なんとなく、苛々とする。何がどうと言うわけではなく、理由もたぶんない。不甲斐ない自分にであったり、わかってくれない周囲に対してであったり。けれどよくよく考えればできることはすべてしているし、それ以上は決してできないと理解している。その一線を越えてしまえば魔術師に待つのは破滅の未来だ。まだまだ未熟と言うもおろかな弟子の身でできることは多くはない。まして周囲に至っては何を理解されたいと言うのか。この上なく慈しんでくれる師がいるというのに。
「ま、二十歳前の魔術師なんてそんなもん、そんなもん」
 少し年上のイメルがそう笑っていた。こんなときだけ兄貴ぶるイメルに苛立つ正当な理由はあるような気がしてエリナードはそっぽを向く。それを気にした様子もなくイメルは笑って自分たちの部屋から出て行った。
「……ごめん」
 悪いとは、思っている。イメルに当たっても仕方ないのだともわかっている。イメルはあのように言うけれど、では三年前の彼はどうだったのか。
「イラついてた記憶がねぇな」
 エリナードは苦笑してしまう。明るく朗らかなイメル。そうありたいだけだろう、きっと。彼が憧れてやまないタイラントに一歩でも近づきたくて。
「ん……?」
 あるいはだからこそ、そんな姿を自分には見せなかったのか、彼は。若すぎる矜持と言わば言え、イメルの声なき声が聞こえた気がしてエリナードは立ち上がる。
 せめて誰かと話でもしよう、そんな気にはなった。特段引きこもって研究ばかりをしているつもりはない。が、このところ苛立ちを人に見せるのを嫌って一人でいることが多かった気はする。
「あー」
 が、間が悪かった。食堂はちょうど食事時。子供たちであふれ返って耳がおかしくなりそうだ。わんわんと鳴り響く子供の歓声。目一杯に勉学に励み、心行くまで体を動かした子供たちは背中と腹がくっつきそうな有様。
「……覚えがあるような、ないような」
 当時の自分をエリナードは振り返る。冗談のようだけれどあまりにも内気すぎて彼らのよう友達と大いに騒ぐ、と言う経験はなかった。
 食堂の隅で子供たち見やり追体験を、などと言う殊勝な気分ではなく、単に食卓に空きがない。エリナードも自分の分を皿に持ってきては腰を下ろしてぼんやりと眺めながら食事をはじめた。
「ガキどもの時間だってわかってるからな」
 年嵩の弟子たちや大人の魔術師たちはあまりいない。これではせっかく出てきたというのに無駄足だ。もっとも、食事を摂取する、と言う意味では無駄にはなっていないが。苛立ちのままに一人で取る食事はあまりうまくはなかった。もそもそと口に運び、これはさっさと研究に戻った方がまだしも建設的か、とエリナードが思いはじめたころ。
「あぁ、いたね。お出かけするよ、エリィ。着替えておいで」
 子供たちが一瞬静まり返ったおかげでその声は食堂中どこにいても聞こえたはず。エリナードは知らず片手で顔を覆う。
「エリィ?」
 にっこり笑う悪魔が入り口で小首をかしげていた。その姿にだろうか、子供たちの中でも比較的年上の子らがきゃっきゃと声を上げる。これは退散するにしくはない。
「……聞こえました。行きますよ。着替えてきますから」
「うん、待ってるね」
「……はい」
 まるで逢い引きのお誘いだった。だから自分はよろしくない噂話をされているのだ、とフェリクスに抗議をしようと思ったことが――実は一度もないエリナードだ。だいたいしても無駄であったし、根本的な問題として、当事者はすべてただの噂話だ、と理解している。万が一にも実現することはない、ただの冗談に過ぎないと。おかげで噂話は広がる一方なのだが、フェリクスもエリナードも気に留めたことがない。タイラントも笑っているからそれでいいのだろう、きっと。一人イメルだけがこっそりひやひやしているとはさすがにエリナードも知らない。
「さて、と」
 自室に戻って着替えを選ぶ。先ほどの師の姿を見ればそれなりに改まった場所に出向くのだろう。星花宮の魔導師としての長衣姿でこそなかったけれど貴族の少年のお忍び姿、と言われれば信じる程度の衣装は着ていた。
 そしてエリナードは師に合わせた衣服を手に取りつつ思わず吹き出す。氷帝と異名されるフェリクス。四魔導師の一角として威名を轟かせる彼だったけれど、いまの自分と比べても下手をすれば師のほうが年下に見えかねない。
「師匠、童顔だからな」
 おそらく肉体年齢としては二十代半ばで止まっているのだろうとは思う。が、幼げな顔立ちと、闇エルフの血のせいもあってかフェリクスは殊更年若く見える。そんなことを考えつつ手早く身支度を整えた。
「早かったね。ちゃんとわかった?」
 フェリクスは中庭の四阿で待っていた。ここはシャルマークの四英雄の名も高いアレクサンダー王の幽霊が出る、ともっぱらの噂だ。
「なにがです?」
「待ちあわせ。言うの忘れてたな、と思って」
「まぁ、だいたい。なんとなく感覚はできましたから」
「そっか。さすがだね、可愛いエリィ」
 にこりと笑ってフェリクスは立ちあがる。エリナードは無言で肩をすくめて師の後についた。内心では喜びが隠せない。他愛ない褒め言葉ではあった。が、フェリクスの本心を疑わない。それにほんの少し、苛立つ自分もいるのだけれど。

 エリナードは意外だった。いままでこのような師の姿を見せてもらった経験がない。フェリクスは大小の貴族の元を訪れては雑談をする。ただ、それだけと言えばそれだけ。エリナードはいわば従者役、というところか。部屋の隅に控えて師と相手の話を黙って聞いていた。
 疲れるだろうな、と思う。貴族は魔術師に対するあからさまな思いを隠せないものもいたし、闇エルフの血に惹かれているとありありとわかるものもいた。星花宮の魔導師として、フェリクスは素顔を隠していない。不愉快だろうとエリナードは思う。否、自分こそが不快だった。
 それでも何人かは魔術師に好意的であったし、フェリクスもくつろいでいるようにも見えた。エリナードは思う。これがいまのラクルーサか、と。その中でやはり、不思議ではあった。
「お疲れ様、エリィ。大変だったでしょ?」
 午後からまわってあちらこちらと行けばもうすっかり陽も落ちた。フェリクスこそ疲れているのだろう。ん、と伸びをする師に目を向ければ小さく笑っている。
「俺は、別に。師匠こそ」
「まぁ、僕の場合は仕事だからね」
 仕方ない、とフェリクスは肩をすくめた。魔術師が魔法だけを志し、魔道だけに邁進していられたならばどれほど幸福だろう。こんな師の姿を見るとエリナードは思わずにはいられない。
「エリィ?」
「いや、ちょっと不思議だったんです」
「なにが?」
「……なんで、俺に見せたのかなって」
 いまだかつて貴族との会談の場に連れ出されたことはなかった。むしろ断固として政治向きの話題は避けろ、かかわるな、と言い続けている師でもある。
「そう、だね。なんて言ったらいいのかな」
 ことり、とフェリクスが首をかしげていた。疲れているだろうに星花宮に戻ろうとは彼は言わない。もう少し歩きたい気分なのかもしれなかった。
「色々見せる時期かな、と思ったんだよ」
「俺にですか。どの弟子にもなんですか」
「畳みかけないの、可愛いエリィ。苛々してるのは知ってるけどね。――そうだね、あなたには、かな。正確に言うなら、あなたには僕が知る限りのことを見せておきたいな、と思ってはいるよ」
 なぜ、とエリナードは問わない。そんな多大な期待を寄せられているのか、とは恥ずかしくて問えない。勘づいたのだろうフェリクスがほんのりと口許だけで微笑んだ。
「ただね、可愛いエリィ。まだ見るだけでいいんだよ。見て、知るだけでいい。わかる? あなたにかかわらせる気は僕はない。毛頭ない。なんでかわかる?」
「俺がまだ未熟な弟子で、若いから」
 ぽこん、と頭を叩かれた。あっと目を丸くするエリナードの隣を歩くフェリクス。わざわざ伸び上ってまでした師を思う。かすかにエリナードの耳が赤らんだ。
「あなたが可愛いから、だよ。可愛いあなたには僕が知る全部を見せておきたい。でも可愛いからこそ、かかわらせたくはない。でもね、十年後、二十年後。ここで僕が見せておかなかったらあなたは突然見たこともないことに直面することになる。それは困るでしょ。だから、見せようかなって思った」
 それでも見るだけだ、フェリクスは繰り返す。断じて政治にはかかわるな、と。エリナードは言葉もなくただ隣を歩いていた。
「あなたが苛々してるの、わかってるよって言ったよね?」
 ほんの少し前のことだった。苛立つ身を抑えかねて深夜に独り入浴をしていたらあろうことかフェリクスに乱入されたのは。エリナードは無言のままうなずく。
「そういう時期なんだろうし、それはそれでいいと思うよ、僕は」
「師匠は」
「僕はあなたの年頃にはどうだったかな。もっと鬱屈してたと思うよ? 生まれ育ちがあれだしね」
 少年と言うよりは幼児のころから我が肉を食らって生き抜いてきたフェリクス。エリナードは言葉もない。意味もなく苛立てるのは幸福だ、と言われているような気がした。
「幸福なのの、どこが悪いの、可愛いエリィ?」
「……師匠」
「嫌だった?」
 漏れ出た心の声に返答をされ、エリナードは肩をすくめる。フェリクスに限ってはこちらの許しなく精神に接触してきたとしてもまったく不快に思わないエリナードだ。返事をされてしまうくらいたいしたことではない。少々ばつが悪い程度のこと。
「僕は僕が歩いてきた道を繰り返してほしくないから、ここに立ってる。あとに続く子供たちの道が少しでも平坦であればいいなって。だからあなたが幸福であるなら、僕のしていることは正しいってことだよ、可愛いエリィ」
 ぽん、と背中に添えられた師の手。成人男性としては小さな手。けれどエリナードにとってはこれ以上なく大きな手。ふっと横を見やったエリナードは思わず嫌な顔をしていた。
「なにさ?」
「早いにもほどがあるでしょう!? なんでそんなに――」
 すごいのだ、言いかけてエリナードは言葉を飲み込む。少しばかりしんみりとしたのがあっという間に飛んで行った。呼吸と呼吸の隙間ほどの刹那。魔法の気配がした、と思ったらフェリクスは幻影をまとっていた。普段の彼が王都を歩く時の人間風の姿へと。
「ちんたらやってても仕方ないじゃない?」
 それだけだ、とフェリクスは笑う。口許がつり上がっているからこれは発破をかけられているのかもしれない。精進しろ、鍛錬しろと。奮い立つエリナードにフェリクスは微笑んでいた。
「最近は研究、どうなのさ?」
 フェリクスの問いにエリナードは苦笑する。知らないはずはないだろうに。それでももしかしたら、と思う。ただ話が聞きたいだけ、会話をしたいだけなのかもしれないと。
「まぁ、なんとか、ですかね。あんまりうまくいかないことが多くって」
 自分が苛立っているせいだろうとエリナードは思う。他愛ないことで失敗することも多々あったし、そのせいでよけいに苛立ちもしている。
「なるほどね」
 一人フェリクスはうなずく。どことなくそれにも苛立てば、悟ったのだろう師が小さく笑う。そしてエリナードを見上げた。
「大きくなったよね、可愛いエリィ。もう少し背も伸びそうかな?」
 ひょい、と伸びてきた手がエリナードの髪に触れた。街灯に輝く鮮やかな金髪を梳くようにして撫で、離れて行く。呆気にとられエリナードはされるまま。
「ちょっと、師匠!?」
「いいじゃない、別に」
「よくないです、こんな人目のあるとこで。だいたい鬱陶――あ。いや、なんでもないです。すみません」
 心のままに言葉が口をついてしまった。青くなるエリナードの手、フェリクスは笑いながら取っていた。人目があると言われたにもかかわらず、気にした様子もなくフェリクスは王都の大通りを手を繋いで歩きだす。エリナードはそれに気づく余裕がなかった。
「いいんじゃない?」
「よく、ないです。こんな暴言。本当に――」
「あのね、エリィ」
 きゅっと手を握ればようやく気づいたのだろうエリナード。フェリクスの手の中で彼の手がもぞもぞと動いた。
「あなたはね、ちょうどそう言う時期なんだと思うよ。心と体と、他人と世界と。そう言うものがいっぺんに押し寄せてきた、そんな時期」
「だからと言って、師匠に」
「僕だから、いいんだよ。可愛いエリィ。あなたは僕を信じてくれてる。だからあんな言葉が出てくる。そうだよね? 自分でびっくりしちゃったみたいだけどさ。でもそういうことじゃないかなって僕は思うよ」
 くすりと照れくさそうにフェリクスは笑った。エリナードも何を言っていいかわからない。が、そのとおりだとは思った。フェリクスを信頼している。誰よりも、何よりも。彼は自分が何を言ったとしても受け止めてくれる。意識せず、そう感じていたのかもしれない。
「大人になるちょっと前って、そんな感じみたいだしね。貴族の子供なんか見てるともっとすごいよ? あなたなんて可愛いものだって」
「……子供だから、じゃないですか。俺はそこまで子供じゃないです。分別がついてて、当たり前なのに」
 唇を噛むエリナードにフェリクスの眼差しは優しい。星花宮の子供たちですらさほど見たためしがないほど柔らかなフェリクスの眼差し。エリナードは気づかずうつむきがちのままだった。
「可愛いエリィ。あなたは七つで星花宮に来たんだったよね。七つで、僕の息子のエリナードとして生まれた。――だったら、いまのあなたは十歳ちょっとじゃない。可愛いものだよ」
 ぽんぽん、と背を叩かれた、と思ったらまた手を繋ぎ直されてしまった。エリナードは黙ってそっぽを向く。
 自分の息子のエリナードとして生まれた、そう言ってもらえたことがどうしてだろう。こんなにも、言葉がないほど嬉しくて。その心すら、フェリクスは感じ取っているのだと思えばどうしようもないほど安堵して。くつくつと笑い続ける師の響き。繋がれた手の温かさ。
「愛してるよ、可愛い僕のエリィ」
 この男はほんのりとした思いに浸らせてくれる気はないのだろうか。溜息まじりフェリクスを見やればにやにや笑いの悪魔がそこに。それでも目だけは和やかなまま。
「そういうことはタイラント師に仰ってください。俺じゃなくって」
「それとこれとは違うでしょ」
 あっさりといなされてエリナードは再び溜息をつく。すれ違った人がそんな彼を笑っていた。改めてどう見ても逢い引きだ、と言うことに思い至ったけれど、もう諦めた方が早いような気がしてきた。
「そうそう。諦めの早い子って好きだよ」
「師匠の弟子はこのくらいできないと務まらないような気がしてきました」
「どう言う意味さ、それ」
 ふん、と鼻を鳴らしてもいまだ離してくれそうにない手。もっともエリナードも嫌ではなかった。星花宮の関係者に見られたら面倒だな、とちらりと思っただけ。なぜとなく、フェリクスの手を握り返してしまう。
「ものすっごく誤解を招きそうな発言なんですけどね」
 溜息まじりに呟くエリナードをフェリクスは笑って見ていた。誤解を招くかもと言いつつも彼はフェリクスが誤解する、とは微塵も思っていないらしい。それが伝わってくるぶん、くすぐったくてならない。
「俺は師匠に愛されてるじゃないですか」
「なにを今更? みんなも言うでしょ」
「そうじゃなくて。――他人が言うのは、なんて言うか……贔屓だとか、ちょっとずるいぞ、だとか。そういうことじゃないですか。そうじゃなくて」
 ぼそぼそと言うエリナードだった。うまく、伝わるだろうか。言葉の表面だけを取ればとんでもないことを自分は言う。それでも彼は信じた。
「俺はタイラント師とは違う形で、でも同じくらい、師匠に愛されてる。そう、思うんですよ」
「違うよ、可愛いエリィ」
「……なにがですか」
「タイラントより、かな?」
 くすりと笑ったフェリクスだった。戯言だ、とエリナードは一蹴する。タイラント以上などあるはずがない。こればかりは師の言など信じられなかった。
「だってね、あなたにならわかると思うんだけど。タイラントは僕だよ。僕がタイラントであるようにね。だから自分以外の誰かを愛おしく思うって言う意味なら、僕の一番はあなただよ、可愛い僕のエリィ」
 握られた手。冗談のよう繋がれたままの手。他人が見ればこれは紛れもなく浮気を疑われる情景。タイラントだけは、きっと笑ってくれる。エリナードは無言で肩をすくめた。照れくさくて。
「今日はいい日、かな」
「なにがです。疲れたでしょうに」
「疲れたけど。でもあなたの気持ちを確かめられたからね。僕に愛されてる自覚があるって知るのはやっぱり嬉しいよ」
「だから、そういうことはタイラント師に言ってください!」
「言ってるじゃない。タイラントは僕でもあるんだって。僕は鏡に向かって愛を語るほど自分が好きではないよ?」
「息子に愛を語るのも歪んでると思いますけど?」
「そういうこと言う?」
 冷ややかで、けれど温かなフェリクスの眼差し。くつくつと笑いエリナードはふと自分から手を繋ぎ直した。気恥ずかしい。けれどいまのフェリクスはそれを望んでいるような気がして。
「あ――」
 不意に魔法の気配がした。フェリクスのそれならば見慣れ、感じ慣れている。だがこれは違う。一瞬にして緊張状態に入ったエリナードにフェリクスは内心で微笑む。すぐさま害意はない、と気づいたのだろうエリナードにも。
「これ、師匠?」
 原因は、繋いだその手。フェリクスの左手の薬指に仄かな魔法の気配。エリナードが知覚したのを確かめたのだろう、フェリクスが改めて魔法を発動させた。それでもこれは師の魔法ではない、はっきりと彼にはわかる。
「これって……」
 繋いだ手を一度離し、フェリクスは手を見せてくれた。まるで指輪だった。否、指輪、なのだろうとエリナードは思う。それも誓約の指輪だ。ならば対の物が。
「そう、タイラントにもあるよ」
 はっきりとフェリクスがうなずいていた。眼差しが自分を向いていないのは照れているせいだろう、そう思えば笑いが浮かんでしまうエリナードだった。
「笑わないの」
「だって。おかしいじゃないですか。笑いますって。だいたい、隠すことないでしょうに。――隠してたんですよね?」
 十年以上共にいて気づかなかったのか、それとも最近のことなのか。問いが浮かぶと同時にフェリクスは昔からだよ、と小さく呟く。ならばやはり隠していたのだろう、彼は。
「僕はカロルと違うからね。誓約の指輪なんて恥ずかしいものを喧伝して歩きたくないんだよ」
 肩をすくめたフェリクスにエリナードは思わなくもない。これを明らかにしていれば悶着が少しは減るのではないだろうかと。いまだにタイラントの名声にだけ用があり、愛はないのだと陰口を叩く輩はいる。
「間違ってるよ、可愛いエリィ。そう言う輩はね、誓約の指輪があったとしても、そんなものは偽装だって言うの」
 まったくもってそのとおりだった。エリナードもうっかりうなずいてしまう。それでも隠されていたことには少し、傷つかないでもなかった。
「ちょっと照れくさいだけだよ。あなたには話してもよかったんだけどね」
「……はい?」
「これ、知ってるのはカロルとリオンくらいだよ?」
 もちろんタイラントを除けば、そして誓いに立ちあってくれた司祭を除けば、フェリクスは言う。呆気にとられてエリナードは言葉もなかった。
「普段は隠してるし。と言うか、さすが僕の息子かな。魔力の親和性が高いにもほどがあるね、僕とあなたは」
「どう言う意味です?」
「そのままだよ。これは――僕とタイラントの魔力に反応するようになってるんだよ。イザベラにそう組んでもらったんだ」
 なるほど、とエリナードは内心でうなずく。二人の誓いに立ち会った司祭、というのは青薔薇楼のイザベラだったのかと。双子神の神官でもある彼女だった。
「なのに、あなたに反応した」
「え?」
「僕が何かしたわけじゃないよ。あなたの魔力に感応したんだ。まぁ、僕の制御がちょっと緩んでたのはあるけどね」
 ぼそりと付け加えたフェリクスにエリナードは気づく。疲れているのだと。当然だった。元々政治向きの話がフェリクスは好きではないと公言している。それでもせねばならない仕事の一環として、一日かけて貴族と会談を持ってまわった。
「ちょっと待っててください」
 ちょうど具合のいいものを見つけ、エリナードは一目散に走って行く。その後ろ姿にフェリクスは目を細めていた。
「はい、師匠」
 息を切らして駆け戻ったエリナードは目をそらしながらフェリクスに屋台で買ってきたものを突き出す。王都もここまで下ると屋台が出ている。いつの間にか散歩気分で歩いているうちに庶民の区画にまで来てしまっていたらしい。
「エリィったら」
 くつくつと笑いながらフェリクスは受け取る。薄焼きパンにこんがり焼いた腸詰を挟んだ軽食。みじん切りの酢漬け玉葱がたっぷりとかかっていた。
「……腹減ってると、取れる疲れも取れないですし。俺もちょっと腹減ってたし!」
「うん、ありがと。お小遣いで買ってくれたの? ほんと、あなたは可愛いね」
「小遣いはやめてください! 俺だってちゃんと俸給を頂戴してるんです!」
 弟子とはいえエリナードは星花宮に正式参入した魔術師として王宮からそれなりのものを頂戴している。研究資材用の貴金属や宝石を躊躇なく買える程度には。
「僕らに比べたらお小遣いじゃない」
「四魔導師と比べないでください!」
「さっさと追い抜くくらいもらうんだって言いなよ」
「……言えませんよ、まだ」
「ふうん、まだ、ね。まだ。――あ、おいしい。これ、おいしいね。エリィ」
「もう、師匠は。あ、ほんとだ。けっこういける」
「なんだ、あなたの知ってる店じゃなかったの?」
「遊び歩いてるわけじゃありませんから。そんなに知りませんよ」
 言ってからぬかったな、とは思った。もっと出歩け、世間を見ろ、言われるのだろうと。だがフェリクスは予想に反して何も言わなかった。わかっているのならばそれでいい、そういうことなのかもしれない。
 いつの間にかまた手を繋がれてしまってエリナードはけれどそのまま。しばらく黙って食べながら歩いた。
「買い食いって言うの? こう言うのも楽しいね」
「俺に色々言うくせに師匠だってこう言うの、縁がないじゃないですか」
「忙しいからね。大人になると忙しいよ、可愛いエリィ。だからいまのうちにいろんなことをしなよって言うの。遊ぶのも、悩むのもね」
 握られた手にエリナードはどこを見ていいかわからなくなる。理解はできていないかもしれない、それでも覚えておく、そんな気持ちで師の手を握り返していた。いつの間にか消してしまったのだろうフェリクスの誓約の指輪。それがある彼の手だった。不意に、偶然ではあったのだろうけれど見せてくれたのだ、そんな気がする。
「まぁね、息子に内緒って言うのもどうかと思うじゃない?」
「だから師匠。口に出してもいない独り言に返答するのはどうかと思うんですけど!」
「あなたが嫌がらないからね。嫌だったら嫌って言いな」
「まぁ……別に」
 ぷい、とそっぽを向くエリナードにフェリクスは微笑む。本当に嫌なことはしないと信じてくれている。その思いが身を浸す。疲れなどそれで吹き飛ぶようだった。
「いつかは話そうと思ってたよ、ほんとだからね。可愛いエリィ」
「それは――」
「あなただから、かな。あなたのためにならないから話したくない汚れ仕事、なんて言うのはあるよ、実際ね。でも隠し事はしたくないかな、あなたには」
 いずれ自分の後を承けてくれるだろうから。おそらくは聞かせたのだろうフェリクスの内心の声。エリナードは無言で受け取る。フェリクスの後継者、と呼ばれるまでに到達できるのかは、わからない。それでも師の偉業の一端でも、受け継ぎたい。その思いに奮い立つ。
 だからこそ、振り返る。先ほどの師の言葉。いまはそう言う時期。ならば自らの内を見直し、それを受け入れたり立ち向かったりすることも必要な時期、と言うことかと。そこまで思い至ってはたと気づいた。
「……平衡感覚」
 呟くエリナードにフェリクスは答えない。自力で気づいたか、とくすぐったいような思いでいた。
「いろんなことを経験して、味わって。それで平衡を知る、か」
 幼いころに言われていたことが理解できた気がした。握られたままの手が熱くなる。ふと見やれば口許で微笑んだフェリクス。
「なんかすっごく嬉しそうなんですけど、師匠」
「そりゃそうだよ。可愛いエリィがまたちょっと大人になったなと思って」
「そうやって子供扱いして!」
「息子を子供扱いしてなにが悪いのさ」
 きゅっとつり上がったフェリクスの唇。猫のように笑う目。「人間の皮を被った」師があまり好きではないエリナードだったけれど、いまの表情は紛れもなくフェリクスの素の顔。人間も闇エルフの子もない、彼自身の表情。
「……こんなもんに和む俺は間違ってる!」
「どう言う意味さ、それ?」
「別に何でもないです!」
 むきになって言い張るエリナードをフェリクスは大らかに笑っていた。こうしてほっとくつろいでいる師を見るのがエリナードは好きだった。思わず緩んだ頬をまた師が笑う。
「さ、そろそろ帰ろうか。まだ帰りたくないけどね。仕事は待っててくれないし」
「って、師匠!?」
「なにさ?」
 手を離した、と思ったら腕を組まれていた。完全に言い訳の利かない体勢のような気がして仕方ない。フェリクスが気にしていない――上に実のところエリナードも嫌ではない――のだから言い訳をする必要もないのだが。
「なんでこう言うことを俺にするんですかね。タイラント師にすればいいじゃないですか」
 星花宮でフェリクスとタイラントが腕を組んで歩いているところなど見た覚えがない。他でしているのか、と思えどもとても想像できない。嘆かわしげに首を振るエリナードをフェリクスが笑う。
「それとこれとは違うじゃない?」
「違わねぇよ!?」
 悲鳴のようなエリナードの抗議。あげてしまってからエリナードは思う。星花宮に戻ればタイラントがいると。フェリクスはわずかな時間でもタイラントと共にあり、悲鳴をあげさせるのだろうと。
「ちょっとエリィ? それはないんじゃない?」
「事実じゃないですか」
「それとこれとは――」
「違いませんよ!」
 断言しつつ笑うエリナードにフェリクスは肩をすくめる。断固として離す様子のない腕にエリナードもまた肩をすくめる。どうにでもなれ、そんな気分で二人星花宮への道をたどる。他愛ないことを喋りながら、帰り道を惜しむように。気づけば苛立ちがほんの少し静まっている、そんな気がしてエリナードは小さく笑った。




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