今日のエリナードはひどく不機嫌で、イメルはさっさと彼を置いて師の元へと行った。北の薬草園は幼いころの二人の遊び場のひとつ、久しぶりに見てまわろうかと思っていた彼なのだけれど。 フェリクスとタイラントが庭師頭のパトリックに所用だとかで弟子たちは同行したのだが、エリナードは一人、香草の茂みで不貞寝中。こぼれ種が芽吹いてできあがった茂みは寝転がっているだけでよい香り。 ――ふざけんな。 障壁を何重にも重ねた心の中でエリナードは悪態をつく。うっかり聞こえてしまっては目も当てられない。なにしろ悪態を向けているのはタイラントだ。 出がけのことだった。王都から薬草園まで馬で移動するはずもない。全員が魔術師となれば転移するだけのこと。とはいえ若き弟子たちを伴うとあって二人の師は呪文室の一つを待ち合わせに指定してきた。その扉の前、聞こえてきたタイラントの声。 「またそうやって君はさ! あぁはい、どうせ俺が悪いんだろ!? いいよ、わかった、仕事だよな!」 普段なら言い返すフェリクスの声、エリナードには聞こえなかった。しばし間をおいたけれど、少しも。結局イメルが来てしまって、それまでとなった。室内ではフェリクスもタイラントも何もなかった顔をしていたから、きっとイメルは気づいていない。 ――あんな言い方。 何があったのかは知らないが、フェリクスが言い返さなかったことでエリナードは深刻だと感じている。いつもの痴話喧嘩、ではないと。思えばフェリクスは平然を装っていたが、やはり普段とは違った。返す返すも忌々しいが、相手はタイラント、迂闊に文句も言えない。内心のそれが彼には聞こえかねないと案ずればこそ。 「ここにいたんだ?」 ふっと覗き込んできたフェリクスだった。すでに察知していたエリナードは驚かない。むしろ、やはりと思っていた。 「いましたよ」 そっけなく言えば小さく笑ったフェリクスがエリナードの傍らに腰を下ろし、かと思うとそのまま胸を枕と横たわる。 「エリィ?」 いつもの彼ならば一言くらいは文句を言う。だがいまのエリナードは黙って伸ばした片腕でフェリクスを抱いた。その腕に埋まるようにしてフェリクスはかすかに笑う。 「ねぇ、聞いてたの」 「聞こえたんですよ、立ち聞きしてたわけじゃない」 「うん、そっか」 ことんと頭を預けてくる師の頼りなさ。真剣にタイラントに怒りを募らせてもいいだろうか。エリナードの考えを読んだかのようフェリクスは笑う。 「あれは――」 「どっちが悪いんじゃなくても、あの言い種はないと俺は思いますがね」 「もう、あなたったら」 仮にも師匠筋にそれはない、振り返ったフェリクスが目で笑う。まだ落ち込んでいるのが如実に伝わってエリナードは黙って肩をすくめた。 「……ちょっとしたね、いつもの喧嘩。それだけだよ」 「へえーそうですか、ふーん」 「もう、エリィ」 「あのね、師匠。そう見えてるんだったら腹立てないんですよ、俺だって」 「ん。知ってる」 でしょう、とエリナードはフェリクスを覗き込んでは微笑んだ。原因は何かなど知ったことではないし、おそらく切っ掛けは普段の喧嘩なのだろうとはエリナードも理解している。だが、あのタイラントの言葉はいささか許しがたくも感じる。 「エリィ」 「なんです」 「ううん、なんでもない」 腕枕のちょうどいい場所を探し身じろいだフェリクスに香草が匂い立つ。甘く涼しく爽やかな香り。幾種類もの香草がないまぜになった馥郁としたそれの中、フェリクスは無言だった。 ――ほんとに、どんだけこの人を泣かせりゃ気が済むんだ。 「エリィ、聞こえた」 「聞かせたんです」 「口で言いなよ」 「師匠だけに聞こえりゃいいんです」 ふん、と鼻で笑ったエリナードをフェリクスはたしなめることすらしなかった。師匠筋に対する暴言には一応の叱責を加えるフェリクスだというのに。 「師匠」 「ん……なに……?」 「はい、あーん」 エリナードが魔法を発動させた気配は無論フェリクスも感知していた。だが、こんなことだとは。フェリクスの唇がほんのりと笑みになり、言われたままに口を開け。そこに放り込まれる飴ひとつ。 「なんか不思議な味するね。蜂蜜を硬化させてるの?」 「あんま好きじゃない?」 「ううん、おいしいよ。さっぱりするね」 薄荷をはじめ薬効のある香草を練り込んであるらしい小さな飴だった。エリナードも舐めているのだろう、声が少しくぐもっていた。 「エリィ、ありがと」 「別に?」 普段ならばそっぽを向くエリナード、いまはフェリクスを腕に抱いたまま。もぞもぞと動いたフェリクスは背中を向けていた、顔を見られたくないらしい。エリナードの腕を抱きしめては顔を埋める。すがりついているようでエリナードはやりきれなかった。 普段はこれでもかとばかりに口数の多いフェリクスがだんまりのまま、腕を抱く。エリナードもあえて何を言うでもない。互いの温かな体、それ以上のぬくもり。少し和らいだフェリクスの気配にエリナードはうとうとと。もぞり、しばしののち再びフェリクスはエリナードへと向き直った。同時にエリナードもまた両腕でフェリクスを包み込む。 「な……!?」 タイラント師弟が見たのは、そんな二人だった。愕然と声をあげたのはイメルの方。タイラントは声を失って立ち尽くす。 「ちょ、エリナード! お前!?」 イメルの悲鳴じみたそれに悠然とエリナードは目を開けた。藍色の眼差しがいつになく鋭い。真っ直ぐとタイラントを見ていた、蒼白な彼を。 「……エリィ」 小さな小さなフェリクスの声。視線を落としエリナードは微笑む。その笑みにタイラントが硬直していた。イメルなど真っ青になっている。フェリクス師弟は浮気を疑われてはいるけれど、だがしかしそれはただの風聞であり本人たちは常に否定してきたはずが。フェリクスを腕に抱いたままエリナードは体を起こす。自然、フェリクスは彼の胸元に顔を埋める形となった。 「タイラント師」 きゅっとすがりついてくる師の小さな手。もういい、と言っているのは理解しているけれど、気が済まないのはエリナードの方。 「……なに」 普段のタイラントらしくない、掠れた声に彼の弟子がひどい顔をしていた。エリナードはけれど真正面からタイラントを見据える。 「あんまり泣かせると、もらいますよ」 息を飲む音がいくつも。イメルは悲鳴もあげられずに固まっていた。ただ真っ直ぐとエリナードを見つめる師が懸念されて仕方ないというのに、イメルはその有様である己が悔しい。息を吸い込んで吐く。ここぞとばかり叫んだ。 「お前が言うと洒落にならないだろ!?」 だがイメルの冗談混じりのそれは空虚に響いただけ。タイラントもフェリクスも動かなかった。ましてエリナードは。殊更めかして師を抱くわけではない、あまりに自然にそうしている師弟。 「……ほんとだ。冗談にならないな、エリナード」 苦いタイラントの声音に腕の中のフェリクスがかすかに反応した。それでもまだ顔をあげない師の姿。エリナードはタイラントに目を眇めた。 「冗談じゃなかったら、どうします」 「……エリナード、君は」 「世の中には言っていいことと悪いことがあるんですよ、タイラント師。ちなみにこれは悪いことだとわかってますけどね」 仕方ないとばかりエリナードが溜息をつく。それからゆっくりとフェリクスから体を離した。タイラントには見えなかっただろうが、エリナードは感じている。フェリクスは笑んでいた。 「タイラント師」 立ち上がる切っ掛けを探すフェリクスのため、エリナードはタイラントに小さなものを投げた。慌てて受け取るだろう、いつものタイラントならば。いまの彼は無造作に掴み取る。 「この人に教えるつもりでしたが、タイラント師に差し上げます。気に入ったみたいなんで作ってやってください」 タイラントは掌にある小振りの缶を見ていた。無言で開ければ飴がいくつも。それから紙片が一枚。視線を走らせれば蜂蜜を硬化させる方法から配合まで処方一式が記されていた。 「……うん」 タイラントの口許にかすかな笑み。エリナードはフェリクスに伝える予定だったと言った。その理由がよくわかる。喉によい香草を配合した飴。料理下手なフェリクスが作れるよう魔法で作るタイラントのための飴。 「ごめん、エリナード。ありがとう」 「――だ、そうですよ。戻ります? それとも俺といます?」 「あのね、可愛いエリィ」 なんです、首をかしげつつエリナードは安堵していた。ようやくいつもの「可愛いエリィ」が出たと。それと気づいたフェリクスがちらりと苦笑していた。 「僕は息子と愛を語るほど歪んでないよ」 「同感ですね。俺だって嫌ですよ、そんなの」 「でもね」 ふっと微笑んだフェリクスがエリナードの励ましを感じては立ち上がる。それでもまだためらう足。エリナードに腰の辺りを叩かれて、ようやく進む。ほぼ同時にイメルが勇気を振り絞ってはその師を突き飛ばした。踏鞴を踏んだタイラントは驚いて弟子を振り返り、けれどフェリクスの傍らに。 「ありがと、可愛いエリィ」 もぞもぞとしたタイラントの手がフェリクスのそれを取っていた。互いにまだ視線も合わせない。それでも危機は越えた様子。肩をすくめたエリナードに二人、小さく笑い歩き出すのを弟子たちの眼差しが見送った。 「……お前さぁ」 手がかかる、疲れたと言わんばかりのエリナードにイメルの嘆き、あるいは苦情。エリナードは聞く耳持たず仰向けに寝転がった。 「正直、正気を疑ったし。もし、もし! もしもフェリクス師が乗ったらどうするつもりだったんだよー」 「はぁ? ねぇよ」 「だってさ。かなり本格的だったろ。今日の喧嘩」 疲れ切ったイメルが乱暴に腰を下ろせば、ぷんと匂い立つ香草。だが不思議とフェリクスがいたときとは香りが違う。そんな風に思う自分をエリナードは内心に笑う。 「あのな、イメルよ」 「なんだよ」 「あの男が浮気できるかどうか、よーく考えろ」 「浮気じゃなくて本気になったらどうすんだって言ってんだってば!」 「ねぇよ。絶対ねぇよ」 言いつつ鼻で笑ったエリナードをイメルが誤解した、フェリクスを奪われて立腹しているのでは、と。気づいたエリナードに叩かれて安堵する自分をイメルは笑ったのだが。 「タイラント師は師匠がベタ惚れなのをいいことに扱いが雑すぎんだ。さすがの俺でも腹立ったぜ」 唖然としていた、イメルは。逆ではないかと。フェリクスが邪険にしているのならば理解できるのだが。そんなイメルに唇で笑い、エリナードは目を閉じた。 |