全身を泥のような倦怠感が包んでいた。 イメルとエリナードはいまリィ・サイファの塔にいる。カレンはいまごろ塔の別室で一人、魔力の奔流に耐えているだろう。リィ・サイファの塔、管理権委譲だった。 「すごいよな、お前」 ゆっくりと腕を持ち上げ、半ば寝そべっていたイメルが強壮酒を注ぐ。エリナードは似たような姿のまま軽く片手を上げて受け取った。 「なにがだよ?」 わかっているだろう、とイメルが悪戯に彼を睨んだ。それにはエリナードも小さく苦笑する。慎重に酒杯に唇を当て、酒を飲む。昔だったらリオンの酒だった。いまでもこれはエイシャ神殿の蜂蜜酒。何かと縁が絶えず神殿とは長らく関係が続いていた。 二人の前には幾皿もの食べ物や酒、茶の用意までできている。動く気にもならないほど疲れる、とわかっていた二人だった。あまりこのような姿を見せたくなかったエリナードはファネルをここに伴っていない。見ればファネルはイメルやカレンに文句の一つも言いたくなるに決まっている。そんな自分に小さく彼は口許だけで笑った。 二人がここまで疲労をあらわにする理由、管理権委譲に伴う魔法空間再構築以外の何物でもない。だが、この程度で済んでいる、とも言う。二人は闇エルフの子ではなく、真言葉魔法を操る膨大な魔力があるわけでもない。 それがイメルが感嘆する理由だった。エリナード考案の新術式。イメルは実感がある。フェリクスよりこの塔を委ねられたのは彼だった。そして当時のことを思い返せば、自分がフェリクスの位置に立てるとは思えなかった。エリナードが補佐をする、と言ってくれてようやく安堵したものだったが。 結局エリナードは新術式を編みだした。イメルすら唖然とするほどの画期的な方式で、これならばあるいは自分一人でも大丈夫かもしれない、そう思ったものだった。それでも手伝ってくれたエリナード。ちらりとイメルはフェリクスを思う。彼が息子と呼んだ魔術師を。いまは怠惰にだらしなく寝そべって酒を飲んでいた。 「まぁ、無事に終わって何よりだぜ」 「色々言われてたもんなー、お前」 「そりゃ言われんだろうよ。俺だって立場が逆だったら言うさ」 肩をすくめた拍子に酒杯が揺らぐ。よほど疲れているのだろうとイメルは感じる。自分も似たようなものだった。体中から魔力が絞られた気がする。それでもエリナードが共に儀式に臨んでくれたからこそ、この程度。カレンと二人で行っていたならば今頃二人揃って身動きもままならなくなっているだろう。 「でも、お前だよ?」 エリナード考案の術式を塔の委譲で試す、と聞いた魔術師の一部が反発をした。ぶっつけ本番で貴重極まりない魔道書が存在し、魔術師の象徴とも言えるリィ・サイファの塔に何かがあってからでは遅い、と。 その言もイメルはわからなくはない、と思う。が、彼らはエリナードを知らない。天才の名をほしいままにした華やかな魔術師、氷帝の後継者に相応しい傲慢な男、そう思っている者は魔術師にもいる。 けれどイメルは知っている。エリナードが見えないところでどれほど努力を重ねているかを。実験を繰り返し、何重にも安全策を取ったことを。 「お前はさ、あの術式でさ、万が一のことがあったら魔法の反動は全部自分が被るようにしてただろ?」 それだけは反対したいイメルだった。カレンを守ると言うのならば自分もだと。師弟と言うのならばカレンは彼の弟子。けれど自分の後継者なのだから。改めて不満そうなイメルにエリナードは目で笑う。 「……師匠が、そうしてたからな」 「え? ……フェリクス師、が?」 「おうよ。お前、覚えてるか。エルサリスのこと」 忘れるはずもない。「星花宮で一番まともな弟」のことは。イメルが懐かしそうな目をする。もうこの世にはいない大事な弟だった。 「あいつがさ、魔力を枯らすって言ったときな」 共に生きて行く人ができたから、その覚悟の意味で魔力を枯らしたい、言ったエルサリスにフェリクスは渋い顔をしながらうなずいたものだった。本来は封印で済ますものだった、どうしても、と望んですら。危険以外に理由はない。そして枯渇の魔法を発動させるとき、エリナードは感覚した、万が一の危険はすべて自分が被るよう魔法を組み立てていると。フェリクスは、そう言う男だった。 「……そっか、そんなことが、あったんだ」 イメルの目もまた懐かしそうに、同時に痛そうに。イメルは覚えている。優しい人だったと。どれほど慈しまれたか、星花宮の魔術師たちはよく覚えている。その優しい男を痛めつけた自分をイメルは忘れていなかった。 「だから、かな。俺も癖でつい、そうしちまう。師匠のせいだな、これは」 「いまでも憧れのフェリクス師?」 「お前に言われたくねぇよ!」 言外にタイラントに憧れているのは誰だ、とエリナードは言う。イメルとしては自明すぎて返答をする気にもなれない。 「でもさ、エリナード。ちょっと、聞いてもいい?」 「なんだよ?」 「あの術式、けっこう前から考えてたんだろ、お前」 そう簡単にできた術式だとは思えなかった。そもそもリィ・サイファの塔の存在そのものが例外的に過ぎる。これほど広大な魔法空間を持ち、かつ管理者が代替わりしてまで続いている、などと言うのは他にはない。 「まーな。星花宮を追放された辺りからずっと暇みちゃ作ってたぜ?」 「あ……。やっぱり、そっか」 「当時の師匠は俺を後継者に据えるつもりだっただろうしな」 フェリクスがカロルから委譲されたばかりのころをエリナードは知っていた。数日前に委譲の術式を終え、そして身動きできないから面倒を見に来い、と呼びつけられた思い出。ふと目がどこか遠くを見やった。 「自分で使うつもりで、やっぱり作ってたよな、お前だってさ」 イメルは静かに酒をすすっていた。果物の甘煮を口に放り込み、酒で流し込む。合わないこと甚だしかったが体力の回復にはなる。 「いいや?」 エリナードが不思議そうにそう言ったのをイメルは首をかしげて見ていた。意味が、わからなかった。新術式を考案し続けていたのは、ではなぜだと。そのイメルの顔の前、炒った木の実が飛んでくる。 「ちょっとエリナード!? なんでお前そんなに元気なんだよ!」 「元気じゃねぇよ。元気だったら殴ってらぁ。――お前な、魔術師だろうが? 手を入れられる術式があったらやりたくならねぇか? それだけだっつーの」 「そもそも委譲の術式を知ってることがどうなんだよ?」 フェリクスが教えたわけではないだろう。ただ、自分で調べるならば止めはしない師だったともイメルは思う。エリナードは自力で術式を探り出し、そして改良し続けていたのか。 「そもそも、だ。俺と師匠だったらこんな術式いらねぇよ」 「え、なんで?」 「魔力的な相性がいいからな。タイラント師を除けば俺が一番相性よかったはずだぜ」 だから込み入った術式は要らない。右手から左手に物を移すのと象徴的な意味では変わらないのだから。エリナードの言っていることは理解できるが、現象そのものは理解の外のイメルだった。 「理論は納得できるけど実現可能かって言われたら笑い飛ばすよなってやつだよな、お前たち師弟のそれって」 「それは同感」 にやりとしたエリナードだった。いまでもフェリクスを思うとき、彼の目には懐かしさと同時に痛みが浮かぶ。何かができたはず。なにもできなかったと理解していてすら、何かができたはずと思ってしまう。そう言うものかもしれない。 「魔力の相性って言やな、お前……。師匠の指輪、知ってたか?」 「なにそれ。知らない……ってあれか!?」 「なんだ、知ってたか」 ほっと息をつくエリナードにイメルは申し訳なくなる。それで悟ったのだろうエリナードが気にするな、と目で言った。 「アリルカで、ではないよ」 「だろうな」 「昔さ、師匠がこっそり見せてくれたんだよ。俺が名前を許された頃だったかな。あぁ、そうだ。最初の旅から帰ってきてすぐだったっけ」 「へぇ、タイラント師が?」 「うん。見せたのはフェリクス師に内緒にしといてって言いながらさ。ちょっと不思議だったんだよ、なんで俺に見せてくれるのかなって」 美しかった。イメルも魔法の使い手、それも星花宮の名を許された魔導師だった。それがタイラントのものでもフェリクスのものでもない魔法だと見てすぐに気づいた。それでも素晴らしく美しかった。誓約の指輪の代わりに、と刻印された魔法の証。タイラントの吟遊詩人らしい繊細な指の上で輝いていた。 「そしたらさ、師匠。なんて言ったと思う? たぶんエリナードは知ってるから、君にも見せておくよって言ったんだ! やっぱりお前も知ってたんだって今更知ったけどさー。いつから知ってたの?」 「んー、いつだっけ。十八歳くらいかな」 「って早いよ!?」 「偶然だったんだって」 疲れたフェリクスの制御が緩んだ一瞬、エリナードの魔力に感応しては輝いた指輪の魔法。あのときのフェリクスの嬉しいような照れくさいような眼差しをいまでも覚えている。 「そんときだったぜ、魔力の相性が抜群にいいんだって話をしたのは」 本来はフェリクスとタイラントにだけ反応する魔法。それが何の弾みかエリナードに反応してしまった。あのときのフェリクスは笑っていたけれど、驚きもしたのではないだろうかといまのエリナードは思う。 「魔法って、信じがたいことがまだまだ色々あるよな」 「研究の進んだ分野って言ってもな、わかんねぇことはまだあるしよ。俺と師匠の話だってそうだぜ? 単に魔力の相性の問題だったのか、根本的に最初の術式に緩みがあったのか、現時点ではまだわかんねぇからな」 「わからせたい、エリナード?」 「……こればっかりは、解明したくねぇ、かな。ま、あれだ。師弟の秘密? 浮気の証拠? そんな感じだよな」 「あのな、エリナード。お前が言うと洒落にならないんだよ!?」 「俺が言うから洒落なんだろうがよ」 からからと笑いエリナードは酒杯を干す。どうする、と目顔で尋ねればもう少し、と要求された。痛んでいるのだろう、体が。足の不自由なエリナードだった。こうして魔術師としての体力である魔力を削れば肉体に不具合が出るのは当然というもの。イメルの呪歌でもまして薬で解決がつくことでもなく、体力を回復させるよりない。だからファネルを伴わなかったのか、とイメルははじめて気づく。 「ファネルもさ、知らなかったみたいだよね」 連想が指輪に戻った。アリルカでのフェリクスは生きる屍のようなもの。指輪の話どころかエリナードのことさえ一度たりとも口にしなかったフェリクス。 「そりゃそうだ。あんときの師匠と俺は繋がってたようなもんだからな。漠然とではあるけどよ、わかることもある。――師匠は、何も言いたくなかった。何も見たくなかった。証の指輪? そんなもん存在するはずねぇだろうが。タイラント師がいないんだぜ? 息子がいるはずねぇだろうが、連れ合いがいないってのに」 そっとエリナードは片手で胸元を押さえていた。ずっと繋がっていた。過去の事件の後遺症だったのだろう、フェリクスとは互いに強い感情は筒抜けだった。その場所がいまはもう何も語らない。ぽっかりと空いてしまった、他の誰でも埋められない穴だけがそこにある。 「フェリクス師のことだけど……。聞いてもいい、エリナード?」 「なんだよ?」 改まって問うようなことか、訝しげな顔の友人にイメルは力なく笑う。フェリクスのことは、彼にとっての傷。離れ離れにならざるを得なかった師弟。その原因を作ったのは、自分。 「あぁ……そういうことか。お前、まだ気にしてんのかよ?」 「え……。顔に出てた?」 「おうよ。あのな、イメル。気にすんなって言っても仕方ねぇんだろうけどよ。俺と師匠はあれでよかったんだ。師匠の下を離れて俺が開発発展させた魔法がどれだけある。俺がいなくなって師匠が作り出した魔法がどんだけある。お互いにそこにいちゃだめな時期にもう来てた、それだけだ」 「……でもさ」 「まぁな。アレクサンダー王のアレがなきゃな、それで済む話だった。師匠が象徴的な意味で殺されなきゃ、お前だってここまで気にしなかっただろうよ」 実際に殺されたのはタイラント。イメルの師で、それに狂乱したこともあったイメル。けれど同時にフェリクスまで逝ってしまったのだとは、当時は理解が及ばなかった事実。エリナードは知っていたのだろう、悟っていたのだろう。胸の奥で語る師の心が。 「……フェリクス師がさ、ずっと内緒にしてたことがあっただろ」 「指輪?」 「じゃなくって。ファネルのこと。ファネルは知ってたらしいけどさ、当時から。俺は、フェリクス師が亡くなってから、はじめて聞いたんだ」 ファネルから語られた彼らの関係。度肝を抜かれる、とはこのことかと思ったものだった。言ってみれば相性がいい、それだけだと思っていた。よもや親子だとは想像もしなかった。 「そりゃな。そういうことを口にするような……人ではあったけどよ」 苦笑してエリナードはまだ胸に当てたままだった手を離す。顔の前に持ってきては一度その手を見つめた。幼いころのみならず、長じても手を繋いで離してくれなかったフェリクスのぬくもりを幻視した。 「だろ。お前のことはうちの子、僕の可愛いエリィ、僕の息子って何度も言ってたじゃん。なのに、さ」 「ファネルのことは秘密だった? ちょっと、わかる気はするかな」 「なんで!? 理由がわかるんだったら教えて!」 息せき切って言い切ったイメルだった。半身を起こしかけたはいいけれど、体力が追いつかずに再び倒れる。そんな親友をエリナードは笑っていた。 「たいしたことじゃねぇし、言うとお前絶叫するぜ?」 「いいから言えよ! わかるんだったら知りたい!」 「――恥ずかしいから?」 「はぁ!? ちょっと待てエリナード!? そんな馬鹿な! そんな理由アリ!?」 「ほら、叫んだ」 くつくつとエリナードが笑っていた。不意にイメルは驚く。その笑い声、フェリクスのそれと酷似していた。体格が違う、顔形も違う。声など似てもいない。それなのに、不思議と。 「師匠にとっちゃそれだけだったろうさ」 彼が正気であったのならば。タイラントを失っていなかったのならば。飲み込んだエリナードの言葉。精神に接触してはいない。それでもイメルには聞こえた。 「アリルカでの、理由は?」 「そっちも簡単、だな」 「……そっか」 「あぁ。俺を思い出すから、だな。ほらな、たいした理由でもねぇ。簡単なことだろ」 横たわったまま肩をすくめるエリナード。イメルは言葉がない。エリナードがラクルーサを追放され十余年。師弟が会う機会はさほどなかっただろう。互いに魔術師のこと、会っていないとはイメルは思ってもいない。実際この塔で会っている、とエリナードは言っていた。 けれど、たったそれだけ。星花宮では「浮気相手」と揶揄されるほど共にあった師弟。タイラントを失った瞬間、二度とエリナードはフェリクスに会えなくなった。 「――原因を作ったのは俺なんだ。お前が何を言ってくれたとしてもさ。それは事実なんだ」 「まぁな。結果的に事実ではあるよな」 「いまだから言うけどさ。だから俺はフェリクス師の後継者なんだ。自分のした過ちを二度と繰り返さないように。誰かが繰り返すことのないように。償いようのない罪だからこそ、記憶を継ぐ」 天井を見てイメルは口にした。フェリクスの後継と発表されて以来一度も口にしたことはないことだった。エリナードは悟っているだろうと思ってはいたけれど。案の定エリナードは何も言わない。それがお前の道ならば、そんな風な眼差しを感じる。まるでフェリクスのようなその眼差しを。 「もしうちの師匠が元気でいたとしたら、フェリクス師の後を承けてこの塔を管理するのは絶対にお前だった」 「だろうな。師匠もそのつもりらしかったって言っただろ?」 「お前、それでよかったの?」 カレンに委ね、はじめてイメルはそれを問う。重荷を下ろした気分なのかもしれない。あるいは、人生の最後の道。長年の親友に問いたいことは問うておきたい、そんな気分でもあるのかもしれなかった。 「んー、どっちでも? あのな、イメル。俺はお前と会って何年経った? ガキん時から言い続けてるよな? 俺は俺、お前はお前。いずれどうであれ、俺たちは自分なりの魔道を進む。進み続けて、ここまで来た」 エリナードの魔力がすぅ、とカレンに向けて流れて行く気配。イメルは流れを目で追うことはせず同調する。いまもまだ塔の再構築に続けてその支配と、苦労しているカレンだった。別室で一人苦闘する弟子へ助けの手を伸べたエリナード。イメルは小さく笑った。わずらわしそうな文句が聞こえ、そしてけれど嬉しそうにその魔力を受け取るカレンがいる。 「ったく、なんでこうなっちまったかなって思わねぇ? 師弟脈々とこれかよ!」 仲がよすぎて関係を疑われているのはエリナードとカレンも同様。ふとイメルは悟る。誰かにそう言われるたびにエリナードは痛みをこらえてきたのだと。会うことのできないフェリクスを思っては。 「結果的に、だけどよ。お前が塔の管理者で助かったんだぜ? 俺は同盟立ち上げてそっちで忙しかったからな。塔の管理まで手がまわらねぇよ。それまでやってたらカレンが疎かになる。それは絶対に避けたはず。となるとな、どこを疎かにするよ? 同盟だろうが」 「でも、それをするとお前の計画がだめになる」 「だろ。ラクルーサのせいで魔道は一歩も二歩も後退してた。それを避けるためにはじめたはずの同盟だ。どう考えても――」 「どこも疎かにできない、か」 「だろうが? お前なら気心知れてるしよ、押しつける相手としちゃ最適だな」 「ってそれはないだろ!? そう言う問題かよ!」 「俺にとっちゃその程度の問題だぜ?」 名誉も名声もいらない。否、すでに得ている。エリナードにとって最大の名誉は。 「フェリクス師の後継者の名だけで充分?」 「……内緒な?」 珍しいエリナードの口調にイメルは目を瞬く。それから悪戯っぽく彼は笑った。まるで星花宮の幼い子供に返ったかのように。 「俺の最大の功績はな、カレンを育てたことだ。最大の名誉はあいつの師匠であることだ。――これで師匠に顔向けできるぜ」 横たわったままふい、と顔を背けるエリナード。イメルは笑い出しそうだったはずなのになぜだろう、気づけば泣いていた。 「なんでお前が泣くんだっての!」 「わ、わかんない……なんでだろ、なんか……す、ごく……なんでかな……」 「俺が泣かしたみたいだろうが」 ぽい、と飛んできたのは枕代わりのクッションだった。投げつけられたそれで顔を覆い、イメルはしばし感情のままに。遠くカレンの訝しげな響き。なんでもないよ、と心の奥で言えば面倒くさそうに肩をすくめた気配。 「俺……お前たち師弟にどんだけ助けられてるんだろ……、俺……」 「あのなぁ、師弟ってどっちだよ?」 「全部だよ! フェリクス師とお前とカレンと。お前たち全部だよ!」 「そんだけお前が頼りないんだっつの」 うんうん、とイメルがうなずいていた。粗忽で率直で朗らかなイメル。救われているのは自分たちこそだとイメルは知らないのだろうか。フェリクスもまたそうだったはずとエリナードは思う。否、知っている。 「お前はタイラント師の弟子だからよ。なんつーの? 師匠はより一層だめなタイラント師を見てるみたいでハラハラドキドキだったみたいだけどな」 「……褒められてる気がしない!」 「褒めてないからな」 「俺じゃないよ、師匠のことまで言うなよ!」 「でも実際そうだったろ? だいたいあれだ。師匠だってそのだめなところが可愛い、みたいに思ってたんだぜ?」 「……可愛いはないだろ」 「思ってたんだから諦めろ。俺が言ってんじゃねぇよ」 「あ……エリナード」 ぽん、と投げ返してきたクッション。もう泣いてはいなかった。その感情の波の激しさが風系だと笑えて来る。 「なんだよ?」 「もしかしてさ、だからフェリクス師はお前のことずっと『可愛いエリィ』だったの!?」 「脈絡どこ行った。帰って来いよ!」 「どこにも行ってないよ! 話の筋は間違ってないだろ! 師匠を可愛いって、それ、つまり愛してるってことだろ? お前のことだってだからそう呼んでたのかなって」 「そのものずばり愛してるよって言われたこともあるけどな」 「ちょっと待てエリナード。それはまずい。絶対まずい。だいたい俺、師匠に言ってるのだって聞いたことないぞ!?」 「ないだろうな。師匠、タイラント師には言わないって言ってたし」 「それでお前には愛を語る? ……間違ってるだろ、それ。間違ってるのになんでだろ、すっごく懐かしくって、なんて言うんだろ……」 もう一度会いたいだとか、当時に戻りたいだとか。言いたいことはいくらでもある。けれどそれではない。似ていて、遥かに違う何か。 「ガキのころってのは懐かしいもんだろ。――俺はな、懐かしいって思える子供時代を作ってくれた師匠が一番すげぇと思ってるよ」 生家から追われた二人だった。あのころの魔術師は多かれ少なかれそのようなもの。それなのに二人の心には思い出がある。温かく思い出せる子供時代の情景がある。 「学院は、そんな場所になれてるかな」 エリナードが立ちあげ、運営に携わり続けてきたイーサウの魔法学院。学院長の座こそとっくに退いたもののいまでも助言は続けている彼だった。一度は徹底的な改革を施した場所でもある。 「なれてりゃいいな、とは思う。まぁ、孫ガキ見てるとなかなか難しいみたいだけどよ」 「ニトロ? いい子だと思うよ。物事を斜に見てるとことかさ、ちょっとひねくれたお前って感じ」 「どう言う意味だよ?」 言えばふふん、とイメルが笑った。内気すぎた子供時代をからかわれていたのかもしれない。カレンの弟子であるニトロは難しい子供時代を送った。友人を失い、それでも這い上がり、ここまで来た若き魔術師。 「続いてくよなぁ」 遠く、どこかでフェリクスに届けとばかりのエリナードの呟き。死んだはずの師だった。胸にあった彼の場所はもう何も語らない。それでもどこかで生きている、そんな気がしてならない。そう思う自分を内心で小さく笑った。 「だよな。続けて行かなくちゃ。俺たちが歩いてきた道をさ、カレンが続けてくれる。カレンの弟子が、ニトロでもいいけど、誰かがさ、また歩いて行くことができるようにさ、できるだけまだ頑張ろうと思ってるよ」 無言で片手を上げたエリナードだった。イメルは彼の姿に照れを見る。そんなところもフェリクスに似ている、そう思えてならない。年経るごとにエリナードがフェリクスに似てくるような。親子とはそんなものかもしれないが。血など一滴も繋がっていなくとも、彼らは親子だと。かつてリオンから彼らの秘密を聞いたイメルは思う。 「なぁ、エリナード」 いまならば、その秘密を明かしてもいいような気がした。けれどイメルはそこで言葉を止める。エリナードは内容まではわからないだろう、けれどイメルの思いを感じ取ったかのようにやりと笑った。 「ちょっと秘密の暴露をしようかと思ったんだけど、意味ない気もしたし、やめとく」 「おうよ。別にいいぜ? どうせ師匠絡みだろ」 「まーね」 肩をすくめたイメルだった。イメルが言う気を失くしたのならばエリナードはそれでよかった。いずれ彼もまた懐かしいフェリクスを思い出していたのに違いないのだから。ふとエリナードの唇が笑みを刻む。 「だったら俺から暴露を一つ」 「ん、なに?」 「お前。悪魔フォルニウス、わかるか?」 「えー、なんだよ急に。なんだっけ? えーと、言語学とか修辞学とかに詳しくしてくれるって誘惑する悪魔だっけ?」 星花宮で学んだことの中には、いくつか人目にさらすべきではないこともある。悪魔学はその一つ。退魔ができない魔術師は片手落ちだから、と学ぶのだけれど、逆に言えばそれは召喚も可能、と言うことでもある。だから星花宮出身の魔術師たちはあまり語りたがらない。危険視されるのはごめんだった。が、ここにいるのは共に学んだ兄弟のようなもの、エリナードもためらいはない。 「そうそう、それ。――それがサガの正体な?」 「へぇ。サガねぇ。――サガ!? ちょっと待て、猫、猫、子猫!? 元使い魔だったって言ってた記憶はあるんですけど!? ちょっと待てエリナード!」 「だからでかい声出すんじゃねぇよ、頭に響くだろうが」 「二日酔いかよ!?」 錯乱気味のイメルをエリナードは笑った。こう言う反応をするだろうな、と思っていたからこそ、いままで言わなかったのだが。 「驚いただろ?」 「そう言う問題じゃないだろ! ていうかな、お前。いつ知ったんだよ」 「その場で」 「……はい?」 「俺を助けてくれたのはサガだって、聞いてたんだろ?」 それは聞いていた。フェリクスが自分を助けてくれた。愛弟子エリナードを後にまわしてまで、フェリクスが助けてくれた。タイラントは言っていた、君は彼が庇わなかったならば即死だったと。エリナードは致命傷で済んだ可能性があると。神官がごろごろとしていた王宮、まして星花宮にはリオンがいた。エイシャ女神の総司教がいたのだ、あの場には。最悪の場合でもエリナードは回復が可能だったかもしれない。それでもなお、不可解であった事実。 「いや、違うぜ? お前が想像したようなことじゃない。師匠は間に合わない覚悟をしてたらしい。俺がずたぼろになったとしても、俺に恨まれたとしても、お前の命を優先した、それだけだ」 「そんな……」 「そう言う男だったろ?」 ふっとエリナードの目が和む。恨むはずなどない、彼の目が語っていた。仮に回復不能の傷を負ったとしても、エリナードはフェリクスを恨まない。そんなことは微塵も考えたことがない、そんな彼の目。 「偶々な、サガが遊びに来てたらしいんだ。で、飛び出した師匠追っかけてみたらびっくり魔法事故だ」 「それで、サガが?」 「おうよ。悪魔のくせに師匠が喜ぶ顔が見たかったとかって言ってな、俺を助けてくれたんだ」 あの声の響きをエリナードはまだ覚えている。きっとイメルもだろう。彼からもらった示唆でエリナードの魔道は一歩も二歩も進んだ。面白そうに遊んでくれていた子猫のサガ。 「ぐっちゃぐちゃで、もう猫の形なんか残ってなかったぜ? まだガキだった俺の手の中に入っちまうような有様だ。それなのにサガは笑ってやがったぜ」 よかったと言って。フェリクスを喜ばせたかったと言って。少し照れたような、くすぐったそうな笑い声。 「――師匠はな、サガを元の悪魔の形に戻して、魔界に帰したんだ」 「……はい?」 「師匠によると、サガはどうも魔力不足でおうちに帰れなかったらしくってよ。でもここに超強力な魔術師がいた。お前も魔術師なら血の魔術はわかるよな? 魔術師の血にこめられた魔力ってもんがわかるよな? 師匠は自分の血で、サガを元に戻した」 滴った鮮血をエリナードは覚えていなかった。サガの体にかかった瞬間、吸い込まれるよう子猫の体が変化して行ったとしか。 「で、正体はフォルニウス。師匠は知ってて付き合ってたんだってよ」 「はいー!? それってアリなの!? ないよな!?」 「ねぇから隠してたんだろうが」 「そりゃそうだけど! でも俺にまで隠すなよ!」 「お前にだから隠してたんだっつの。粗忽なお前がどっかで笑い話にでもしたら破滅だろうが」 「そんなこと――しそうだよな、俺」 勢い込んで言ったくせ、イメルは最後のところで自らを見つめたらしい。当時の自分ならばどうだっただろうかと。現にイメルはエリナードとライソンの歌を歌っている。後先考えずに。よい話だと思って、歌にしてしまったその結果。 「さすがにな、これはばれたら物凄い問題になるだろうが」 「問題とか言う問題じゃない気がする……」 「だろ? 師匠が子猫と友達付き合いしてましたってのと、闇エルフの子が悪魔と手を組んでました、は全然違うだろ?」 「でも、そういう話になりかねなかったよな……」 「だから、黙ってた」 「あのころから?」 「あのころから」 いまとなっては年の差など気にしたこともない。けれど子供のころには大きかった三歳の差。ふわふわと生きてきた己を省みるイメルだった。 「ま、風系だし。そんなもんだろ。別に気にするようなもんでもねぇさ」 「それを言い訳にしちゃだめだと思うんだよね」 「いいんじゃね? 俺なんか水系が突っ走んのなんか当たり前だってあっちこっちで言ってまわってたしよ」 「突っ走んのは火系だろ……」 「突っ走り方に違いがあるだろうが。あいつらは燎原の火。こっちは鉄砲水。一応な、水系は立ち止まるんだぜ? でも結局めんどくさくなって」 「結果、鉄砲水? 一緒だよ!」 風系魔術師としてはそう言いたくなるだろう。エリナードも思わなくもない。なにしろ地系魔術師は泰然自若とする傾向が強い。結果的に火系水系の暴走被害を被るのは風系だ。 「まーねー、別にそれが嫌ってわけでもないしさ。お前とかミスティとか。後始末をして回るのも嫌いじゃなかったしさ」 「俺がお前の尻拭いしたことが何度あったっけな?」 「言うなよ!」 笑うイメルにエリナードも笑う。互いに手を貸しあい、助け合ってきた星花宮の兄弟。四人の兄弟でいまも生きているのはもう二人きり。寂しくはある、けれど道を歩き切った彼ら。彼らに、その弟子たちに恥じないよう自分もまた歩き切りたいものだとイメルは思う。 「なぁ、エリナード。ちょっと相談」 「んー」 「せっかくだしさ、お前。フェリクス師の肖像、作ってくんない?」 「――はい?」 「ほら、水鏡の」 「もうあるだろうが!?」 塔を継承したのち、イメルが自力で作りあげたものだった。エリナードもすでに何度か目にしている。何を今更、と驚いていた。 「正直言って出来に自信がない」 「断言すんなよ後継者!」 「お前だからいいだろ。な、エリナード。一緒に作り直さない?」 自分がタイラントの肖像を作り直す、だからお前も。誘ってくれるイメルだった。エリナードは逡巡する。が、一瞬だった。 「おうよ」 にやりと笑って手を伸ばす。互いに横たわったまま、と言う情けない姿ではあった。そのままの格好で手を打ち鳴らせばイメルが笑う。 「ま。とりあえずカレンの再構築が一段落しないとなんにもできないけどねー」 「こっから動けねぇしな。物理的によ」 「だよね」 イメルは笑って周囲を見回す。長椅子と机、なぜか天井。それだけしかない空間だった。「別室」にいるカレンも空間を隔てたどこか、としか今は言えない。ひょいと伸ばしたエリナードの手の中、小さな銀の置物が。 「馬鹿弟子め、漏らしやがったな」 ふふん、と笑うエリナードはどこか満足げ。体中から魔力を絞られていても、どれほど体が痛んでも。 「うっせぇクソ師匠! それくらいそっちで面倒見やがれ!」 どこからともなく聞こえてきた声にぷ、とイメルが吹き出した。またも飛んできたのは今度は花瓶。受け止めイメルは笑い転げる。 「うんうん、順調に進んでるね。こう言うのが飛び交いはじめると後は早い。カレン、頑張れよ」 はい、礼儀正しい返答にエリナードが顔を顰める。拗ねているらしい。塔の再構築が済んだらどんな肖像にしようか。思うイメルの目がエリナードに。 「お前、腹案があったりする?」 目だけでエリナードは笑った。イメルは知る。フェリクス健在であった当時から、彼はいずれ自分が塔を継いだ暁に作り上げるはずの肖像を考え続けてきたのだと。 「もっと早くに言えばよかったなぁ」 無理をしてフェリクスの肖像を自分で手掛けることはなかった。今更気づいて、けれど遅すぎたと言うことはないだろう。 「ま、それもお前らしいさ」 からりと笑うエリナードをイメルは見ていた。傷つけ、苦しめ続けた師弟。だからこそ、カレンにはその轍を踏まずにいてほしい。無用な心配だと思いつつ。 「なにしろカレンはお前の愛弟子だしさ」 「違ぇな」 「あぁ、そっか。可愛い娘?」 途端に飛んできたクッション。銀の置物まで混ざっていたのには閉口した。二人の師がじゃれる様子を感覚したのだろうカレンの呆れた気配。それにもかまわず二人は投げ合いをやめなかった。あるいは語り合っていたのかもしれない。 |