アリルカを訪れていたカレンの弟子が去った後のことだった。こっそりと彼女はその師に相談に来たらしい。
「たぶん、あれが私の後継者じゃないかと」
「そりゃ確実にってことだろ?」
 茶化したエリナードにカレンは渋い顔。が、己が師も自分を育てている間、似たような思いを抱いたのだとカレンは気づいてしまう。おかげで言葉の矛先が、鈍る。
「黙んじゃねぇよ、気持ち悪ぃな!」
「うっせぇぞ、このクソ親父め!?」
「どっかでよく聞く台詞だよねー」
 同席していたイメルにまで笑われては形勢悪しとカレンは諸手を上げる。それを二人して笑っているのだから始末に悪い。ニトロとエリナードの奇妙な縁が発覚し、それでもただそれだけのこと、と笑う彼にニトロは気持ちを新たにしたらしい。カレンもまた、弟子の姿に隠れて身を引き締めていた様子。
 そんな風に過ぎて行った師弟の時間。そこには当然ファネルもいた。同席を拒むようなカレンではなかったから。魔術師ではないのだから、と自分は口を挟まない、そんなファネルがカレンは好きだ。ライソンも懐かしいけれどファネルも大好きだ、とカレンは彼女にしては率直にそう言ったものだった。
「眩しいような、そんな気がするものだな……」
 台風のような師弟が去ったあと、ファネルはようやく落ち着きを取り戻した日常にそっとそんなことを呟く。二人の小屋だった。かつてフェリクスが暮らしていた樹上の小屋は設えを変えてはいないのに、それでもエリナードの匂いがする、そんなことを思ってはファネルは内心で身をよじる。
「なにが?」
 きょとんとしたエリナードだった。カレンの前では見せないけれど、多少の疲れは出ていたのだろう。少々普段よりは足が痛むらしい。少し強めの軟膏を用意していたファネルだった。
「いや、カレンだ。あぁも率直だと、眩しいような、くすぐったいような。人の子の明るさを見る思いでもある」
「そんないいもんかねぇ、あれが? がさつなだめ娘だぜ?」
「そう言うな、可愛い娘だろうに」
 言えば寝台の上で顔を顰めるエリナード。そっぽを向けばファネルにからかわれる、と知っている彼はそのまま肩でもすくめてやり過ごしていた。
「おとなしくしていろよ」
 言いつつファネルが長衣の裾をまくっては手当てをはじめる。とっくに脚衣は取られてしまっていて、エリナードはされるままだった。
「動けねぇっつの」
 そんな悪態もファネル相手だから。以前はこのようなこと、誰が相手であったとしても決して言えなかった。いまは冗談になる。それだけ信頼が通っているのだ、と思えばエリナードこそくすぐったい。
「そう言えば――」
 後継者に、と思っていると言っていたカレンの弟子。彼女はいずれそのときが来たら弟子に教えてやるつもりだ、と笑っていた。
「名前、というのは秘すものなのか、お前たちでも?」
 カレンは弟子に名付けの本当の意味を教えていない、と言っていた。それはそれは人の悪い顔で、思わず彼女の師の顔をファネルは見てしまったほど。実によく似た顔をしていた。
「いや、そうでもないな。別に呼び名は隠すようなもんじゃねぇし。あれはカレンの性格が悪いだけだろうよ」
 くっくと喉の奥で笑えば足に衝撃が走ったのだろう、わずかに竦んだエリナードの体をファネルは黙って支える。それに小さく笑って礼に代える彼だった。
「俺らにも真の名はあるしな。――つか、弟子になるときに改めてつけるからよ」
「そう、なのか? ならばカレンの名はお前が?」
「いや。あいつは元々ミスティの弟子だったからな。俺は弟子にとったときに教えてもらっただけだ」
 名を付ける、明かす。それは魔術師にとって相手に命を預けるに等しい。あるいはなお重い。神人の子であるファネルには真の意味では理解できなかったけれど、感覚的にはよくわかる。
「なにか、いいものだな」
「そうか?」
「あぁ、私の本当の名は、人間には呼んでもらえない名でもあるからな」
「神聖言語?」
 わずかに目を見開いたエリナードだった。苦笑しつつファネルはうなずく。そして自らの知ることを話してやる。
「我々は生まれたときにすでに言葉が話せる。無論、お前たちが言う神聖言語だがな。しばらくはそれで過ごすんだが」
「しばらくって、要は人間の通常言語を覚えるまでってことか?」
「そういうことだな。名も、はじめから知っている……と言うと語弊があるんだが……自分の名はこのようなものだ、と認識しているものだな、我々は」
 誰がつけるものでもない、とファネルは言った。それから少し、面白そうな顔をする。人間に名付けられるとは興味深いものだと。
「知らない、違う名で呼ばれはじめるのだから、最初は戸惑うぞ? それはなんのことだろう、誰のことだろう。あぁ、自分のことか、とな」
「おふくろさんに呼ばれるんだろ?」
「私は母親との縁も薄いからな。ほとんど覚えてはいないがな」
 肩をすくめたファネルは立ち上がる。手当ては終わり、手が軟膏だらけだ。その腕をエリナードが黙って取っていた。
「そんな顔をするな。私にも親しい人はいたし、記憶が曖昧ではあるのだが、懐かしい人間、と言うのもいないこともない」
「曖昧? あんたが?」
「珍しいだろう?」
 だからファネルにもわからないのだ、とエリナードは知る。理由があるのか、それとも曖昧になるほど昔のことなのか。それでもファネルにとっては懐かしい思い出、ではあるらしい。その表情に読み取ってはその手を離した。
「……俺の真の名は、まぁ……当然、師匠がつけたわけなんだがよ」
 だろうな、と笑いながらファネルは手を洗いに行く。背中で聞きつつ、少し嬉しい。なにがどうとは言いにくい。ただフェリクスの幸福だった時間が慕わしいのかもしれない。
「そういや、知ってるやつ、いねぇなぁ、と思ってさ」
 どう言う意味だ、とファネルは振り返る。手振りで茶を飲むか、と示せばエリナードが藍色の目で笑っていた。過去を見る目をしている、そんな気がしてファネルは悟る。
「もしかして……聞いてはならないことだとは、思うが。ライソンも、なのか?」
 伴侶であったはずなのに。確かに彼らは魂を分けあった伴侶と言うわけではなかっただろう。それでも誰もが羨む睦まじい仲だった。
「ライソンに断られたんだ」
 あっさりと言ってのけたエリナードに絶句する。そんなファネルに彼は早く茶が欲しい、と笑っていた。
「ま、理由はあるんだがな」
 受け取った茶を一口。気にしないのならば話してやる、と言ったエリナードにファネルはもちろん、とうなずいていた。

 エリナードがイーサウに居を移してしばらく経った頃だったか。すでにカレンはいたかどうか、そんな頃。
「あぁ、そうだな。あいつを弟子に取るって決めたころだわ。カレンの真の名を知って、そんでって話だった」
 茶を飲みつつエリナードは過去を語る。ほんの少し、照れくさくはある。なにしろ昔の伴侶の話をいまの伴侶にしているのだから。もっとも聞きたがるのはファネルの方、というのが中々に困ったところであり、ありがたいことでもあり。
 まだまだほんの少女だったカレンをさっさと寝かし、エリナードはライソンと酒を飲んでいた。明るいうちには互いに忙しくて言葉を交わすこともままならない。まだ魔法学院は設立前だったけれど、それが本格的になりつつある、そんな時代だ。
「なぁ、ライソン」
 彼が好む強い酒を注いでやった。それに指を閃かせ、氷を落としてやる。これがライソンの好みだった。貴族のたしなむ贅沢のようだ、と。
「お、ありがと。冷たい酒ってのもうまいもんだよな」
 からん、と硝子の酒杯の中で立てる音まで贅沢だとライソンは楽しそう。それを見ているエリナードも嬉しくなるほど、ライソンはこんな単純なことを喜ぶ。魔法であるからこそ。エリナードの魔法だからこそ。
「で、なによ、エリンさん。すっげぇ真面目な顔してるけど。そんな顔してるとけっこう怖いぜ?」
「なにがだよ? 口の悪さを罵られたことはあっても人相貶されたこたぁねぇぞコラ」
「違ぇっての。なんか急にマジんなられると別れたい、とか言われんじゃねぇかってひやひやだぜ」
「……お前、馬鹿だろ」
「って酷くねぇか!?」
「こっちがどんな苦労してここまでたどり着いたと思ってる。誰が解放してやるかっての」
 ふふん、と笑ってライソンの額を小突く。イメルの失策ではあったけれど、結果としてエリナードは幸福に過ごしている。側にライソンがいて、後継者になるだろう弟子までいて。傍らに師がいないことだけが、少し寂しい。が、望みすぎは身を亡ぼすもと、と自戒する。
「解放されたいなんて思ってねぇしなぁ」
「だろ?」
「で、その自信家なエリンさんがなんでそんな顔してるよ?」
 ひょい、と伸びてきた指が今度はエリナードの額をつつく。眉間に皺でも寄っていたらしい。そんな気はなかったエリナードは驚いて笑う。
「ちょっとマジな話でもしようかと思っただけだぜ?」
「それが怖いんだっつの。まぁ、いいけどさ。で、なんだよ?」
 エリナードの酒杯に酒を注いでやれば気持ちよく飲んでいく。かつて師弟が酒を飲む場面に出くわしたことがあるライソンだった。フェリクスは闇エルフの子だからして酒に酔いにくい、とエリナードは言っていた。つまり、それに匹敵するだけエリナードは強い。空恐ろしいような気がしてライソンは笑う。いまも強い酒を水のように飲んでいる彼だった。
「カレン、弟子にしただろうが」
「おうよ、ようやく覚悟を決めたってやつだよな。やっと氷帝にいい報告できんだろうが」
「うっせぇよ。――で、カレンの真の名を聞いてな」
「聞いた? ふうん、そういうもんなんだ」
 違う、とエリナードは込み入った事情をライソンに話してやる。元々カレンはミスティの弟子だったのだから、と。それに納得したのかどうか、ライソンが首をかしげていた。
「でな、俺はお前に名前、教えてねぇなぁ。と思ってよ」
 ふい、とそっぽを向いたエリナードだった。愕然とする、とはこのことだ、とライソンはいやに冷静に思う。それだけ動揺していた。
「だから――」
「ちょい待ち、エリン!」
「って、なんだよ?」
 不満そうな表情にライソンは自失から立ち直る。エリナードがいま、何を考えているか。やっとわかった。
「エリン、あんた。俺に教えてくれる気か?」
 まじまじと見つめられてしまった。挙句に溜息までつかれてしまった。ライソンはわずかに怯む。が、退かなかった。
「悪いかよ?」
 それをよしとするような精悍な藍色の目。にやりと笑ってライソンを見つめる。その奥底にほんのかすかな懸念と不安。ライソンだからこそ、見ることを許されたもの。だからライソンは言う。
「悪い」
「おい!」
「あのな、エリン。俺は何もんだよ? ただの傭兵だぞ」
「知ってるよ」
「だったら危険も知ってるよな? あんた、敵はいないって断言できるか? あんたに敵対する魔術師はって言うべきか」
「……いるだろうよ、ごろごろと。掃いて捨てるほどな」
 吐き出すのは何を思うせいか。星花宮の中にすらいる可能性をエリナードは考えるのかもしれない。口にしたくなければ、そんな口調にもなる。ライソンはそれを突き詰めはしなかった。
「だったら俺が捕獲されたときのことを考えろ。こっちはただの兵隊だぞ。魔術師相手に対処ができるか」
「だから俺が――」
「あんたがいないときに俺が罠にはまったら? 絶対ないって言えるか?」
 言えるはずはない。些細な事故などどこにでもある。イメルが嵌ったような罠だとて。渋い顔のエリナードにライソンは微笑む。
「敵が魔術師であった場合。俺が捕まっちまった場合。その上でそいつが俺とあんたの関係を知ってた場合。――そりゃ確率的には微々たるもんだろうけどよ、俺からあんたの真の名を聞き出すことが、できるんじゃねぇの、そいつは?」
「確率とか小難しいことぬかしてんじゃねぇよ、傭兵」
「茶化すな、エリン。できるよな?」
 それは確かにできる。間違いなくライソンは廃人になるだろうが、敵であるのならば容赦する必要もない、そう考える者がいてもおかしくはない。ライソンの言う通り、ごくわずかな可能性ではある。けれど。
「可能性があるんだったら、やめとけ。俺はあんたが危ない目に合うようなことはしたくねぇよ」
「……それでもよ」
「真の名、教えてくれるって気持ちが嬉しいから、俺はそれでいいぜ? けっこうそれで充分かなって。ま、不公平だから俺のも教えてやんねぇけど」
「お前のはいいだろ!? 教えろよ、馬鹿!」
「やだよ! 俺だけエリンさんの知らないってなんでだよ! お互い知らねぇんだったらいいだろ!」
 よくない、声を荒らげつつエリナードは笑っていた。ライソンの、心遣いが嬉しくも哀しくもある。常人である彼。魔法的防御手段のない彼だからこそ危ない目には合わせたくない。知らなければ、それだけ危険は減る。それでも、伴侶としては寂しくもある。複雑な気分のまま、エリナードは笑っていた。

 飲み終わった茶をことりと置いたエリナードは懐かしいような、切ないような不思議な顔をしていた。ファネルはしばし眺め、小さく微笑んでは替わりを注いでやる。それに現実に帰ってきた彼だった。
「今際の際にでも言ってきゃいいものをよ。結局俺は言わずじまい、あいつのも聞けずじまいだ」
 肩をすくめて新しい茶を飲めばほのかな甘み。フェリクスの好んだ甘い茶だった。それにちらりとファネルを見やれば彼は視線をそらしたまま笑っている。仕方ないやつだ、とエリナードも肩をすくめていた。
「ライソンらしいな」
「そうか?」
「ああ。さほど親しいわけではなかった。それは認める。時間にすれば我々にとっては瞬きよりなお短い付き合いだ。が……」
「いいやつだっただろ?」
「お前がそういう顔をするとなんとも言い難い気分になるほどにな」
「聞きたがったのはあんただろうが!?」
 そのとおり、ファネルは肩を震わせて笑う。こんなときエリナードは神人の子も同じ地上の生き物だ、と実感する。ありがたくはなかったが嬉しくはある。
「だったらな、ファネル」
 ちょい、と腕を引けば改めて真正面から見つめてくる天上の青。吸い込まれそうに美しくて今でも時折は戸惑わないでもない。こんな美しい目に見つめられていいような人間か、自分は。思うそばからためらいはファネルの眼差しに溶けて行く。
「俺の名前、聞いといてくれるか?」
 途端にファネルが硬直した。それほどとんでもないことを言っただろうか、自分は。首をかしげるエリナードの手を強くファネルは握っていた。
「ライソンも知らないものを、私が聞くのは……少々。なんと言うか」
「いいんじゃね? 一つくらいあんただけってもんがあってもよ」
「そう言うものでは――」
 ないだろう。抗弁はエリナードの藍色の目に捕えられたまま。ファネルは言葉を失くす。藍色の目の向こうに漆黒の目を見ている自分が。
「せっかく親父がつけてくれた名前だぜ? 俺だって誰かに聞いといてほしいっつの。――それに、理由もあるかな」
 エリナードは気づいたはずだった、ファネルの心に。互いに抱えるものが多すぎる。そう言い合う二人。流れた時間も、後悔も、多すぎる二人。手を取り合って真っ直ぐに進んできたわけではない二人だからこそ。
「聞いて、くれるか?」
 愛の誓いめいていて、それだけではない色。ファネルは黙ってうなずいた。それにエリナードが破顔する。幼子のようだと思うのはきっと彼がフェリクスの息子だから。
「ベアートゥス」
 ただ、一語。エリナードはそれだけを言った。愕然とするファネルを少しばかり面白そうな目で見たままに。
「それ、は……」
「さすがだよな。やっぱりわかるか」
「当然だろう!」
 珍しく声を荒らげたファネルにエリナードがにやりとしていた。そこまで彼は想像していたのかと思えば力なく笑ってしまう。それで気分が落ち着いたファネルだった。
「親父は……俺に自分の名前を寄越したんだ」
 追憶の目か、それは。あるいはいまだ遠いままのどこかを眺める眼差し。エリナードはくすぐったそうに、けれど笑う。
「弟子の命名ってのは、要はいっぺん常人としては死んで新しく魔術師が生まれるって儀式なわけだ」
 それまでの、生まれたときにつけられた真の名を捨て、師より名を授けられるとはそう言うことだ。弟子の保護の意味合いが一番強い。真の名を握られるのは生命を握られるも同然だからこそ。
「だけどな、師匠はそんとき俺に選ばせたんだ」
「何を?」
「今から自分が呼ぶ名を受け入れるかどうかってな。嫌だったら言えってさ。別の名前の候補もあるからって。おかしな野郎だぜ。普通は一方的にって言っちゃあれだけどよ、師匠がつけて弟子はありがたく頂戴するってもんだぜ?」
 エリナードは肩をすくめる。師弟二人きりの儀式だった。他には誰もいない、エリナードの名を知るべきはその師のみ。他の四魔導師すらも同席していない、フェリクスと、エリナードだけの秘密の儀式。
「俺は、十一歳だったかな」
「それは……ずいぶんと幼い……と言うか。そう言うものなのか?」
「いいや? 俺は星花宮でも四魔導師が頭抱えるほど早熟だったらしいからな」
 からからとエリナード笑っていた。ただそれだけだったと。ファネルも彼と暮らしはじめて色々と懐かしい話を聞く機会があった。エリナードだけではなく、イメルからも。折に触れてイーサウ在住のオーランドからも手紙が来たし、ミスティは元々こちらに住んでいる。天才を謳われた彼の青春時代を聞く機会が何度となくあったものだった。それなのにエリナードはただ早熟だったと彼らも本人もが笑う。魔術師同盟の最初の四導師、そう呼ばれた彼らの友情を見た思いだった。
「いくら魔術師候補って言ってもな、さすがにそんなガキに選ばせる大人は普通はいねぇんだけどよ。さすが師匠だろ? 嫌だったら言っていい。それだけだったんだけどな」
「フェリクスは……」
「そう言う親父だったぜ」
 ファネルが知るフェリクスは決してそのような男ではなかった。けれど息子はそう言う。ファネルが疑うことすらできない強さで。
「ま、名付けられた瞬間、確かにこれは選ばせるな、と当時の俺でも思ったさ。そのまんま、同義語だもんな」
 肩をすくめてエリナードはけれど嬉しそう。彼の師は、その名を息子に与えたのだから。
「明日を望むことができる、幸福……か」
「あぁ。親父は言ってたぜ? できればそのままフェリクスって名付けたい、でもさすがに危ないからってよ」
 仕方ない男だった、エリナードは笑う。もしかしたら常人の親子のよう、父と子で共通の名を付ける、そんなことがしてみたかったのかもしれない。
「さすがに魔術師師弟だからよ。師匠が名前呼ばれるたんびにこっちがびくつく羽目になるのはな。いや……魔法的には関係ないんだぜ? 仮におんなじ名前だったとしても、師匠は師匠、俺は俺、だからな。まぁ、あれだ。気分的にびくっと来るなってだけだ。だとしたって、そんなの師匠だって望んじゃいねぇだろうし」
「だから同義語で、か」
 そうだ、とエリナードはうなずく。真っ直ぐとファネルを見たままに。無言で自分の胸元に手を当てる。この魂のどこかに、父の面影を、父と呼んだ師の心を抱くように。
「だからな、ファネル。あんたが俺に親父の面影を見るってのはあながち間違いでもない気がするぜ、俺は」
「……それだけではないぞ?」
「ん?」
「誤解していないか、お前は。私はそれはそれとして、お前はお前で愛しく思っているぞ、ちゃんと」
 ファネルの眼前でエリナードが硬直していた。なにか奇妙なことでも口走っただろうか。思い返して今度はファネルが固まる。
「言った本人が照れるなよ!?」
「そこまで驚かれれば私も驚くものだ!」
「驚いただけ、か?」
「さて?」
 疑い深いエリナードの目にファネルはにやりと笑う。それに仕方ないやつだと言わんばかりの彼の目。どことなく居心地が悪い。
「なんつーか、どうしょもねぇ男の相手は慣れてるっつーか。親子共々しょうもねぇっつーか」
「それを言うなと言っているだろうが!」
 喉の奥で笑うエリナードをファネルは見ていた。屈託のない笑い声を上げられる彼と言う男を。長い人生、色々とあっただろうに。それでも彼は。
「師匠な、まぁ……あんまり人に言うことじゃねぇんだが。あんただし、いいだろ」
「他聞を憚るなら――」
「もう、いいんだよ」
 それでファネルには見当がついた。エリナードが口ごもった理由にも。あえてフェリクスは死んでしまったから、そう言わないでいてくれる彼の温かさをファネルは胸の奥に受ける。
「あの人、真の名がないんだよ」
 魔術師としては有利なことだ、そう言っていた。エリナードは覚えている。敵の手に握られようもないのならばこれほど便利なこともない。そう嘯いていたのも。
「そのくせな、ちゃんと弟子には名前を付けたがる。――だから、ほんとは寂しかったのかもしれない」
「フェリクスの師と言う人は――」
「あぁ、いや。カロル師はつけるって言ったらしいぜ? でもな、師匠は断ったんだそうだ。はじめからないものだから構わないってな。強がりだったんじゃねぇのかって、俺は思ってる」
 正式参入の際の儀式場。真の名を与えながらそんな話をしてくれたフェリクスをいまでもエリナードは忘れていない。そんな話を自分のような子供にしていいのか、そう戸惑いもした。今になって思う。フェリクスの甘えだったのだと。伴侶とは別の形で、息子の自分に甘えていたのだと。
 ――仕方ない親父だよな。
 内心でエリナードは小さく笑う。ほろ苦く、零れないように。それでもファネルは気づく、そんな気がした。
「こちらに来てからのことだが。戦後、だったな。フェリクスに尋ねられたことがある」
 意味のない復讐を終えてしまって、生きた屍に成り下がっていたフェリクス。伴侶の欠片の竜と共に湖の側に座っていた。
「私は子供の存在を知っている、と言う稀有な闇エルフだった」
「それが師匠だろ?」
「そうなんだが……。本人に向かって我が子、と言っていたわけではないからな。互いに暗黙の了解、というものか」
「あれで照れ屋だからな、師匠は」
 だから面と向かっては言いにくかったのだ。エリナードは笑って捏造してのける。そのような感情など残っていなかったフェリクスだと彼は知っているはずなのに。が、ファネルは微笑んでその嘘を受け入れていた。
「さて、そう言われるとくすぐったいものだがな」
「親子共々照れ屋で困るよな」
「おい!」
「いっそ孫まで照れとくか?」
 にやりと笑うエリナードを戯れにファネルは打つ。大袈裟に痛いと言い、それでも大きく笑うエリナード。もしも己が闇に落ちてはおらず、フェリクスと共に過ごしていたのならば自分たちはこうあれただろうか。ふっとファネルの口許に笑みが浮かぶ。
「なんだよ?」
「いや、お前がフェリクスだと困るな、と久しぶりにそう思った気がした」
「親子でいちゃつかれてもなぁ? そういや俺はずっとそんなこと言われてたけどよ」
 腕組みをして唸るエリナードをファネルは笑う。甘えさせ上手なのか甘え上手なのか。エリナードと暮らすようになって格段に笑顔が増えた自覚はあるファネルだった。
「話を戻すぞ? その当時、フェリクスに息子の真の名を尋ねられたことがあってな」
「はい?」
「大事に思ってた子供なんだったら真の名があるんだろう、そんな尋ね方だったか」
「あった、のか……?」
「無論。――フェリクスに教えたよ、私は」
「それは……」
「悔いが、あったんだろうな、あれには。タイラントの真の名をあれは知っていたらしい。それなのに……」
「師匠には、応えられる名前がなかった、か……」
 そう言うことだ、とファネルはうなずく。エリナードもまた、どこかを見ていた。軽く瞑目し、それでも目を開いたときには笑っている。そう言う男だった。
「じゃあ?」
「あぁ、当然その場にはシェリがいた。タイラントに聞かせられなかった名前をシェリが聞いたから、それでいいことにする、あれはそう言っていた」
「……そっか」
 ふとうつむいたエリナードは何を思うのだろう。共に歩む伴侶といえども心の隅々までわかるわけではない。それが悔しかったり、切なかったり。いまはただ、愛おしかった。だからこそ、ついファネルは言葉を重ねる。
「驚いたぞ、私は。あれはシェリを持ったまま私にタイラントの名を教えたのだからな」
「……はい!?」
「死んでいるなら運命なんて変わりようがない、とほざいてな。まったく。なにをどうしたらあのような大人になるのだか。親の顔が見たいとはあのことだな、たぶん」
「鏡見とけば?」
「私ではないだろう! メロール・カロリナに会ってみたい、と言っているんだ、私は!」
 声を高めたファネルをエリナードは腹を抱えて笑っている。こんなとき、もしもフェリクスが健在であったのならばどうするのだろうと思う。以前はわからなかった。いまは少し、思う。間違いなくエリナードと共に自分をからかうのだろうと。
 エリナードとすごす時間が長くなるにつれて染み込んできた思いだった、それは。屍のフェリクスではなく、生きた彼の姿を息子が語る。暴挙としか思えないやりようを笑っていなしていたエリナードとフェリクスの時間。親子と言うには親密すぎて、それでもそこにあったのは恋人同士の愛ではなかった。エリナードを見ているとそれがよくわかる。フェリクスは家族と共にあって星花宮で幸福に暮らしていたのだと。
「きっとカロル師は言うと思うけどな」
「何をだ!」
「そりゃ、親の顔が見たいと思ってたってな」
 にやりとしたエリナードにファネルは気づけば笑っている。一緒になって大笑いをしていた。アリルカでも大勢は知らない。ファネルがこのように明るく笑うなど。それをエリナードはほんのりと目だけを和ませて眺めていた。器用に大笑いを続けつつ。そのエリナードの表情だろうか、別の何かだろうか。不意にファネルは胸を掴まれたような気がした。
「お前だから、か……」
「うん?」
「いや……お前の存在が、どれほどフェリクスにとって救いだったのかとな」
「そんなたいしたもんかねぇ? 相性のいい親子なんているとこにはいるもんだろ。それだけだろ」
 ファネルは微笑んで答えない。それだけとも思いがたい何かを見ていた。それがなんであれ、かまわない。フェリクスは、エリナードと言う息子と共にあって幸福だった確信。側ではきっとタイラントが楽しい悲鳴を上げていたのだろう、イメルに聞く限りでは。
「そんな顔するなっての。――なぁ、ファネル。あんたに聞いといてほしい理由ってさっき、言っただろ?」
 ぽん、と軽く頬を撫でるように叩かれた。細められた藍色の目。それが見たくてこんな顔をするのかもしれない、ふと思ってファネルは己の思いに赤面する。それをにやにやと眺めている彼だった。
「なんだ!」
 声を荒らげてもあまり意味はない、とすでに知っている。それでもそうするのはたぶんこれが楽しいと言うことなのだとファネルは思う。エリナードとかわす言葉の一つ一つ。それに生きていた意味すら再獲得していくような。
「一つは、せっかく親父がくれた名前だからな。連れ合いに言ってみたいってのがあった。前の男はつれねぇ野郎だったからよ、聞いてもくんなかったからな。あんたには、言っておきたかった」
 ふと真面目になったエリナードの声音。ファネルは心の中で名を呼んでみる、聞かされた名を。ベアートゥス。聞こえてもいないはずのエリナードの目が柔らかに微笑んだ。
「もう一つ。これは……あんたにはちょっと酷かな? でも俺の正直な感想。聞く?」
「そこまで言ったら言え。気色が悪いだろうが」
「んじゃ、遠慮なく。――俺、師匠が死んでるって気がしねぇんだよ」
 あ、とファネルが声にならない声を上げた。心得ていたエリナードはすでに彼の手を取っている。なだめるよう撫でれば苦笑する彼。大丈夫だと言うように。
「悪いな。でもな、本当にそんな感じ。なんつーの? ここにはいない、それは確かだ。師匠の気配は感じない。いないのもわかってる」
 気づけばエリナードは胸元に手を当てていた。かつてフェリクスと魔法的に繋がっていたという話を思い出す。ファネルにはわからない。それでもほんの少し、わかることはある。
「あんたの想像通りだな。ライソンには感覚的にでもわからない。あんたはここに接触ができるからな。わかるだろ?」
 胸元に触れていた手が今度はファネルの胸に。無言でうなずくファネルにエリナードは微笑む。その目が語る別の何かに頬を染めるファネルと知っていて、わざとやっている気がしてきたファネルだった。
「笑うな!」
「悪い、つい楽しくってよ。目の保養もんだからな。――話を戻すとよ、だからな、師匠がいないのは、感じてるんだ。でもな、だからこそ、なのかな? いないと、死んでるは別だろ? その辺あんた区別つくか?」
「少し……難しいな。我々は死から遠いせいだろう」
「だよな。この辺は定命の子だからかな。俺はなんかどうあっても師匠が死んでるって気がしないわけ。戯言だけどな、きっと」
 どこにもいないと死んでいるは同じだろう。それはエリナードにもわかってはいる。死んでいると言いたくないのは感傷に過ぎないとも。
「いつまでも親父頼りのダメ息子だからな。そう思うのかもしれない」
「お前がだめ息子だと言うのなら世の中のすべての男は該当すると思うが」
「それは惚れた欲目って言うの、おわかり?」
 笑うエリナードにまたも赤くなる羽目になったファネルだった。そうして心を軽くしてくれるエリナードと知ってはいる。抗議をしたい気持ちは無きにしも非ずながら、ありがたくもある。それに苦笑するファネルだった。
「だから、いつかどこか、思いがけないどこかで会うことがあるかもしれない。あんたと師匠は」
「な……。お前……」
「ん?」
「私は、話したか? いや、話したとは思うが……そこまで正確に言ったか?」
「なにがだよ? 話が見えないっつの」
「……フェリクスの、言葉と同じだった。一言一句違わず、同じだった。抑揚まで……同じだった。お前は、フェリクスは」
 絶句するファネルだったが、エリナードとて同様。まじまじと互いの目を覗き込んでしまう。爆発するよう笑ったのはエリナード。
「ったく。どうしてこうかな、もう!」
「この似たもの親子め」
「元凶が言うんじゃねーわ!?」
 からりとファネルが笑っていた。いかにも楽しげに、幸福そうに。それにエリナードの目も溶けて行く。
「あんたがな、ファネル。俺に師匠の面影を見てるのは知ってる」
「それだけではない、と言っているだろうに」
「まーな。それはお互い様ってやつ? ――だからな、師匠に会ったら、今度は親父の中に俺を見てくれればいい」
 ファネルは言葉を失くしエリナードを見ていた。定命の子と神人の子。互いに流れる時間が違うのははじめからわかっていること。エリナードが若くはないのもファネルは心得ていたつもり。
 だからこそ、普段のエリナードは自分に残された時間を語らない。あるいはもしかして。そんな不安に駆られたファネルをエリナードは笑い飛ばす。偶々だと言って。ちょうどいい機会だっただけだと。
「ファネル?」
 そんな彼をファネルは無言で抱き寄せた。そっと耳元に唇を寄せる。呟けば、エリナードの硬い気配。わずかにためらい、一度だけぎゅっとファネルを抱き返してきた。指先が白むほどに。
「先に詫びとく。ごめんな」
「……おい」
「いまの、あんたの名前だろ? 悪い、俺はこれでも真っ当な鍵語魔術師でな。聞こえても聞き取れねぇの」
「……お前な。あしらい方が雑だろうが」
「え、どこが? 誠心誠意詫びてんだけどよ」
 言葉の上ではどうとでも。態度すら、どうとでも。エリナードの本心は先ほどの指先ただ一つ。ファネルはにやりと笑う。
「念のために言っておいてやろう。私が名乗ったのも、はじめてだからな?」
「へいへい、ありがたく思ってますよ」
「ちなみに?」
「師匠でもおんなじこと言うと思うぜ?」
 にやりと笑ったエリナードの藍色の目。じっと見れば潤んでいる気がした。立ち上がればエリナードのほっとした気配。振り返りざま、目許に唇を落とす。
「ファネル、どうしてそう言うことすんだよ!」
 在りし日のフェリクスとタイラントはこうもあったのだろうか。思いつつファネルは大きく笑う。背後でまだエリナードが文句を垂れていた。その声も笑っていた。




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