カレンには心配なことがいくつもある。自分の実験だとか研究だとか。そのような「自分の力でどうにかできる」ものならばいい。それは努力が足らないのであったり時期が早いのであったり。いずれなんとかなるものだ。 が、自分の力ではどうにもならないもの。それが気がかりだった。心配しても実際は何もできない。それがわかっているからこそ、苛立つ。それだけ心配だ、と言うことなのかもしれない。 「ライソンさん――」 数年前、エリナードはライソンを失った。イーサウ初の闘技会を終え、眠るように逝ったライソン。以来エリナードは走り続けている。 本人はあの時間を無駄にしたくないからだ、と言う。ライソンがいたからこそここまで来た自分ならば、彼がいなくなったあとも先に進む。その覚悟があるからもう大丈夫だ。平気な顔をして笑う。 「あの、馬鹿――」 師に対して毒づき、カレンは溜息をつく。どこがどう平気なのだかとっくりと聞かせてほしいものだと思いつつ。 いまもそうだった。今夜カレンはエリナードの自宅にいる。普段は隣家に住んでいるカレンだ。けれど今日の師はあまりにも顔色が悪かった。 間違いなく本人以上にカレンは彼の仕事量を把握している。学院の子供たちの教導、同盟の執務、自身の研究。エリナードは眠る間も惜しんで働いてでもいるかのよう。 それでも多少は以前よりましになった、とカレンは思っている。ライソンが逝った直後は本当にいつ寝ているのか、あるいは本当に眠っていないのではないかと疑うほど仕事をしていた師だった。 あまりにも顔色が悪い日は、こうしてカレンはエリナードの家に来る。エリナードはカレンがいても気にする様子はない。ライソンが健在だったころからそうだった。それこそ風呂上がりに薄着でふらふらしていても気にも留めないでいてくれる。カレンも同様だ。エリナードが半裸でいても気にしたことがない。もっとも師は自分よりよほど慎み深いのか、そんな姿を見た覚えがさほどなかったが。 「……あれが慎み深いとか、私はどうかしてるぞ」 くっと喉の奥で笑ってもエリナードには聞こえないだろう。もう眠っている師だった。居間でカレンは一人、いつかエリナードがしていたよう酒を飲む。 こうして自分がいる、それだけで師は態度を改める。疲れすぎているぞ、と弟子に無言のうちにたしなめられたのを感じるのだろう。だからこそ、こうやって時折は泊って行くカレンだった。隣家なのだから、帰ってもかまわない。隣家だからこそ、わざわざ帰る必要もない。どちらでもかまわなかった。 「……ん?」 ふと眉を顰め、カレンは精神の遮蔽を一層厚くする。常ならば無意識に発動させているものだった。精神の内側で会話をする魔術師ならでは。だからこそ、意図しない接触を防ぐため、遮断は常日頃から欠かさない。 カレンも修行時代には内心の声が漏れてしまって困ったものだった。何度エリナードに笑われたことだろう。思い出すだけで顔から火を噴きそうだった。おかげで鍛錬にはなったが。 その充分以上に優秀なカレンの遮蔽を通して聞こえてくるもの。エリナードの思念。自分の声だけではなく、相手の声をも断つはずの遮蔽が効いていない。 「あの馬鹿親父。なんて夢見てやがる」 正確に夢の内容までわかるわけではない。ただ、感じるだけだ。とんでもない悪夢だと。声としてはっきり聞こえていないにもかかわらず、背筋が冷える。それほどの悪夢。 「しょうがねぇな」 酒杯を煽り、残りの酒を喉の奥に放り込む。かっと焼けるような酒を若き日のライソンは好んだものだった。それをちらりと見やっては微笑み、カレンは立ち上がる。エリナードの寝室へと。 「ったく」 こんなところを見られでもしたら何を言われることか。いまだにエリナードの愛人扱いされることが多々あるカレンだ。エリナードに憧れはある。それはそれで事実だ。が、魔術師としての憧れであって、女としてならばあの男だけは願い下げだと思っている。 「信じてもらいたいもんだぜ、いい加減によ」 師弟揃って言い続けているにもかかわらずなのだからそろそろ諦めるべきは自分たちのほうか、苦笑しつつカレンは扉を開く。 途端に顔を顰めた。居間と寝室に別れていても感じた悪夢。同じ部屋にいれば鮮明に感じてしまった。内容がわからないのがせめてもの慰め。互いに見たいものではない。まして師は弟子に見せてしまったことを悔いるだろう。意外なところで意外と繊細な男だとはカレンは知っていた。 「師匠」 魔法灯火を灯せば額に張り付く金髪。脂汗に塗れていた。敷布を握りしめた指が真っ白になっている。食いしばった歯が、見ていられない。乱暴に起こそうとするのは焦りから。 「な――!」 その手が、弾かれた。愕然とするほどの痛みを伴ってカレンの手は跳ね返される。瞬間エリナードが跳ね起きた。 「なに!? ってお前かよ、カレン……」 長々と溜息をつかれてしまった。そうしたいのはこちらだ、と普段のカレンならば言い返す。いまは驚きが強すぎた。いまのはいったい何なのだと。 「悪い、弾いたか?」 「……えぇ。なんすか、いまの」 「結界だよ」 短い言葉。エリナードがすでに感じていることをカレンもまた悟る。弟子を悪夢に巻き込んだと思っているのだろう。内容は見ていない、そう言ってもよかった。が、カレンは言わない。いずれにせよ巻き込んだと悔いる師でもある。 「結界? なんすか、それ」 「だーかーらー」 「いや、そうじゃなくて!?」 勉強が足らん、とでも言い出しそうなエリナード。カレンに目だけで感謝する。それが通じる弟子と彼もまた知っている。 「結界は知ってますよ、私だって! おかしいでしょ!?」 「だから、なにがだよ?」 「強度がだ! 他に何があるんですか!」 眠っている間に結界を発動させるくらい一流の魔術師ならば誰でもやる。問題はその強度。いまのエリナードのそれは「結界」と言う事象を超えている。カレンはまじまじと手を見る。 「ちょっと見せな。――悪い、赤くなっちまったな。怪我させる気はなかったんだがよ」 腫れるまでは行っていないが、打ちつけたよう赤くなっていたカレンの手。エリナードは軽く取っては打ち身の薬をつけてやる。いつ取り寄せた、と思うほどの魔法の鮮やかさだった。 「だから、師匠!?」 「うっせぇなぁ。男の寝込みに襲撃かけといて怒鳴るんじゃねぇよ」 「そんなことはしてねぇでしょうが!? いいから師匠!」 くつくつと笑う師の顔色。少し良くなっただろうか。こうして他愛ない話をしているだけで楽になる気というものがある。最近になってようやくカレンにもわかるようになってきた。勘づいたのだろうエリナードが照れくさげに片目をつぶった。 「だからただの結界なんだっつの。強度が破格なだけだ」 「あのな、師匠。たかが結界になんでそんな強度を求めたんだあんたは!?」 なんという言い草だ、エリナードは大きく笑う。深い呼吸をするように。いつの間にか寝台の横に椅子を引っ張ってきたカレン。話を聞くまで帰る気はないとの表明。まるでそれは気分がよくなるまで傍らにある、とでも言うような。 ――ったく。師弟揃ってなにやってんだかな。 カレンではなかった。己が弟子であったころのこと。強靭な師は寝込むなどしたことはなかったし、弟子に心配させるような師でもなかった。それでも無茶はする男だった。できる範囲でやっている、本人は言っていたけれど、何度エリナードはその傍らにいたことだろう。いま自分の弟子が同じことをしていた。あるいはかつての師と同じことをしている自分の側に。 「んー、必要に迫られて、だな。元々は」 いい加減な返答にカレンの眼差しが険しくなる。ただの事実だったのだが、カレンには信じがたいことでもあるだろう。 「だからな、俺は連れ合い以外と一緒に寝たいとは思わねぇんだよ」 「は……? つまり、そういう?」 「ちょっと違う。って赤くなってんじゃねぇよ」 「なってねぇわ!?」 見慣れているカレンでも時折はじっくり眺めたくなるほど美しい男だとは思っている。もっともカレンにとっては芸術品を鑑賞する気分のほうがまだ近いが。だが普通は違うだろうとはわかっている。よもや夜這いでもかけられることがあったのかと。否、ないはずがないとも思ってしまった。それをエリナードは笑って否定する。 「いや、夜這いじゃねぇんだけどな。ある意味夜這いっつーかもっと質悪いっつーか」 「言いたいことがあるならはっきりどうぞ」 「師匠だよ」 「……は?」 「師匠が俺のベッドにもぐりこんで来んだ。一応は気ぃ使って起こさないようにしてくれるんだけどよ……」 「それ、叩き起こされたほうがましじゃねぇんですか?」 「お前もそう思うだろ? だから結界の強度上昇に努めたんだよ、俺は」 疲れたようエリナードは笑う。疲れたいのは自分のほうだとカレンは溜息をつく。どんなところだと思ってしまう、星花宮とは。己もまた星花宮の出身であるにもかかわらず。 「タイラント師とよ、痴話喧嘩して。愚痴言いに俺んとこに来るんだけどな、俺は寝てる。で、悪いからってそのまま隣で寝やがる」 「……吐いていいですか」 「俺だって当時吐きたかったっつーの! どうせ朝になって聞かされんのは愚痴じゃなくって惚気なんだからよ」 それではないだろう。カレンは思ったけれど言わない。己の師も変わり者だとは思っていたがフェリクスは輪をかけておかしい。冷え冷えとした弟子の眼差しをエリナードは笑う。 「それで結界の強度がおかしい、と?」 「言わば自衛だな。俺だって黙って師匠にもぐりこまれたかねぇや」 「ちなみに、成功したことは?」 「なぁ、カレン。お前は出来のいい弟子だと思ってるんだがな?」 にやりと笑うエリナード。要するに結果は全敗、と言うことだろう。しみじみと呆れてしまう。じっと自分の手を見ていた。赤くなったその手。あれほどの結界をおそらくはエリナードを起こしもせず易々と突破して見せるフェリクス。 「――先は長ぇな」 魔道はどこまで続くのか。いまだ自分はエリナードの地点にすら到達できていないものを。 「引き返すか?」 「まさか! そうだ、師匠」 「……なんだよ?」 そのときには悟るものがないでもないエリナードだった。寝台の上から警戒もあらわな眼差しを向けられるとカレンでも溜息をつきたくなる。 「あんたは乙女か。別に襲いやしませんよ。いや、襲おうと思ってますけど」 「おい」 「今後は私が襲いますから。結界の破壊実験、付き合ってくれますよね、師匠」 「俺を寝かせる気はねぇのか、お前は!」 声を荒らげつつも器用に笑うエリナードだった。ふふん、と鼻で笑って既定の事実はすでに告げた、と背を返すカレン。その後ろ姿を見ていた。 「馬鹿娘め」 もう、悪夢は見なかった。 |