リィ・サイファの塔で仕事をするエリナードの元にファネルはいなかった。一人になりたいときここに来る。それを彼は知っている気がしてならない。
「悪い……」
 思うものの、やはりファネルと共にある方がいまはつらい。なにも彼となにかあった、と言うわけではない。むしろそれならば二人で解決するだろう、自分たちならば。エリナードはそう思う。
「問題が、俺じゃあな」
 どこまでも先の見えない書庫でエリナードは呟く。自嘲の色濃い声だった。ここにいると思い出したくないことまで思い出す。あるいは、思い出したいからここに来る。どちらともエリナードにはわからない。
 黙ってじっと一冊の本を見ていた。いまの仕事に関係のあるものではない。魔道書ではあるが。読むでもなく、無言で本を眺めるエリナードの視線がつ、と遠くを見た。ほどなく現れる人影。
「よ、エリナード」
 軽く片手を掲げて小走りのイメル。昔から仕種は変わっていない、そんなことを思う。少年時代の日のままに大人になった兄弟のような親友。いま、誰よりも見たくない顔だったというのに。
「……おう」
 それでも手を上げ返した。忙しいのだ、そんなふりをして本に眼差しを戻す。イメルの苦笑の気配がした。
「あのな、エリナード。お前がなんか悩んでるって言うか考えてるって言うか。それ、お見通しだし」
「……まぁ」
「ちなみにお見通しなのは俺じゃなくてファネルな?」
 にやりと人の悪い顔をして言うイメル。似合わなかった。どこまでも明るい朗らかな男。そう、見せているのだとエリナードは知っている。彼にもまた傷があるからこそ。
「ちったぁ敏くなれよ、そのくらい」
「お前は近すぎてわかんないんだよ。なんか機嫌悪いなー、くらいしか思ってなかったもん」
 その気持ちはわからないでもないな、とエリナードは苦笑する。血の繋がった兄弟よりなお近いイメルだからこそ、わかるようでわからないことがある。
「で、ファネルに頼まれた」
「なにをだよ」
「話聞いてやってくれってさ。自分には話し難いんだろうからって」
 愛されてるね、イメルは言って笑う。普段のエリナードならば黙って、それでも笑いながら魔法が飛んでくる。いまは何も言わず肩をすくめる。
 ――これは本格的かも?
 内心で顔を顰めれば、接触したわけでもないのに感づいたエリナードが小さく笑った。大丈夫だ、とでも言うようで、まったく信用ならない。
「お前のその顔ってさ、フェリクス師そっくり。どこが大丈夫なんだよ? 全っ然信用なんかこれっぽっちもできない顔だぞ!」
 昔二人の師が存命であったころ、タイラントがよく言っていた言葉。大袈裟に嘆いて言う真似をしたイメルは愕然とする。エリナードがきつく拳を握ってうつむいた。
「あ……悪い。癇に障ったか?」
「……お前のせいじゃ」
「なくっても、気分を害したなら謝る。ごめん」
 潔いな、エリナードは顔を上げイメルを見やっては微笑んだ。その顔にこそイメルは慌てる。こんなエリナードはあまり見たためしがない。それほど頼りない彼の表情。だからこそ、茶化す。それが役割と心得て。
「そういう顔してるとさ、お前が俺たちの中で一番下の弟なんだよなって、思う」
「そんなに変わんねぇだろ!?」
「でも下じゃん、一番!」
 言い返し、言い返され。イメルの励ましと慰めを如実に感じる。エリナード自身、自覚がないわけでもない。こんなときには確かに「弟」なのだと。小さく笑って肩をすくめた。
「で、言えよ。俺にだけでいいからさ。ファネルに言ったりしない。な?」
 肩を寄せ、殊更めかしてイメルが言う。耳元に口まで寄せているのだから子供時分の内緒話気分だ。思わず吹き出したエリナードの負け。それでも。
「……お前だから言いたくねぇんだよ」
 ぽつりと言ってしまった。これが自分の弱いところだ、エリナードは思う。握りしめた拳を黙ってイメルが叩いてくれた。
「ん、了解。見当ついた。あれだな、お前が追放された件。だろ? ほら、俺はわかっちゃったんだし、もういいだろ。言えよ」
 ひょい、とイメルの手が閃いた。ここで長話はしたくない、だから居間にでも行こう。そんなつもりだったのだろう。エリナードが腰を下ろした椅子ごと動かす、魔法で。
「まだ、本。持ってんだろうが」
「いいじゃんいいじゃん。あとで返しに来ればさー」
「そういう問題かよ」
 言いつつエリナードもまた、本を手放そうとはしなかった。それがイメルには訝しい。移動しながらであったとしてもエリナードの腕ならば本を元の場所に戻すくらい造作もない。それでも膝の上に置いたままの本。ちらりと見やってイメルはようやくに納得し微笑む。
 ――そっか。フェリクス師の本か。
 この書庫には歴代の魔術師たちが書き記した魔道書から論文、覚書に至るまでなんでもある。無論、フェリクスの手になるものも。タイラントのものもある。彼の書籍は楽譜が多かった。今度また借りてきて研究をしよう、イメルは心に刻む。
 いつもの居間に戻り、イメルが茶を淹れた。普段ならばエリナードに頼む。彼の茶は美味だったし、ねだるのが楽しい。いまは、黙って座るエリナード。
「ほら」
 手元に茶を差し出され、はじめて気づいたよう顔を上げた彼。そんな自分に苦笑してしまうのだろう、唇を歪めて茶を掲げた。
「やっぱお前の茶のほうがうまいよな。さすが水系?」
「――師匠より俺のほうがうまかったけどな」
「そりゃ大好きなフェリクス師においしいお茶を淹れてあげたい一心だろ」
 いまは本題よりフェリクスの話題のほうが、思ったイメルだった。けれど顔を覆いたくなることにそれが本題だったらしい。
「――師匠さ」
 それだけをエリナードは言う。まずい、と思ったときにはもう遅かった。いつもこれだ、とイメルは天を仰ぎたい。
「ほんとさ……俺。変われないよな。お前が追放されたときだってさ、俺のせいって思って、もうちょっと思慮深くなるって決心して。結局これだろ」
 どうしようもない自分だ、イメルは心底そう思う。こうして数多の人々に迷惑をかけ続けてきた自分。エリナードほどの男が親友といまもなお呼んでくれるに値するとは思えない自分。ぽん、と卓の上に置いたままの手を叩かれた。
「落ち込むんじゃねぇよ。普通は師匠のことでなんか悩んでるなんて思わねぇわ」
「ん……、でもさ。あぁ、そっか。でも、そうだよな。だからお前、ファネルと一緒じゃないんだ。ファネルに言えないんだ」
「ま。そういうこと?」
 肩をすくめたエリナード。事のあらましが明らかになればイメルとて納得がいく。言われる前に気づく自分でありたいというのに。
「でもお前――」
 先ほど追放の件だ、と言えば否定はしなかったではないか。首をかしげるイメルに、だからそれ込みだ、エリナードが答える。
「なぁ、イメル。師匠にとってタイラント師は、なんだった?」
「はい? 何を今更。そりゃ、伴侶? 連れ合い? 大事な彼氏?」
「違ぇよ、間違っちゃいねぇんだけどよ。師匠にとっちゃ、『もう一人の自分』だ」
「魂をわけあった的な?」
「茶化すなよ。俺は師匠の口から聞いてんだっつの。鏡相手に愛を語るほど自分が好きじゃないとかほざきやがったけどな」
「あー、なんか、想像できちゃった」
 在りし日のフェリクスのその口調が。憎々しげでありながらどこか照れたような彼の声。いまもまだ鮮やかに思い起こせる。
「だったらな。俺は、なんだった?」
「え……?」
 空想に耽りかけたイメルを引き戻すほどの重たい声。目の前にいたのでなければエリナードのそれとは信じられなかっただろう。
「俺はな、日常だった。師匠の日常が俺だった」
 ようやく開いた拳をエリナードはじっと見ていた。卓の上に本を置き、傍らに茶。開いた手で表紙に触れる。開きはせずに、ただ。
「観念的には、理解できる気が、しなくはない、かな」
「別に難しいことは言ってねぇよ。師匠の当たり前の毎日には俺がいた、それだけだ」
 幸福だったフェリクス。エリナードを傍らに、タイラントを一歩離れて置き。逆ではないところがフェリクスだ、イメルは思い出しては微笑みを浮かべてしまう。エリナードの眼差しは表紙に落ちたままだった。
「だから、師匠がぶっ壊れた原因の一端は、俺にある。いまも、そう思う」
「な――!」
 椅子を蹴立てて立ち上がった。そうしてから大きな音に驚く始末。慌てて椅子を直すイメルをエリナードが笑う。座りなおしたのを見定めて、今度はエリナードが茶を淹れた。
「ほらよ。茶でも飲んで落ち着けって」
「ありがと……って落ち着けるか!? どう言う意味だよ!」
「話すから怒鳴るんじゃねぇよ!」
「お前だって怒鳴ってるだろ!?」
 結局いつものやり取りに落ち着いて、二人顔を見合わせて苦笑い。茶を含めばいつものエリナードの茶の香り。
「だからな、師匠の『日常』を奪ったのは誰よ?」
「……俺、だ」
「イメル。俺の足が不自由なのを喜べ」
「はい!?」
「自力で立って歩けたらわざわざそっちまで回り込んで頭かち割る程度に殴ってんぞ」
「魔術師がするなよ!」
「魔法使う手間かけたくねぇくらいむかついたって言ってんだ」
 藍色の目が据わったところなどイメルは見たくない。心の底から見たくない。こんなときタイラントの気持ちがわかるようで、それもまたわかりたくない。思わず涙目になったイメルの頭を卓越しの手がぽん、と叩いた。
「あれは、俺のせいだ。俺がライソンと付き合ってたんだ」
「でも」
「もしもな、あの時点に戻ったら俺はどんな選択をする? もう一度、間違いなくライソンを選んじまう」
「そりゃ、連れ合いのことだし……」
「それも一理あるけどよ。あのな、もしライソンと別れて師匠を選んで。俺が師匠の日常であろうとし続けたらあの人、なんて言う?」
「え?」
「早く幸せになりなさい、可愛いエリィ」
 ぽつん、とした言葉。別の機会に、別のことで言われたことがあるのだろうエリナード。脳裏から離れなかった師の声をいまただ取り出したかのような彼の声、言葉。
「やっぱり師匠は幸福になり切れない。俺が幸せになってねぇからな」
「でも、それじゃ……」
「そのとおり。詰んでるんだ。あのときの国王がアレクサンダーだった、その一点で詰んでる」
 もし王がアレクサンダーでなかったら。「暁の狼」はラクルーサを離れることはなかった。エリナードが傭兵隊との付き合いを咎められることもなかった。ライソンとフェリクスを秤にかけて選ぶ必要もなかった。エリナードは師の元にあり、ライソンと共に生きただろう。
「後悔するのは間違ってる。わかっちゃいる。俺は間違いなく最善手を選んでた。その時その場で取れる一番の手を選んでた。俺が星花宮を出ることで、星花宮は守られた。少なくとも、それから二十年近くか? 王と決定的な諍いは起こらなかったんだからな」
 それでも。わかっていても。ただ無言でフェリクスの手になる魔道書に触れる。師その人がそこにいるように。イメルには見慣れたエリナードの手つきだった。かつてそうしてどちらからともなく手を繋ぎ合っていた師弟。「いい年をして恥ずかしいからやめろ」と言いつつ自分のほうから手を求めたこともあったエリナード。何を言うこともできず見ていた。
「だからな、時々思う」
 これを言わせてはならない。唐突にイメルは感じる。けれどエリナードは止めても言うだろう。眼差しにそれを読み取ったのか、綺麗に微笑していた。
「お前、俺がイーサウ独立戦の時、あっち側についてたって、知ってるだろ?」
 一応は機密に属する話ではあった。が、関係者のすべてがもうこの世にいない。今更の話ではあったけれど、当時のエリナードはラクルーサの宮廷魔導師団の一員。ラクルーサへの直接的な敵対行動を取った彼だった。いかに師の命とはいえ。
「まぁね。知ってるけど」
 その話を聞いたときにはイメルは卒倒しそうになったものだった。ついでフェリクスへの反感が湧きあがった、とも思い出す。最愛の愛弟子になんと言うことをさせるのかと。いまは、理解している。エリナードが何者にも替えがたい弟子だったからだ、と。
「――あのとき俺は、外壁の上で魔法撃ってた」
 暁の狼が苛烈な攻撃を仕掛けてくるのをいなし、反撃し。それを掻い潜って吶喊してくる騎兵たち。楽しそうに戦っていたライソン。
「俺の攻撃範囲内に、アレクサンダーは、いたんだ」
「おい!」
「何度後悔したか知れねぇ。あのとき俺はあの野郎を殺せた。確実に葬れた」
「そのときはそんなこと考えるような時期じゃなかっただろ! アレクサンダーが星花宮に敵対するなんてまだ」
「俺は、知ってた」
 イメルは愕然とする。エリナードはどこまで先を見ていたのだろう。確実になってしまった未来を彼は見ていたのか。そうではない、静かにエリナードは首を振る。
「まだガキのころ、事故らされたよな? あの時点で俺はアレクサンダーの差し金だって知ってた」
「でも、それは。ただ魔術師が嫌いだってだけで」
「竜騎士団に出向してたの、覚えてるか? あの時にも邪魔された。なんで俺とミスティが行くよ? まだ弟子だったんだぜ」
「魔導師級が動けない状況だった……?」
「そういうこと。それにな、これは魔法絡みじゃねぇけどよ」
 当時の竜騎士団に在籍していた公爵の子息がいた。明賢王とも名高いシャルマークの四英雄が一人、アレクサンダー中興王の御姿に似ている、と言われた男だった。
「俺からしたら似てるかって首かしげる程度だった。金髪に、紫って言うよりゃ青に寄った目」
「んー、似てると言えば似てる、程度?」
「お前だって会ってるよ。そんでも覚えてねぇだろ」
「えぇ!? 全然記憶にないよ! 明賢王に似てる人!? 誰それ!」
「だろ。その程度でな、その人は暗殺の危機にさらされた。政治的に抹殺されそうになったり、まぁ色々だ。ついでに言えば同じ時期にノキアス王の庶子の息子って騎士もいてな」
「はい!?」
「こっちは本格的に暗殺されかかってよ。そんで星花宮が動いた」
「あぁ……ノキアス王ってことは、フェリクス師にとってはご親友の孫、か」
 エリナードはこくん、とうなずく。心持ちが当時に戻ってしまっているらしい。子供じみた、普段の彼にはそぐわない仕種だった。
「たかが見てくれが似てるで殺そうとする。庶子の息子なんて言う曖昧な身分の男を多少なりとも血が繋がってるってだけで殺そうとする。――アレクサンダーがそういう男だって、俺は知ってたんだ」
 だからあのとき殺すべきだった。外壁の上から魔法を撃って、殺せる位置にいたのに。あとのことを考えればどれほど悔いても足りない。
「エリナード」
 ぽん、と伸びてきた手が頬を叩くように撫でた。はっとして顔を上げれば偉そうなことを言う自分だと理解して、似合わないと知って、けれどそれでも言うと決めた、そんなイメルの照れた顔。
「もしお前がそこでアレクサンダーを殺したとする。どうなったと思う? 犯人なんて誰でもいい。結果は『王子が魔法で殺された』だ。だろ? そうなったらラクルーサで魔術師はどうなる。――結果論だけど、魔法排斥は変わらない。アレクサンダーが生きてても死んでても、この未来は変わらない。俺は、そんな気がする」
 一々もっともすぎていた。エリナードとて魔術師だ。イメルが言ったようなことは何度も考えた。何度どう歴史を頭の中で動かそうとも、やはり現在は変わらないと思う。
「ま、それでも考えるよな。それは、わかると思う。――これもさ、昔話だけど。お前、まだライソンと付き合う前にさ、みんなでライソンのご家族の墓参り、行ったじゃん?」
「行ったな」
「あんときさ、自分がいればせめて一番下の弟だけでも助けられたかもしれないって言ったライソンに、お前はなんて言った? 後悔したければ好きなだけすればいいって、言ったんだ。無理に立ち直る必要なんてないって」
「……俺も忘れてたようなことをよく覚えてるもんだぜ」
「衝撃だったからね」
「そうか?」
「うん」
 当時のエリナード自身、傷を抱えていた。恋人をその手で撃ち殺してしまったエリナード。家族を皆殺しにされて一人生き残ってしまったライソン。イメルはエリナードに何度となく言っていた。立ち直れ、前に進めと。それを言う無意味を心底思い知った。ライソンに語るエリナードを見て、彼の本当の傷を理解した。
「俺は、ガキだったよ。あのころは」
「そこに救われてた部分もあるけどな」
「やめろよー。なんか気持ち悪いって!」
 照れくさくなってしまったのだろうイメルの笑い声にこそ、エリナードは救われる。いまでもまだ後悔していてもいいのだと。イメルの目がほんのりと笑った。
「それにさ、俺は思うんだ。お前がしてるのは後悔じゃないって」
 どう言うことだ、と首をかしげるエリナードの片手の上、イメルは手を置く。いまもまだ本に触れている手に。
「お前は寂しいだけだよ。フェリクス師に会いたくて、もう一度元気な姿が見たくて。一緒に魔法の研究したくて。こんなこともできるようになった、それを伝えたくて。それだけだよ」
 無言でエリナードがうつむいた。震える睫毛が見えた気がしてイメルは座を立つ。茶を入れ替えて、菓子を用意して。あのころの菓子とは違う、綺麗に焼けた甘い菓子。どれほど美味なそれでもエリナードにはそうは感じられない菓子を。
「はい、お茶。新しいのはちょっと香草茶風。最近配合に凝っててさー」
「……茶の配合だったらカレンが好きでやってるぜ」
「そうそう。だから俺もやってみようかなって。カレンの果物風味の茶がうまかったんだよね」
 自分も工夫して今度はカレンに飲ませてやりたいのだ、イメルは笑う。心遣いにエリナードは礼を言うでなく茶を飲んでいた。それでイメルには伝わる。言葉にでき得ない感謝だと。
「フェリクス師の字って意外と男っぽいよな」
 表紙の題字に目を留めてイメルは言う。話題を避けようとする素振りさえない彼だった。それこそがエリナードの本意と知って。にやりと笑った彼の目にはまだ涙の気配があったけれど。
「それこそ昔な、まだ三十代くらいのころか? あの人も見た目を気にしてたらしいぜ」
「へぇ、そうなんだ?」
「成長が完全に止まっちまって、元々童顔なもんだからどう見てもガキだろ? 子供扱いの上に顔だけ見りゃ可愛かったからよ、女扱いもされるとなりゃまぁ気分のよろしかろうはずもねぇわな」
「フェリクス師を可愛いって言うの、お前くらいだと俺は思うよ」
「カレンも言ってるぜ?」
 にやりと笑うエリナードの目。少しずつ乾いていく藍色のそれ。イメルは何も気づかないふりをして笑う。
「お前ら師弟はおかしいんだよ!」
 そう言って笑う。一緒になって笑い転げるエリナード。それでよかった。それくらいしかしてやれることがないのだから。それでいいと頼ってくれた親友なのだから。
「まぁな、だからあの人は一応は頑張ったんだよ」
「男っぽい字を書くのもそういうことなわけかー。なるほどねー」
「なんの効果もなかったと俺は思うけどな。だいたい気にしてたってのも短い間だったみたいだしよ。タイラント師と恋仲になってからは完全に開き直ったんだろうよ」
「……開き直ってあれだったんだ」
「どーゆー意味だコラ」
「いや別に!? なんて言うわけでもなくただフェリクス師の可愛いってなんだろうなとかうちの師匠の趣味も変わってるとかあれで生涯熱愛だったんだからやっぱりおかしいとか色々思うところがないわけでもなくって言うかエリナード睨むなよ怖いから!」
「お前いま、どこで息継ぎしたよ?」
「してないよ!」
 呆れ声のエリナードに胸を張るイメル。なんとなく、それで元通りの雰囲気。互いに顔を見合わせては苦笑する。
「なぁ、たまにはさ、師匠たちの思い出話、しようよ。ここでさ、二人でさ」
 子供時代を思い返し、そして二人の師がどれほど愛してくれたかを思い返し。エリナードはうなずくでもなく小さく呟く。
「ほら、菓子のおかわり」
「ってお前!? これ再現!? こんなもん再現すんなよ!」
 菓子皿の上には狐色の焼き菓子。イメルが用意したその横に。物の見事に焦げだらけの「なにか」の塊。所々ごつごつとしているのはそれでも入れたのであろう干し果物か何かの欠片。懐かしいフェリクスの焼き菓子。
「師匠のほどうまくねぇけどな」
「あれがうまいのはお前だけだ!」
 言いつつイメルも焦げた何かを口にする。あのときと同じ味がした。フェリクスの照れたがゆえの淡々とした表情。お菓子があるよ、そう言った声。まざまざと思い出すイメルの目も懐かしさに揺らぐ。エリナードはまして。
 それから他愛ないことを話していた。ただの昔話を。フェリクスとタイラントの話を。いまはもういない、会いたい人の話を二人でずっとしていた。




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