まるで廃墟だった。あの日から何一つとして変わっていない家にフェリクスは一人、佇む。
「エリィ――」
 ぽつん、とした呼び声だけが主を失くした彼の家に響いた。じっと拳を握ったまま立ち尽くす。その目はどこも見てはいなかった。
 エリナード追放より半年。フェリクスは奔走していたと言ってもいい。四魔導師以外、誰も知らない方法で。
「守れなかった」
 追放と言う手段をもってしか、エリナードを守れなかった。他に最愛の息子を守る手段がなかった。だからこそ、平静で居続ける必要があった。
 エリナード追放の際フェリクスは彼に己の名を与えた。それしか、あげられるものがない。そんなものでも持って行けば多少の役には立つだろう。
「でも……。違うよね。ほんとは、違うよね」
 ただ、思いのよすがに。息子との間を繋ぐものが欲しかったのは自分のほうだ。自らを知るフェリクスはただ嗤うだけ。タイラントにもどうにもできない、あるいはしないでいてほしいと願う心を容れてくれた彼。淡々と、日常を。
 名を与えたことに対して星花宮の中でも多少の悶着はあった。なぜ追放した者に名誉を。言う者がいてもおかしくはない。
 フェリクスは黙っていた。次第に止むはずとわかっていたから。エリナードはこんなことがなくともいずれこの名を与えるつもりでいた弟子。弟子たちの多くはそれを認めている。文句を言う輩は誰かがたしなめてくれるだろう。どこかぼんやりとしたままフェリクスはそう考える。
「忙しすぎたからね、僕も」
 一人きりの家の中、エリナードが去ったあの日のままの家の中。フェリクスの呟きだけがこだまして行く。
 星花宮の弟子たちはなんとか守ることができるだろう。いまはまだ。エリナードが去ったことで逆説的に彼らは守られる。
 だが、反対に危なくなってしまったのがエリナードの関係者。いままでは王の目になど留まるはずもないただの人たちが。フェリクスは人知れず彼らを守護する。
「エリィが大事にしてるものだからね」
 息子の手が届かないのならば自分が。せめてそれだけは。ラクルーサから遠く離れた彼が安堵していられるように。
 かつてほんの少しのあいだ星花宮に滞在して訓練をした青年を彼は弟分と呼んで可愛がっていた。いまは家庭を持った青年一家には自ら足を運んで事情を説明した。
「……責めて、よかったのにね」
 追放したのは、自分だ。四魔導師の総意としてエリナードを追放したのだから。それなのに一家をあげて彼らはフェリクスを責めなかった。
「それは……お寂しいでしょう」
 そう言っていまは壮年となった彼の弟分は涙ぐんでこの手を取ったのだ、とフェリクスは自分の手を見つめる。
「なにもない、手」
 四魔導師などと呼ばれていても息子一人守れなかったこの手。ぎゅっと握り込んだら雫の一滴くらい、滲むだろうか。
 他にも親交のあった双子神の神官。老齢となった神官長を支える次代の神官長候補。彼まで笑っていた。
「大丈夫ですよ、エリナードは。フェリクス師こそ、お疲れのでませんように」
「僕が追放――」
「エリナードはそうは言っていませんでしたよ?」
 ぎょっとした。まさか顔を見せていったとは思いもしなかったせい。このロイはエリナードの友人、ではあるのだが実のところかつての恋人だ。ライソンがいるいま、頻繁に顔を合わせているとは思い難い。
「違いますよ? これでも僕は神官なので。一応は魔力があるんです」
「あぁ……鳩?」
「えぇ。とても綺麗な白い鳩が遊びに来ました」
 魔術師が使う手紙の魔法だった。魔力のない人間には開封ができないので相手は限定されるけれど、中々便利でフェリクスも多用する。その鳩の魔法でエリナードは自らの処遇を彼に知らせたと言う。
「心配するな、師匠のほうを気にしてやってくれ。だそうです」
「……あの子は。僕をなんだと思ってるんだろうね?」
「いまでも大好きなお父上では?」
 その言葉にどれほど胸を突かれたことだろうか。言葉を失くしたフェリクスにロイは笑顔で茶を勧めてくれた。茶の味などわからない。エリナードを失ってから、食事の味もわからない。それをロイは見てとっているかのよう。
「お土産にお持ちください」
 からりと笑って神殿特製の強壮剤を持たせてくれた。普段ならば双子神の強壮剤など恐ろしい、と笑うフェリクスが黙って目礼をしたことでロイは相当に深刻だと思ったらしい。
 なにも、言えなかっただけだった。案じられる自分が信じられない。
「あのころ、みたいだね」
 思いの中から立ち返り、フェリクスは苦笑する。ようやく足を踏み出し、台所へ。食卓に向かえば、エリナードの声が聞こえるかのよう。頬杖をついたままフェリクスは瞑目していた。
 タイラントを信じ切れなくて、自分を何より信じられなくて。彼との間に四年にも及ぶ諍いを繰り広げていたあの頃。心持ちがあのころに返ってしまったかのような索漠。
「でも」
 今は違うと信じたい。いずれ立ち直ることができると信じたい。何よりタイラントがいる。離れたとはいえ、エリナードは生きている。
「あの子も、大きくなったよね」
 何度そう言っただろう。そのたびにエリナードはもう大人だ、と言い返していた。すぐ隣にあったぬくもりがないだけでひどく心細い。
「駄目だね、僕は。これじゃどっちが師匠かわかったものじゃないじゃない」
 小さく笑えば、がらんとした家に響いた。それがまた自らに跳ね返り、染み込んで、凝っていくような嫌な気配。長い溜息をフェリクスはつく。
 本当に、大人になったものだと思うこともあった。件の青年やロイはまだいい。彼は貴族の家に入っていたし、ロイは神官だ。直接に国王が手出しをしにくい人間でもある。
 本当の意味で危なかったのは、エリナードの妹。血の兄妹でしかない、とエリナードは言う。妹のミナもそう言う。けれどつかず離れず続いてきた二人。
「本当ならね」
 イメルが行くべきだった、ミナのところには。彼女を兄のエリナードより可愛がっていたイメルだから。けれどイメルには任せられなかった。エリナード追放の直接の原因を作ったのはイメル。エリナードならば「傭兵の彼氏を作ったのは自分」と言い放つだろうけれど。
 イメルには、無理だった。自分のせいで親友が追放されたのだとミナに告げることは彼にはできない。四魔導師もやらせられないと判断した。自分を責めすぎるイメルを見ていられない。本当に悪いのが誰か、全員が理解しているのだから。
 だからこそ、フェリクスだった。北の辺境にあるミナの家。直接顔を合わせる自信はフェリクスにもなかった。あなたのせいで兄が。そうミナに言われることを考えてしまえば。
「僕も馬鹿だよね。ミナはそんなこと、言わないね」
 追放を責められることはあるかもしれない。けれど彼女はエリナードを兄とは呼ばない。ずっとエリナードさん、そう呼んできた彼女だった。
 結果、置手紙でも残すことにして、まずは仕事をしようとフェリクスは考えたのだった。北の辺境とは言え氷帝と異名されるフェリクスのこと。転移は一瞬。
 ミナの家とその周囲に結界と撃退用の魔法を仕込んでおくつもりだった。本来ならば宮廷魔導師であるフェリクスに許されることではない。この手に宿る魔法はすべて国王のもの。夜陰に紛れ、ただ一人で跳んできたのはそのせい。苦く笑うフェリクスは闇の中、驚愕に目を見開くことになる。
「……エリィ」
 ミナの家とその周りにはすでに魔法があった。宮廷を辞したエリナードの魔法が。枷から外され、誰憚ることなくミナを守る彼の魔法が。フェリクスは無言で目許を拭う。握った拳が、痛かった。
 そして最近になって辺境から届いた手紙。長い時間をかけて届けられたミナの手紙だった。置手紙に対する返事でありながら、誰に読まれるかわからないことを彼女は考えたのだろう。言葉を吟味し抜いていた。
「頭のいい子だよね」
 内容を思い出しながらフェリクスは呟く。誰にも言質を取られない言葉を選んでいたミナ。あるいは危機感を覚えていたのかもしれない、エリナード追放より先に。魔術師排斥が色濃くなる気配に敏感なのは、エリナードを案じるせいか。それとも兄代わりのイメルを不安に思うためか。
「あなたの妹は、僕が守るよ。できるだけね」
 エリナードはイーサウに入った、と知らせてきた。正確には無事でいる、と手紙が来ただけ。けれどインクがイーサウの温泉水だった。それでフェリクスは充分。イーサウのほうが北の辺境には近い。エリナードもミナのことは気にかけているだろう、魔法まで残して守った彼だから。それでもこちらでも守る。少しでも息子の負担が減るように。
「それくらいしか、してあげられないからね」
 仮にも追放した弟子だった。星花宮の弟子たち相手に沈んだ顔は見せられない。宮廷に顔を出せば一番弟子の不始末を嘲笑うもの、最愛の息子と呼んだ弟子を切り捨てたとなじるもの。
「無表情が張りつきそうだよ、僕は」
 何事もなかったかのような日常を送ることだけが、いまは他の弟子たちを守ることになる。エリナードを失くしたのだからせめて他の弟子たちは、とは思わない。どうあっても守るべきものだった、弟子たちは。
「子供を守るのは、親の役目だもの」
 それくらいしかできないのだとしても。追放したことが、エリナードを守ったのだとしても。悔いばかりでフェリクスは何を思うこともできなくなりそうだった。
 殊にこうしてエリナードの家に一人でいれば。誰もが寝静まっただろう夜中に、わざわざ跳んだ。見咎められることのないよう、扉を使いはしなかった。明かりを灯しもしなかった。
「エリィ」
 そのせいなのかどうか。エリナードの気配がすぐそこにあるかのよう。こうして待っていれば扉を開けて帰ってきそうな。
 そっと胸元に手を置く。以前、酷い暴走を経験しているエリナードだった。回復させたのはフェリクス。そのある意味では後遺症。まるで直結の回路があるかのよう、気配を近々と感じることが多々ある。精神の接触もどの弟子より容易い。
「元々、だよね」
 誰が聞いても絶句したものだった。互いの心に許可なく侵入しあう師弟。ずっと覗いていても気に留めもしなかったエリナード。仕方ない師匠だ、と笑っていた最愛の弟子。
 いま遠く離れても、気配は感じる。さすがに声までは、届かなかったけれど。
「もっと、強くなりたい」
 カロルとフェリクスもまた、直結回路があると言う意味では同じだった。イーサウとラクルーサに離れてもカロルとならば声が届く。互いの目で見ているものを見せあうことすら可能だ。
 けれどエリナードではそうはいかない。リオンやタイラントならば言うだろう、カロル側の問題だと。人間とは思えない魔力の持ち主。おそらくは最後の真言葉魔法の使い手。エリナードに並び立てと言っても無茶が過ぎる。
「だから、僕が強くなればいい」
 そうすればきっとエリナードに声が届く。言うことは、きっとわかっている。自分は大丈夫。師匠こそ無茶をするな。彼はきっとそう言う。
「それでも、声が聞きたいよ、可愛いエリィ」
 ずっと頬杖をついていた腕が、痛い。痺れて感覚がなくなるほどそうしていた。ふ、と苦笑してフェリクスはけれどそのまま。
 この家にエリナードが暮らしていたのは一年にも満たない短い間。それでも彼の気配が残っている気がして仕方ない。がらんとした家だけにかえって濃厚に。
 ふと思い立ちフェリクスは立ちあがる。エリナードの暮らしを熟知していた彼だった。この家はある意味ではエリナードの療養のためのものだったのだから。
「こんなの、飲むようになってたんだね、あなた」
 台所の棚の中、葡萄酒の瓶に紛れて強い蒸留酒の瓶。星花宮で飲んでいた記憶のないもの。元々日常的に飲酒をする質ではなかった。
「酒に逃げるってやつ、やってみたかったの?」
 そんなことで逃れられるようなものではなかっただろう。それでも、そんなことでもしなければやっていられない気分だったのかもしれない。
 フェリクスは黙って硝子の酒杯に酒を注ぐ。強い酒が喉を焼いても無言のまま。せめて朝まで。星花宮に戻らねばならないぎりぎりまで、エリナードの思い出を抱いていたい。朝からはまた、四魔導師としてあるべき姿に戻るから。
 ことん、と音がしてもだからフェリクスは振り返らない。リオンが見たのは、そんな彼だった。知らず息を飲んでしまう己を叱咤し、リオンは座るフェリクスの後ろ姿を見ていた。
 ――タイラント。エリナード。あなたたちは……。
 思わず内心で呟く。それほど酷い背中のフェリクス。攻撃的で、沸々と滾る怒りがこうしているだけで伝わってくるかのような。悪い意味で男の匂いの強すぎるフェリクス。伴侶と息子が彼のそんな部分をどれほど緩和していたことか。今更ながらにリオンは痛感していた。
「――邪魔だよ。帰って」
 振り返りもせず言い放つフェリクスだった。真っ直ぐと前を見たまま、酒杯を口に運ぶ。見もしなくともそこにいるのが誰かわからないはずもない。彼はフェリクスだった。
「こんなところにいたんですねぇ」
 だが相手もまた四魔導師の一角を支えるリオン・アル=イリオ。飄々とフェリクスの言葉を受け流す。かすかに微笑みまでして対面に座した。
「いちゃ悪い? 自分の家にいるのを咎められる覚えはないね」
「ま、それもそうですが」
 肩をすくめたリオンをフェリクスは見もしない。言った言葉は事実だった。この家はフェリクスがエリナードに買い与えたもの。いまでもフェリクスの物、と言っても差支えない。
「みんなが心配してますよ、なんて言うつもりはないんですけどね」
「だったら言わないで」
「珍しくタイラントがカロルを止めまして」
「そう」
「あなたを見れば納得ですけどねぇ」
 あのタイラントがカロルを止めたか。思えばフェリクスの唇にちらりと笑みが閃き、そして消える。怖い怖いと言いつつ、いざと言うときには胆力を見せるタイラント。
「いま、あなたの助けになるのはタイラントでもカロルでもないんですね」
 だからタイラントはここにはいない。彼の弟子がエリナード追放の切っ掛けを作ったから、では決してない。自分は役に立たない。むしろ、離れていることこそが必要。タイラントは理解している。普段は騒ぐだけ騒いで笑ったり笑われたり。そんな彼だけれどここぞと言うときには誰より押しが強いのもタイラントだった。
「だから自分が来たとでも言うつもり? あなたに助けられるのなんてまっぴらなんだけど」
「助けようなんて思ってませんよ。私があなたに手を貸すはずなんてあるわけないじゃないですか」
「だよね。かなり気持ち悪い」
 でしょう、と笑うリオンにはじめてフェリクスは目を向ける。いつもながら嘘くさい男だと思う。タイラントは理解しているからこそ、離れていてくれる。カロルは近すぎるからこそ、助けになり得ない。ならば誰が。リオンは言わない。フェリクスも求めない。こうして過ごしてきた二人でもあった。
「お相伴させてもらいますか」
 勝手に酒杯を持ち出したリオンをフェリクスは咎めなかった。そのことがまず異常。常日頃の彼ならば一くさり文句くらいは言うはず。いまのフェリクスは黙って眺めているだけだった。
「勝手に飲まないでよ。エリィのなんだけど?」
 そんな自分に気づいたのだろう。舌打ちをしてフェリクスはそんなことを言う。とって付けた、と自分でも気づいてしまっているに違いなかった。
「ま、彼の初恋の相手、と言うことに免じて許してもらえることでしょう」
 にやりとしてリオンは酒杯を掲げて喉に流し込む。思い切りのいい飲み方だった。闇エルフの血のせいか、フェリクスはほとんど酔わない。だからこそ、酒を楽しいと思って飲むことが少ない。うまいものではある、飲み物として。人間とは違うのだろう、そのあたりの感覚は。リオンのように「酒を飲む」と言うことを彼はしたことがなかった。したいとも、思わない。
「あの子もどうかしてるよね」
 ぽつん、と呟いただけなのは正しい意味で趣味が悪い、と言いたかったのだろうけれど、生憎星花宮で趣味云々を言えば違う意味に聞こえる。そのせいだった。
「あなたのせいらしいですけど?」
「だって本人は言ってるけどね。僕があんまり罵るんで逆に興味を持ったみたい。僕の失敗だったね、あれは」
「子供の前で迂闊なことを言う親、というものはどこにでもいるものですからねぇ」
 言った途端だった、リオンの喉元に氷の剣が突きつけられていたのは。真っ直ぐとした剣と眼差し。どちらも似た匂いをしていた。
「迂闊なのは、誰?」
 親子と言うな、今この自分に向かって。自分で言うならば耐えられる。が、誰にであっても言われるのは耐えがたい。リオンの背筋に冷たいものが一筋。けれどしかし彼は微笑んでいた。
「失言でしたかねぇ? 過敏過ぎだと思いますけど。とりあえず謝罪はしてあげましょうか?」
「けっこう。気色悪いからやめて」
「でしょうね」
 それで引かれて行く剣。フェリクスにもわかっているのだろう、自分の状態が。感情に突き動かされて暴走寸前の思いを抱えていると。それはフェリクスがエリナードを慈しみ愛していた証。
 ――こんな形で愛を証明されてもエリナードは喜ばないと思うんですけどねぇ。
「知ってるよ、そんなことは。だから我慢してるんじゃない」
「おっと。制御が緩みましたか」
「修行が足らないんじゃないの?」
 冷たく突き放したけれど、内心でフェリクスは舌打ちをしている。自分だけではなかったと。リオンまでこの有様ならばカロルは。タイラントは言うに及ばず。
「言うまでもないですけどね。我々はみな、我慢を重ねているんですよ」
 だからと言ってフェリクスに一人ではないのだから耐えろ、とは言わない。リオンはそう続ける。フェリクスの激情はまた、彼だけのものだからと。
「わかってるんだったらほっといてほしいんだけど」
「中々そうもいかずにねぇ」
 肩をすくめるリオンに苛立ちを見た。王宮に、宮廷に。どれほど彼は苛立っていることか。星花宮の師弟の中でもフェリクスとエリナードだけだった、親子と言い合うのは。けれど気持ちは同じ。師は親代わり。カロルも、タイラントも。リオンもまた。フェリクスにも他の弟子たちがいる。我が子のように可愛がっている子供たちがいま、害されようとしている。
「……親離れ子離れってあの子が言うから、耐えられる。我慢ができる。――あれのせいで、僕はどれだけ失ったの。友達も、息子も。これ以上は耐えないよ」
 酒杯を煽り、フェリクスは淡々とそれだけを言った。宣戦布告にも似た呟き。リオンは空いた酒杯に黙って酒を注いだ。自分も酒杯を空ければ、代わってフェリクスが。
 フェリクスを止められなかった。リオンもまた、同じことを考えていたから。これ以上耐えれば、魔術師が全滅させられかねない。可愛い弟子たちが殺されかねない。知らず心の内側で呟く、カロル、と。まるで祈りのように。それを感知したのだろうフェリクスがちらりと笑った。
「ほんと、タイラントのせいだよね」
「何がです?」
「……気がついたら、ほんとに大事なものがたくさんできちゃって。身動きできやしないじゃない」
 それをフェリクスが言うか、リオンの心が震える。当時のフェリクスを知る者として、感動ですらあった。
「年上ぶるの、やめてくれない?」
「はいはい、兄弟子様」
「それも癇に障るんだけど」
「でしょうねぇ」
 わかっていてやっているに違いないリオンだった。それを一々咎めるフェリクスだった。そうしてやってきた二人。その時間を思い出させるようなリオンの態度。まだまだこの時間は続いて行くのだと知らせるような彼。
「――もう、変わったよ。いままでと同じじゃない。エリィがいないからね」
「元気でやっているんでしょう? 彼に星花宮は狭すぎた、そう言うことかもしれませんよ」
「だったらいいよね」
 もしもそうであるならば希望が持てる。自分の後に続き、そしてその先にまで進むと事あるごとに言っていたエリナード。星花宮の魔法の先まで。もしもそうできたならばどれほど。
「ほんとにあなたときたら。過保護すぎですよ。エリナードも立派な魔術師でしょうに」
 かすかに笑ったリオンにフェリクスは顔を顰めた。とりあえず親子、と言わなかったことは評価するが、過保護はないと思う。カロルのほうがよほど。思ってしまって似たようなものか、とフェリクスは苦笑していた。
「あなたがね」
「はい?」
「あなただよ、リオン。あなたがね、よけいなものを視てるのは知ってるんだ。なにをどう視てるのかは知らないけどね」
「ほうほう」
「ろくでもないことをあの子に吹き込んだりしたら、許さないよ」
 神官のその目でリオンが何を見ているか。フェリクスにも本当のところはわからない。リオンの妄想である可能性だとて捨てきれない。それでも彼は何かを見ている。自分とエリナードの間に。それは確信していた。ぎょっとしたリオンが一瞬だけ目を丸くし、ついで普段の笑みを浮かべる。信じがたいほど穏やかで、だからこそ嘘くさい神官の笑み。
「信用ないですねぇ、私」
「あるわけないじゃない」
「神官なんですけど?」
「だから? あなたがあなただって言うだけで信用なんかこれっぽっちもないね」
 言い放ち、フェリクスは酒を煽る。リオンが注いだ酒瓶を振り、小さく笑う。もう空だった。
「飲みましたねぇ。酔いません?」
「半分はあなただと思うんだけど? よく酔わないよね、人間」
「酒には強い質なんですよ、闇エルフの子」
 互いに言い合い、それでも侮蔑ではない。二人の間にある時間を見てしまったのだろうフェリクスが舌打ちをしていた。
「……あなたとエリナードの間にあるものを確かに私はずいぶん前から見ていますよ。それでも、関係ないと思っているからこそ、言っていないんです。わかりますか」
「さぁね」
「あなたがたの本質の間に何があろうと、フェリクスとエリナードが築き上げてきたものは揺らがない、それはあなたがただけのものだと確信しているから、言いません。言う意味がない」
 こん、と酒杯を空けてリオンは立ち上がる。聞いているのかどうか、フェリクスは無言のまま。リオンもまた黙ってもう一瓶、葡萄酒を食卓に置いてやる。
「酔い潰す気、僕を?」
「そんなことをしてもまったく楽しくないですが。仕事が増えるだけですし」
「たまには僕の仕事も受け持ちなよ」
「真っ平御免ですよ。帰ります」
 軽く片手を上げただけだった、フェリクスは。共に帰れとは言わないリオンにせめての感謝を。そんな自分が気色悪かったのだろう、気づいたリオンすら含み笑いを漏らしていたのだから。
「ほんと……いけ好かない……」
 転移の気配が消えればまた一人。エリナードの家で、一人きり。しかし、心持ちが少し変わっていた。リオンのお蔭では断じてない、フェリクスは小さく笑う。
「ごめんね、タイラント。心配してるのは、知ってるんだよ。でも……もう少しだけ、僕を一人にして。大丈夫。まだ、大丈夫だから。エリィが元気なうちは、僕は大丈夫。子供たちが元気なうちは、大丈夫。まだ、平気。――寂しいんだよ。ただ、それだけだから。子離れができない親ってのも、みっともないよね。わかってるけど」
 エリィ。内心に呟いてまだ蒸留酒の残る酒杯に葡萄酒を足した。雑なやりようをする、エリナードの笑い声が聞こえた気がしてフェリクスは動きを止める。
 朝までフェリクスは無言で酒を飲み続けた。エリナードの思い出ではなく、王宮への対策でもなく。何も考えずただ、酒を飲んでいた。




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