腕のいい吟遊詩人が歌っていた。しばらく活気のなかったこの小さな町にもいまだけは笑いが戻っている。吟遊詩人の背後にある噴水は涸れ、水を吹き上げることはない。底に申し訳ばかりぽっちりと水がわだかまっているだけだった。 何があったのかはわからない。ある日突然、水が涸れた。水の豊かな町だったのに、井戸と言う井戸、噴水と言う噴水から水がなくなった。近隣の小川からも水は消え、人々は青ざめる。近々イーサウの魔導師会から魔術師が来てくれるらしい。 「中々いい腕ですね?」 青年が一人、近くで歌を聞いていた旅人らしき青年に話しかける。水が涸れてから旅人もわざわざこの町には寄らなくなってしまった。それが青年は少し、寂しい。 「悪くないですね。この町の方ですか?」 「えぇ、ここで生まれ育ちました。出て行こうと思ったことはないんですが――」 「水、ですか?」 旅人に噂が届いているのは当然。それでもそう言われてしまうと青年はやはり切ない。彼の表情に旅人は少しばかり申し訳なさそうな顔をした。 「中々活気のある人たちで、普段ならもっと楽しげなんでしょうね」 「そうなんですよ! いい町なんですよ、ここは。みんな明るいし、あまり落ち込んで暗くなったりしません」 「新しく開拓された町って、そんなところがありますよね。素晴らしいですよ」 故郷を褒められ、青年は誇らしげ。新しい、と言うほど新しい町でもない。が、ここ十年ばかりでようやく町の形になったのは確かだった。 これほど豊かな水があったというのに、人間が住んでいなかった理由となればひとつしかない。魔族の存在。この町はどこの街からも遠く離れ、救援を求めにくい土地だった。開拓が進んでも懐疑的な人たちが多くを占めた。逆転したのはひとえに魔術師の存在。魔導師会が町の周囲一帯に強力な結界を張ってくれた。おかげで住人はなんの心配もなく暮らすことができる。おまけに敷設された街道にも簡易結界がある、と言う。強力な魔族は防げないけれど、万が一そのようなものに遭遇したときには逃げ込むことができる避難所まで作ってくれた。そこに入ると同時に救難信号が発せられ、救助隊が向かってくれるのだ、と言うけれど住人達に詳細はわからない。ただ、助かるのだけは知った。 「そんな風に発展してきたのに……残念ですよ、本当に」 青年はまだこの町が小さな村と変わらないくらいだったころを知っている。少年時代とともに集落は発展し、いまでは立派な町になった。自分もこの故郷に相応しくあれるように、そう思っていたのに。長い溜息をつく青年を旅人は痛ましそうに見ていた。 「なんとか、できると思うんですけどね」 「そうだといいですね」 またも溜息。どれほど彼がこの町を思っているのか。旅人は温かな思いにもなる。青年が語ってくれたことは彼にとっても嬉しい言葉だった。 「遅ればせながら。フェリクス・エリナードと言います。お話を聞かせてくれてありがとう」 そろそろ吟遊詩人の歌も終わりかけていた。思い出したよう旅人が言うのに青年は皮肉げに唇を歪め笑う。 「それはそれはご丁寧に。氷帝フェリクスと申します」 ぷ、と旅人が吹き出した。青年もまた、同じように。ついには互いにくすくす笑いが漏れはじめ、大きな笑いになっていく。 「これは師匠でしたか。お懐かしい。ちょっと育ちましたかね?」 「育った……?」 「お忘れですか? 俺の前の師匠はよくちっちゃな子供の姿に変装していたじゃないですか」 「おぉ! 確かに確かに。さすが我が弟子よ」 乗りのいい青年だな、と旅人、エリナードは笑う。彼がフェリクスなどでは断じてないことはエリナードにはわかっている。いつも語っていた心の奥が何も語らない。フェリクスが姿を見せるたび、たとえどんな姿形をしていても感じ取った場所が震えない。それでも不思議と、フェリクスと話しているような気分になれてエリナードは少し、嬉しかった。 「我が弟子よ、あの水はなんとかならないものかな?」 くすりと青年が笑う。まるきり本人だとは信じてもらえていないらしい。エリナードは騙りが出るほど名が広まっている事実をはじめて目にした。だからこそ青年は信じてくれないのだろうから。噂では聞いていたけれど、体験するのははじめてだった。 ――師匠。面白いもんですね、この世界は。 思わず内心で語りかけてしまった。旅に出てしまってもうどれくらいになるのだろう。遠いどこかに行ってしまった師を思う。 「なんとか――」 しますよ、言いかけたときに吟遊詩人の声。歌い終え、片手を上げてこちらに向かって走ってきた。弾む足取りがまるで子供のよう。 「お待たせ、エリナード! なんだよ、途中で声かけてくれていいのにさー」 「楽しそうに歌ってたからよ。別にそれほど待っちゃいない」 「……え?」 青年がきょとんとしていた。みるみるうちに赤くなる。エリナードは片目をつぶって口許で笑った。 「実は本物です。仕事に来ました」 「え――! いや、その! ほんと、すんません! いや、その!!」 「いやいや、悪乗りしたのは俺なんで。お気になさらず」 「ん? エリナード。なんかあったの?」 「別に。懐かしい話してただけ。仕事しようぜ。町役人、どこにいるんだよ?」 では、と手を上げて去って行こうとするエリナードの服の裾を青年が掴んだ。気にしなくていいのに、とエリナードは苦笑する。 「あの、その。私が、その町役人……です……」 ありゃりゃ。イメルの笑い声が明るく響いた。なんとなく察するものがあったのだろう、彼にも。エリナードとは長い付き合いだった。だからこそ、彼が微塵も気分を害していないのがイメルには知れている。 「おっと。そうでしたか。じゃ、とりあえず噴水と、井戸と。見せてください」 気にした様子もないエリナードだった。からりと笑っていままでイメルが歌っていた噴水の側へと。まだ聴衆が残っていて、もう一度歌ってくれるのかと期待していた。 「ごめんなさいー。あとでね。仕事しちゃいますから!」 「吟遊詩人さんは歌うのがお仕事じゃない!」 「でも俺、魔術師でもあるんですよねー」 どこからか上がった明るい娘の茶化し声。イメルは輪をかけて明るく返す。町役人の青年が待望の魔術師さんだ、と人々に胸をそらして誇っていた。 「久しぶりに歌ってたよな?」 「うん?」 「ほれ、あの歌」 エリナードは袖を捲り上げ、底に少しばかり残っていた水に指先を浸している。すでに魔法は発動し、エリナードは探査を開始していた。それでいて、普通に会話をする。以前だったらこう言った、星花宮の魔導師ここにあり、と。いまは連盟の魔術師の誉れ、そう言う。 「あぁ、あれか。最近なんかお気に入りでさ」 イメルが歌っていたのは「悪魔と小悪魔」と言う戯れ歌。フェリクスとエリナードを歌ったもので、しばらくは慎んでいたけれど、変なところで気にするな、とエリナードに言われてまた歌いはじめた。 「あの歌も、だろ? また完成度が上がったか?」 言えば照れるイメルだった。ただ会話をして身をよじっているだけのように見え、イメルもまた探査をしている、とは誰にもわからない。 彼が先ほど歌っていたのはもう一曲。「小麦の髪の少女」と言う歌。かつて出会った女神の写し身に捧げたイメルの歌。いつか技量と魂が追いついたならば歌わせてほしい、と彼は女神に誓っていた。 「まだまだって気がするけどねー。でも、ちょっとずつさ、歌っていきたくってさ」 懐かしい少女の姿。いつかまた目にしたいものだ、とイメルは遠くを見る。エリナードとしてはたまに顔を出している、とは言えない。頻繁ではないが、影を感じることが稀にある。一度はしれっと人々の間に混じっていたこともあった。 「ん、ここはいいな。次、井戸……はいいや。あー、と役人さん?」 「あ、はい!」 「簡単に言うと、水脈が動いちまってます」 エリナードとしてはこれ以上なく簡単に言ったつもりだった。が、青年は首をかしげ、そして顔を強張らせる。 「エリナード。それだと妙に聞こえるって。解決策、あるんだろ?」 「え? あるよ? あるから言ったんだけど……って、そんな風に聞こえましたか。すみませんね、魔術師ばっかり相手にしてると常人の繊細さを見失いがちで」 苦笑するエリナードに青年はぶんぶんと顔を振っていた。エリナードもそれに笑みを返す。どこかで聞いた台詞だな、と思ったらそれはフェリクスのものだったと気づいたせい。 「去年の秋でしたっけ? 地震があったでしょ。あれで動いたんですね」 「地震からも、ずいぶんと水はそのままでしたが……」 「そういうこともあるんですよ。で、水脈を動かすのはちょっと他に影響が出すぎるんで、支線を作ります」 「と、言うと?」 「地下に用水路を作るようなもんですね。そうしたらまた元通りに水が出ますよ」 魔術師が言っている言葉の半分も理解できなかった。が、水が元に戻る。彼にはそれで充分だった。ぱっと明るくなる顔に魔術師たちは笑顔。こうして喜んでもらえるのは彼らにとっても嬉しい。 「イメル、さっさとやっちまおうぜ。みんな待ってんだろ?」 水が涸れてから、遠くまで水汲みに出なければならなくなった。それでも足らなくて、病気が増えた。小さな町にとっては死活問題だった。 「あいよー。俺は何したらいい?」 「補助してくれ。だいたいは俺がやるよ。その方が効率いいわ」 「うん、じゃあ魔力流そうか?」 「そこまでいらねぇよ」 片手間仕事だ、とは常人が聞いている前では言えない。が、エリナードにとってはその程度だった。他の水系魔術師誰に聞いても難題だと言うに違いないが。 涸れた噴水の側からエリナードは動かなかった。はっきり言って、どこにいても変わらないのだ、彼にとっては。だがここならば水が戻れば誰の目にも明らかになる。住人のため、エリナードはそうした。 ――こんな風にね、魔術師が喜ばれるところになりましたよ、師匠。 フェリクスの魔術師保護の策としてエリナードはイーサウに派遣された。それが実を結んでいる。これほどまでに鮮やかに。常人と手を携え、互いに協力して連盟を維持し続けている。 噴水の縁に腰を下ろし、片手を水に浸す。そのまま軽く眼差しを伏せて詠唱を続けるエリナードの姿。見慣れているイメルですら、時折は見惚れたくなる。いまここに画家の一人でもいれば素描をさせろ、と言い募るに違いない。あるいは断りなく描きはじめるかもしれない。 ゆっくりと、エリナードの魔法が浸透していく。ずれてしまった水脈から支線を通し、いままであった場所へと少しずつ水を戻す。それそうになる水はイメルが手直しをして行く。ただそれだけのこと、言葉にするならば。 だがしかし、魔術師たちに水は欠片も見えていない。すべては地下での行為だった。同時に、イメルとエリナードは視覚を共有しているわけでもない。互いに同じ場所を見ているかすら確信が持てない中で彼らは易々と仕事を進めていく。 「そっち」 「ちょっと固めるか?」 「その方がいいだろうな」 短い言葉で互いを補佐しあう。ずれた水脈は大地の作用によるもの。いかに魔術師とはいえ、そう簡単に戻せるものでもなかったし、心配りをしなくては他に害が出る。充分にそれを飲み込んだ上での仕事だった。 「よし、いいぜ」 エリナードが言ったとき、町役人は怪訝な顔をした。青年の目にはいまだ水は一滴も見えていない。 エリナードの言葉の意味は違った。イメルに手を引け、と言っていた。あとは自分がやる方が楽ができるから、と。イメルも彼の技量を知り抜いている。邪魔することなく笑って伸びをする。 「ん――?」 気づけばあたりに人だかり。歌っていたときより数が増えているのはこちらの正体が知れたせいだろう。隠し通すつもりはなかったのだが、さっさと仕事だけをして去るつもりだった二人だった。心配そうに見つめる群衆にイメルはにこりと笑いかける。 「もうちょっとかかりますねー。その間に歌いますか」 尋ねている風であったけれど、返答を聞くより先にイメルは竪琴を構えている。そして彼は歌い出す。エリナードの邪魔をしてほしくないせいもあった。いま彼は重大な箇所に差し掛かっている。話しかけられたくはないだろう。 くすり。誰かから声が上がった。先ほども歌った歌だけれど、イメルのお気に入り、あの「小麦の髪の少女」だった。おしゃまな少女の歌はこの町でも好まれた。それを思い出しつつイメルは歌う。 懐かしいメリリを思う。何の不安もなかった星花宮の一日。あのまま続いて行くと疑いもしなかった日々。四魔導師がいて、友達がいた。 歌の中、メリリの名は挙げなかった。代わりにエイシャ女神であった、とはっきり言った。女神の恩寵があの場にはあったのだと。リオン総司教がいたからこそ、女神は顕現し、この世界での休暇を楽しんで行ったのだとイメルは歌った。言葉ではなく、意味でそう歌った。 「あ――!」 歌の終わりをエリナードは狙っていたのかもしれない。イメルが声を納めると同時だった。ふつり、音が聞こえ、そして吹き上がる水。 「水だ!」 「水が戻った!!」 人々の笑い声、歓喜の叫び。手を打ち鳴らし、肩を組み。知り合いでもそうでなくとも喜びを分かち合う。 「すごい! ほんとに水だ!」 町役人も疑っていたわけではないだろう。それでも驚きが強いのか、青年は目を丸くして呟き、そして魔術師たちに照れくさそうに笑いかけた。その横から走り出してくる小さな影。 「……げ」 エリナードの呟きなど聞こえなかったのだろう少女は一直線に彼に向かって駆けてくる。そのまま腕の中に飛び込んだ。イメルが息を飲む。 「エイ――、うっ」 思い切りイメルの足を踏みつけて、エリナードは満面の笑顔。イメルは何も言わない、と涙目になって首を振る。 「おや、可愛らしい子だ。どこの子だい?」 「さっきのあの歌みたいだねぇ。ほら、そっくりじゃないか」 「こりゃいい機会だ。なんかご縁を感じるよ、エイシャ女神さまの祠でも建てようかい」 「そりゃいいね!」 人々の声また声。腕の中の少女はうっとりとエリナードを見上げていた、小麦の髪の少女は。 「よう、メリリ」 力なくエリナードは笑う。最初の驚愕から立ち直ったイメルが嬉しそうにメリリの髪を撫でる。そこまで達観できないエリナードだった。 「なんか妙にこの年頃の子供に縁があるっつーか……」 「フェリクス師を思い出すよねー」 からりとイメルが笑った。メリリも笑った。いまはもういないフェリクス。メリリと同じような年頃に化けて遊びに来ていた。 「可愛い子ですね、お知り合いですか?」 群衆にもみくちゃにされている町役人だった。どうやら逸早く魔術師に救援を要請したのは彼らしい。早めに手を打ってくれて仕事が楽だった魔術師たちは青年に感謝の眼差し。 「ま、知り合いの子ですね」 歯切れの悪いエリナードをイメルが笑う。メリリを抱いていてはエリナードもいつまでも渋面を作るわけにもいかず、そんな気にもなれない。ふと思う。 「――お前が歌うから出てくんじゃねぇの?」 ぼそりとイメルに小声で言えばあの歌か、とイメルが驚いた顔。確かにあの歌のおかげでエイシャ信仰が少し広がっている。気づかなかったの、と言いたげに微笑んだメリリが腕の中にいてエリナードは肩をすくめて笑った。 |