ――前歴を思い出すから、ちょっとあれだけどね。
 いまとは建物自体も変わっている。あの劣悪な娼館と、名前と場所が同じであるだけの別物だ。それでも思い出すのが嫌なのか、カロルはここに足を運びたがらない。逆にフェリクスは変化をこそ望んでここにはよく訪れる。
「フェリクス師――」
 位階を得たばかりの青年が晴れやかな顔をしてやってきた。いままでとは違う、双子神の神官としての衣服を身にまとう。もっとも、身にまとっている、と言うのが冗談のような薄物ではあるのだが。
「おめでとうを言いに来たよ、ロイ」
 滑らかな黒髪をした青年だった。双子神の神官らしくと言うべきか青薔薇楼の男娼らしくと言うべきかは迷うけれど、何はともあれ非常に美しい青年でもある。
「ありがとう存じます。ご出席いただけるとは思っていなかったので、望外の喜びです」
 きらきらとした目をしていた。真っ直ぐで、曇りのないよい目だとフェリクスは思う。だからこそ、首をかしげたくもなっている。
「エリィが忙しいみたいだからね。代理、かな?」
「フェリクス師が彼の? お師様を使いにするとは横暴な弟子もいたものですね」
「僕が勝手にしてるだけだよ」
 思わず言い返してしまえばわかっていたのだろうロイが笑う。そして宴の用意が、とフェリクスを誘った。元々そちらに招かれていたフェリクスだった。ついでだから叙階式を見て行け、と言ったのはイザベラ。向こうで仄かに微笑んでいた。何かと手間をかけることが多々ある彼女だ、フェリクスも時間がある限りは無下にもできない。
「いま、彼は……?」
 もう三年か四年前になる。エリナードは彼と交際をしていた。正神官を目指す、と言うロイだから別れることになった、と告げた愛弟子。フェリクスとしてはどことなく不思議でもあったものだった。
「忙しくしてるよ。研究や実験や、他にも色々」
「それなのにまだ名をお許しにはならない? ――失礼、差し出口でしたね」
「かまわないよ。色んな人に会うごとに言われてるし」
 ロイとの別離を選んだころから言われているエリナードだ。あれから時間が経った今ではなおのこと激しく言われてもいる。師弟としては聞き飽きた、というところか。
「どうぞ、こちらを。あぁ、ご懸念なく。宴のお客様用には、抜いてありますから」
 ここは双子神の神殿。出されるものは食べ物だろうが飲み物だろうが漏れなく催淫剤が入っている。さすがに今夜は違うらしかった。
「入ってる人もいるみたいだけどね?」
 ちらりと見れば信者なのか客なのか、あるいは両方なのかと言う男女が散見されている。そちらのとろりとした眼差しをフェリクスはそっと笑う。
「お望みの方には。望まない奉仕は双子神の忌むところですから」
 それにフェリクスはうなずいた。その信仰ゆえに双子神の神殿はここにある。望まない奉仕をさせない、その一点のためだけに。
「ねぇ、ロイ。ちょっと聞きたいことがあったんだけど、いい?」
 誕生したばかりの神官とあっては挨拶回りもしなければならないだろう。だがロイはそうはせずフェリクスの側にぴたりとついている。ふと首をかしげて気がついた。自分のためだったか、と。青薔薇楼を訪れるフェリクスはいつも着飾ってくる。この場で魔術師の長衣などでいれば悪目立ちであったし、くたびれた胴着姿で人に会うわけにもいかない。結果として客と言うよりは男娼に見えかねない容姿、と言うわけだった。
「今夜のお客様はみなさまフェリクス師を遠目にでもご存じの方々ばかりですから、心配はないとは思うのですが、念のため」
 フェリクスにロイは苦笑していた。そんなところも気遣いのできる青年でフェリクスには好ましい。イザベラの命ではないだろう。彼女は無礼者の一人や二人、適当にあしらえないはずのないフェリクスと知っている。たぶんロイは、とフェリクスは思う。エリナードのためにこそ、この自分の傍らにいてくれるのだと。
「それで、ご質問とは?」
 ほんのりとした笑みだった。優しい穏やかな神官の笑み。これも数年前から変わっていない、とフェリクスは思う。まだ若いころからロイを知っている彼だった。
「なんであの子と別れたのかなって。ちょっとそれが疑問だったの」
 まさかそんな問いだったとはロイは思ってもいなかったらしい。目を丸くして驚いていた。その目が悪戯っぽく輝く。思わず身構えたフェリクスを珍しい、とロイが笑った。そして前代未聞とも言える快挙を果たす。
「フェリクス師に勝てる気がしなかったから、でしょうか?」
 言われたフェリクスが愕然としていた。むしろ呆然としていた。顔を顰めることも忘れて立ち尽くすそのさま。星花宮の面々に見せたならば快哉を叫ばれるだろうか、それとも暴挙をなじられるだろうか。ロイは内心で笑う。
「あのね……」
 ようやく呼吸を思い出したようなフェリクスだった。ついでとばかり顔を顰めることも思い出したらしい。酷い渋面を作っていた。
「いくらなんでもね、付き合ってた本人にまでそれを言われると僕もさすがにどうかと思うんだけど?」
「おや? 僕とエリナード以外にそれを言う人が?」
「エリィだって言わないからね?」
 むっとして口許を引き締めたフェリクスにロイは大きく笑っていた。不満げなフェリクスなどあまり見たいものではなかったけれど、どことなくくつろいではいるのだろう、怖くはない。
「では、魔法に勝てる気がしなかったから、に言いなおしましょうか? 僕にとっては同じことなんですが」
「全然違うじゃない!」
「同じです。エリナードにとって魔法とはあなたです、フェリクス師。僕はあなたの背中ばかりを追いかけるエリナードを止めたいと思えなかった。だから別れた。不思議でしょうか?」
 長々しい溜息はフェリクスの物。ロイは微笑んで小柄な魔術師を見ていた。エリナードが語るフェリクスの姿。共に神殿を訪れるときの彼の眼差し。その先にはいつもフェリクスがいた。いまでもまだいるのだと思えばやはり、微笑ましい。
「あの子と同じこと言うんだね、あなたは」
「エリナードと?」
「あの子はあなたが正神官の道を目指すって言ったとき、信仰を止める気にならなかったって言ってたよ」
「なるほど。わかります」
 ロイは双子神の神官として、この先も長く客を取る。誰か一人を伴侶と定めることをせずに。あえて自分一人の物になれ、とは言わないでいてくれたエリナードを思う。
「僕もいずれ双子神がお許しになれば、化身と出逢うことになるでしょう」
 それが神官にとっての伴侶だ、と。双子神の神官が伴侶とすべきは双子神そのものの化身、そういうことなのかもしれない。
「ですがそれはエリナードではない。お互いにこうあるのが心地よい関係なのだと思います、僕たちは」
「いまでも付き合いは続いてるんでしょ?」
「聖娼と客としてですが。僕はそれでいいと思っていますし、エリナードもなのではないでしょうか」
「そこまでお互いにちゃんと理解してて、それでもだめだって言うんだから。我が儘だよね。二人とも」
「我が儘を言いあえても、それだけですから。友人なんですよ、僕たちは」
 伴侶にはなれない、笑顔のロイだった。フェリクスも無茶を言っている自覚はある。自分が何を言おうがこればかりは二人の問題であるとも理解はしている。ふとロイが首をかしげた。
「もしかして僕はフェリクス師のお眼鏡に適っていたのでしょうか?」
「ぎりぎり合格、かな。あの子がとんでもないのを連れてくるよりずっとまし、くらい」
「ではきっとあなたを嘆かせる相手を連れてきます。エリナードはそう言う男ですから」
「だからあなたのほうがまだいいって言ってるんじゃない、もう」
 嘆きのフェリクスをロイは笑う。向こうでちらりとこちらを見やったイザベラの笑顔。フェリクスは気づきもせずに視線を伏せたまま文句を垂れていた。
「――僕は、あなたを追いかけているエリナードが好きなんです。あなたばかりを見て、僕よりあなたのほうにこそ飛んでいくエリナードが」
「だからね、ロイ。僕とエリィはそういう仲じゃないんだよ。それは理解してるよね?」
「なお質が悪いというものでしょう? あなたとエリナードの間にあるのは肉欲を超えた愛だ。僕にはとても太刀打ちできない。むしろ……太刀打ちしたくないんですよ」
 ずっとエリナードの背中を見ていたかった。フェリクスを追いかけて走って行く彼の。自分は自分の道にいて、遠くなっていくエリナードの背中を見ていたい。ロイの言葉にフェリクスは苦く笑う。
「僕はね、ロイ。あの子には真っ当に幸せになって欲しいんだよ。いつまでもお父さんお父さんって僕ばっかり見てるわけにもいかないでしょ」
「エリナードもきっとわかっていますよ。それでもまだ彼の目にはあなたしか映らない」
「言い方が悪いよね、あなた」
「双子神の神官ですから」
 にこりと笑うロイにフェリクスは肩をすくめた。つくづくよい男であるのに、と。エリナードの隣にいてくれればどれほど心強いか、思ってしまうのは師の我が儘か。
「僕はいまでもエリナードを愛していますよ。その思いをけれど、双子神に捧げたいと思えなかったとき、別れを決めました。その上、彼にはあなたがいる」
「だからロイ!」
「なにより大事なフェリクス師、ですよ。いまだにエリナードはこう言います、世界で一番大事な人、と」
「ちょっと……まだそんなこと言ってるの、あの子!?」
「言っていますよ。僕とベッドの中にいても。――なぁ、エリナード?」
 ぎょっとした。ロイが何を言っているのか、フェリクスほどの魔術師が理解できなかった。そして物陰から頭を抱えて現れたエリナードの姿を見るにつけ。
「エリィ? あなた、隠れてたの。どうやって?」
 まずそこか、とロイは内心で笑う。一度天井を仰いだからエリナードも同感だったのだろう。それから師に向かって胸を張る。
「師匠がいるのは遠くから見えてたんで。魔法で隠れると一発で見抜かれますし」
「だよね。どうやってた? いまになればわかる。魔法の気配は確かにしてる。エリィ、さっさと吐いて?」
「俺はタイラント師じゃないんです。脅されて喜ぶような変わった性格はしてませんから! ――単純なことですよ。傭兵隊の連中に気配の消し方を習ったんです。まぁ、俺じゃうまくはできませんけど」
 だからそれと魔法を融合させた、とエリナードは言う。あっさりとした言いぶりの中に見え隠れする誇らしげな笑み。ロイはうつむいて笑いをこらえていた。
「……なるほどね。その融合の構成、ちょっと教えて。僕にはない視点だ」
「いいですよ」
「じゃあ、ロイ。悪いけど連れて帰――」
 言いかけてフェリクスは黙る。エリナードもロイの祝いに来たのだろう。聖娼と客でありながら友人同士でもある二人だ。ためらいをロイが笑う。
「エリナード、どこから聞いてた?」
「お前が師匠に暴露してるところからだ!」
「あぁ、世界で……」
「言うな!?」
 今更慌てなくともいいだろうに。腹を折って笑えば艶やかな黒髪が肩から零れる。それを背にさばいてロイはフェリクスに向き直っていた。
「これで、ご理解いただけたでしょう? どうぞお連れください」
「――わかっちゃうのが忌々しいよね」
「なんの話だよ? つか師匠、なに話してたんですか」
「内緒」
「教えてやるからまた今度おいで。たっぷりもてなしてあげるから」
「……体力のある時にな」
「待っているよ、エリナード」
 微笑むロイを眩しげにエリナードは見ていた。はじめて神官服のロイを見たはずだった。それなのに妙に目に馴染んだその姿。彼は彼として自ら選んだ正しい道にいる、そういうことなのだとエリナードは思う。
「じゃあ悪いけど。埋め合わせはこの子にさせるよ」
 何をさせるつもりだ、喚きつつエリナードはフェリクスと共に去って行く。師の背中を追うように。ロイは笑顔で見送りつつ呟く。
「ほら、やっぱり勝てない」
 小さく笑って、そしてロイは宴へと戻っていく。エリナードのこれからに幸あれ、と心の中で双子神に祈った。




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