エリナードが風呂に行こう、と言ったのはある初夏の頃。イーサウの家として彼らの自宅にも温泉は引いてあるのだけれど、たまには大きな風呂に遊びに行こう、と言うことだったらしい。 「遊び、ですか?」 出かけるのが不満なのではない。逆に少し浮き浮きとした気持ちにもなって、それが気恥ずかしいような気がしてカレンはそんな口調になる。もっとも師には当然にして見抜かれていた。 「おうよ。いいだろ、たまには」 ふふん、とはしゃいで見せるのはたぶん、ライソンの無事を祝ってのことだとカレンは思う。昨日のことだった、ライソンが小規模戦闘から戻ったのは。いかに小規模とはいえ戦闘は戦闘。万が一がないとも限らない。 ――意外なとこで意外と繊細だわな。 「……あのな、カレン。聞こえてるからな?」 にやりとされてしまった。はっとして精神の引き締めを図る。いまだ未熟にもほどがある若き弟子の身だ。接触しなくとも心の声が漏れてしまうことが多々あって、目下カレンはその鍛錬に励んでいるところ。 「師匠は、どうだったんです?」 狼の巣からイーサウ中心部に。後には本市街、と呼ばれることになる中心部だったが、いまはまだそこまで発展していない。のんびりと三人で散策がてら歩くのはいい気分だった。 「なにがだよ? あぁ、漏れちまうの?」 「うい。中々……その、練習はしてるんですが。師匠も、うるさいでしょ?」 ためらいがちなカレンをライソンが小さく笑う。気にすることはない、と言ってくれているようで、それでもかえって未熟が恥ずかしくなる。 「俺だってお前の年頃にはかなり漏れてたと思うぜ?」 「いえ、その。私が嫌だって言うんじゃないんですが……フェリクス師に聞かれて、居心地悪かったりとか、しませんでしたか?」 「別にー? 俺は師匠が断りなしに手ぇ突っ込んできても気にしないからな」 「……は?」 「うん、その反応はいつものことだな」 からからとエリナードが笑っていた。あり得ない、とカレンは思う。いくら師といい弟子とはいえ、心の自由は重んぜられるべきもの。勝手気儘に接触するなど、信じがたい。 「なに、エリン。それって普通じゃねぇの?」 「普通は絶対やらねぇよ。やられた弟子は断固として抵抗するな」 「あんたはしなかった?」 「いまでもしねぇもん。俺だって師匠に断んないで手ぇ突っ込むし」 頭を抱えてもいいだろうか。カレンは内心で頭痛に耐える。己の師が普通ではないのだとばかり思っていたら師弟揃っておかしいだけだった。無論、弟子は自分ではない。 「ほんっと、仲良し師弟でいやんなっちまうよな」 笑うライソンにそういう問題ではないのだ、言いかけてカレンは黙る。エリナードとフェリクスにとっては正に「その程度の問題」なのだと。 「俺は一応な、普通は嫌がるもんなんだってのは、理解してるからよ。お前に無理に接触する気はねぇよ。ただ、漏れてるもんがあっても気になりゃしねぇ。そんなもんだとしか思ってねぇからな」 「……はい」 「ま、精進しな。ミスティんとこでもきっちり仕込まれたんだしよ」 励まされたのを強く感じた。いまはエリナードの弟子であるカレン。だがそれ以前に優秀な師の下で鍛錬を積んでいるのだから間違いなくできるのだと。 そんな弟子の姿にエリナードは居心地が悪い。いまだ幼い者の導きは己の分に合わない、と思っている。怖い、とも言う。そのぶん、努力はしていた。カレンを潰したくない一心で。 カレン自身、努力に努力を重ねている。逆に言えば精神の声が漏れだしているのはそのせいでもある。幼いころから星花宮で訓練をしてきた身だ。遮蔽を作る程度のことはなんなくできているはずだ。それがいま、できなくなっている。それはカレンの学問が進んでいる証。魔術師ならば誰でもそう言うだろう。不意にライソンがぷっと笑った。 「なんだよ?」 「いやぁ。お師匠さんの顔してんなぁ、と思ってさ」 「うっせぇわ」 鼻を鳴らして歩くエリナードの後ろ姿。カレンとライソンは並んで見ていた。眼差しをかわし、微笑みあうくすぐったいような、温かいもの。まるで家庭の匂いだな、と期せず二人の心の内が揃う。 イーサウはいまは商業都市となっているけれど、元は小さな村だったと言う。そこに温泉が湧いて、いわば観光で潤った。おかげで今現在でも温泉はイーサウの主要産業の一つだ。 「やっぱいいよなぁ! これだけでこっちに本拠移してよかったかもって思うもんな!」 ラクルーサの悪意にさらされて後援者を失い、本拠を移さざるを得なかった暁の狼。それでもライソンは何もなかった顔をしてはしゃいで見せる。エリナードがちらりと微笑んだ気がした。 三人の前、大小さまざまな風呂が点在していた。いずれも屋根もなにもない、野原に掘っただけのようなもの。木の風呂あり、岩の風呂あり。浅いの深いの広いの狭いの、とりどりだ。ここはイーサウという都市が管理している公共浴場で、浴料を払えば好きなだけいて、どの風呂に入ってもかまわない。贅沢な話だった。浴料自体も手ごろなものであったし、飲み物や食べ物の売り子もやってくる。イーサウの住人は休日になると家族そろって一日をここで過ごす。 「あそこがいいな。あのちっちゃめの岩の風呂、あんだろ。あそこら辺にいるわ」 エリナードが片手を振って背を見せる。カレンは素直にはい、とうなずいて脱衣所に。男女の別なく入る風呂ではあったけれど、さすがに脱衣所は別だ。イーサウに遊びに来る人々はここで裾も袖も短い湯浴み着を借りるらしい。カレンは自宅から持ってきた一枚布を体に巻き付けるだけだ。イーサウの住人はたいていそうしている。その格好で外にと出れば肌を撫でる風が心地よい。 「さすが、早いな」 エリナードとライソンはすでに風呂で待っていた。ここは男女の差なのか、身支度が早い。ここからでは見えないけれど彼らは腰に布を巻いているだけだろう。 「師匠!」 駆け出してしまって、そんな自分が恥ずかしい。盛大に笑ってくれたエリナードがありがたいほど。文句を言いつつとぷん、と湯に浸かれば体中の息を吐きそうなほど気持ちがいい。 「たまにはいいだろ、こういうのもよ」 「はい」 「素直じゃねぇか、今日は」 「うるさいですよ、師匠!?」 師弟の言い合いをライソンが笑う。当たり前にある、普通の一日。カレンもそれが「当たり前」ではないことはすでに知っている。星花宮出身ならばほとんどがそうだ。エリナードとてそうだろうに。屈託なく、明るく。こうなりたい、カレンは真っ直ぐとそう思う。 「カレン」 「……なんすか」 それでも屈託まみれな口調になってしまうのはきっと若さと言う。いまだカレンにはわからないことだろうけれど、エリナードにしてみれば己が通ってきた道でもある。 「かなり痩せただろ。なんだその肩はよ。尖ってやがるだろうが」 湯の中から腕が伸びてきてはカレンの裸の肩先を掴む。実際少し尖っている。カレンとて気にしていないわけでもなかったのだが。 「きちんと食ってるのは知ってるがな。研究、やり過ぎなんじゃねぇの?」 「いえ……そんなことはなくて。このところ急に痩せたんで、自分でもちょっと」 困っているのだ、とカレンは顔を顰めた。魔術師師弟の会話にライソンが苦笑している意味がわからない。首をかしげてしまえば何でもない、と笑みを向けられたが。 「なるほどな。じゃあ、そういう時期だな」 「そう……なんですか?」 「女の体は二十歳前後で一度変わるからな。女の子の体から女の体になんだろうよ」 「あぁ、そういうことでしたか。なるほど」 「ほんっとにさ、魔術師って不思議って言うかな。なんでそう言う微妙な会話を真顔ですんだよあんたらは!」 からからとライソンが笑っていた。先ほどの苦笑はそれが理由か、とカレンは納得する。が、ライソンの驚きのほうはやはり、理解ができない。 「微妙な話題ではあるけどよ。何しろこっちは師匠でそっちは弟子だ。たいしたことでもねぇよな?」 「ですね。さすがに赤の他人に言われりゃ私だって気にしますが」 「そこら辺が魔術師だなって言ってんの、おわかり?」 ふふん、と笑われて師弟は揃って首をかしげる。そんな二人を尻目にライソンが熱いと岩に腰かけた。なぜとなく、二人もまた同じように。風がひどく快かった。 「俺としちゃな、ライソンよ。弟子ががりがりに痩せてくのは気がかりなんだぜ? ちゃんと食ってんのか寝てんのか、師匠がうっさいほど言ってたのが身に染みらぁな」 しみじみと言うくせにエリナードは笑う。自分に照れたのだろうとカレンは思った。隣にあったはずの気配に寂しさを覚えたのだとライソンは思った。 「がりがりってほどじゃないだろ? まぁ、だいぶ痩せたかな、とは思うけど」 「ライソンさん?」 「うん?」 「いや……目を、そらされた気がしたんで。何かな、と」 「あのな、お嬢。俺は普通の男なんだよ。若い娘さんが素っ裸同然で側にいりゃ、真正面から見ちゃだめだろう程度は思うんだっつの」 「私ですよ?」 「……だよな」 何かを諦めたらしいライソンだった。カレンとしては父同然――と言うほど年は離れていないが――の人に見られてどうのもないのだが。 「エリンだってさ、お嬢のこういう姿見てなんともねぇだろ?」 「こいつが男だったら気にするかもな」 若い男が側で裸でいれば落ち着かない、とエリナードは笑う。カレンとしては納得のいく回答でもある。ちらりとライソンを見やれば「若い男」に自分が含まれていると気づいたのだろう彼がほんのりと赤くなっていた。 「私もですね。師匠の裸見てもなんとも思いませんが、ライソンさんはちょっと恥ずかしいかな」 「そうなのか?」 「なんとなく、ですけどね」 それこそ家族に見られても年頃であれば多少気にしないでもないだろう、程度のものだが。実際カレンはまじまじとライソンの肌を見ていた。 「すごい傷っすよね。あちこち、傷だらけだ」 若いながら歴戦の傭兵の肉体だった。腕といい腹といい、至るところに傷跡がある。これではエリナードが心配するはずだ、と今にしてカレンは思う。 「お前な、褒めるところが違うんだっての」 なぜか妙に自慢そうな師だった。首をかしげるカレンに、エリナードはライソンの腕を強引に引いてはその背を向けさせる。 「ほらな? 綺麗なもんだろうが。背中の傷は戦士の恥だぜ。こいつの背中は傷一つない。見事なもんだろうが」 「それをなんで師匠が自慢げに?」 「そりゃ、俺の男だからだろ」 胸を張られてしまってはカレンは得心するしかないではないか。うっかりうなずいたカレンにライソンが納得するな、と大きく笑う。 そのときだった。周囲が突如として騒めく。嫌な気配ではなかったが、とカレンは振り返り、そのときにはエリナードが顔を覆っているのが視界の端に映った。 「な……!」 大騒ぎになって当然だ、とカレンは思う。しみじみと納得してしまう。呆けているうち、彼はやってくる。 「やあ、久しぶり。元気そうだね」 にこにことした、世にも稀な美貌の持ち主。長い銀髪を白い肌にまとわりつかせた吟遊詩人。左右色違いの目で微笑んでいた。 「……タイラント師」 「ん、なに?」 「タイラント師はその顔がめちゃくちゃ目立つんだってこと、考えたことあります?」 長々とした溜息。その言い草はないだろう、とカレンは緊張を隠せない。何しろ彼の四魔導師の登場だ。星花宮育ちのカレンであってもそうそう頻繁にお目にかかったことはない。エリナードとカレンは違う。エリナードは四魔導師の直弟子で、カレンはミスティの弟子だった。 「俺の顔は顔だろ? 別に鼻が三つあるわけでも耳が四つあるわけでもない。口だってちゃんとひとつだろ?」 にやりとしつつ当たり前の顔をして温泉に浸かってくるタイラント。風呂なのだから入るのはかまわないのだが、あまりに無造作にされるとカレンなど戸惑ってしまう。 「あー、タイラント師。うちの弟子が緊張してますんで」 「カレンだったよな? ミスティんとこの子。覚えてるよー」 「あ、はい! エリナード師にお世話になっています!」 「うんうん、よく勉強してるみたいだね。俺たちが応援なんかしなくっても頑張る子なんだなぁと思って遠くからだけど眺めてたよ」 屈託のないタイラントの笑顔。見られていた、とカレンは顔から火が噴きそうな思い。恥ずかしくて、誇らしくて。そんな弟子をエリナードがもぞもぞしながら見やっていた。 「タイラントさん、珍しいっすね」 「そうだよな。ほんと久しぶり」 「いや、そっちじゃなくて。エリンが照れてますよ」 言った途端ライソンが悲鳴を上げる。カレンは思わず笑っていた。風呂の縁に腰かけたまま頭から水をかぶれば悲鳴も上がるというもの。そんなエリナードとライソンにタイラントが目を細めていた。 それからタイラントは楽しそうにお喋りをする。あの子はいまなにをしている、彼女は元気だ。そんな星花宮の日常。エリナードが目を細めてそれを聞いている。懐かしいのだろう、とカレンは思う。少し、不満だ。いまここに自分がいて、ライソンがいる。 「エリン」 カレンの感情に気づいたのはライソンのほう。が、とっくに師は弟子の気分に気づいていたらしい。目顔で笑われた。それにはライソンのみならずタイラントまで処置なし、と肩をすくめる。 「ん……? タイラントさん、その傷、どうしました。って古傷か。それにしてもすげぇな」 充分に温まったのだろうタイラントだった。みなと同じよう縁に腰かければ、薄紅に染まった肌。エリナードは幼いころのことを思い出す。こうしてタイラントとフェリクスと、師弟四人でイーサウに遊びに来たあの日を。イメルはこっそり「師匠は雪の神様みたいだ」と照れくさげに笑っていた。いま弟子が似たような思いを抱くか、と思えばおかしくてならないエリナードだった。 「あぁ、これ? うん、古傷古傷。昔ねー、シェイティにやられて」 楽しげに笑っていたが、ライソンはぞっとしている。冗談半分に殺気を向けられることはあったフェリクスだったけれど、まさか伴侶にこれほどの重傷を負わせたことがあるとは。ライソンの目から見てもその首筋に残る傷跡はほとんど致命傷だったとしか思えない。 「あの痴話喧嘩か」 くすりとエリナードが笑った。痴話喧嘩で与えた傷にしては重すぎるだろう、カレンまでも青くなっている。そんな二人にタイラントは肩をすくめる。 「エリナードは知ってるけどさ。昔、まだシェイティと大喧嘩してるときにね。俺はドラゴンだったんだけど」 「はい?」 「呪われてたんだよ」 竜の形に変えられ、押し込められたタイラント。原因をただすならば呪いなのだが、その形になってしまったのは本人の魔法だったと言う混沌とした状況の中、二人は諍いをした、とタイラントは言う。 「人間になんとか戻ってから俺は最低の振る舞いをした。シェイティを怒らせて、それに俺が怒って。堂々巡りだよ、ほんと」 あっさりと言うような話ではない、とエリナードは思う。フェリクスが許している過去の笑い話だからいいようなものの、かつて師の精神世界でそれを目の当たりにしたこともあるエリナードだ。最低、などと言って済ませる振る舞いではなかったとも彼だけはこの場で知り抜いていた。 「うん、やっぱり君はいまだに俺が許せないだろう?」 「え? あぁ、いや。そんな面してましたかね」 「うん、してたしてた。シェイティの息子はいまだにお父さん大好きだよな。あの人、ほんと愛されてるよな。俺はそれがありがたくて、すごく嬉しいと思ってるよ、エリナード」 なんの作為もなく微笑まれ、エリナードは目をそらす。それをライソンとカレンが顔を見合わせては笑い合っていた。 「で、結果として俺はもう一度ドラゴンに変えてもらってさ、死んで行こうかな、と」 淡々と言われただけに、どれほど凄まじい諍いだったか想像したくない、とカレンは思う。師を見やればにやりとされた。知らず背筋が凍る。 「なのに、正気が消える寸前だったんでしょ? 師匠がやっぱ好きだからってタイラント師を止めたのは」 「んー、まぁ。そう言われると俺でも恥ずかしいけどね。でも、それが正解、なのかなぁ」 「正解ですよ。俺は師匠が生涯口にしないだろう思いをちゃんと知ってますからね」 ぽん、とエリナードが自分の胸を叩く。かつてフェリクスに抱えられた己の精神を。彼の心のすべてを見てしまった自分を。見せてくれた師を。タイラントはそれに黙って微笑むだけだった。 「でな、相手はドラゴンだぜ? さぁ、カレンよ。師匠はどうやってドラゴンのタイラント師を止めたと思う?」 「へ……。想像の限界を超えてるんですけど」 「単純なことだぜ。――自分もドラゴンになった、それだけだ」 「結果、思いっきり首を噛まれてねー。ざっくりばっさり。それで正気にはなったんだけど」 「今度は死にかけたわけ。幸いタイラント師は呪歌の使い手だったからな。無事生き残ったらしいけどよ。あんときタイラント師が亡くなってたら、師匠も死んでた。絶対あの人はその場で後追いしたに決まってる。そんときには俺もここにいないわけだ」 にやりとするエリナード。カレンの頬に血が上る。続いて行く魔術師としての血統。親がいないならば子はいない、それと同じことを血の一滴も繋がらないエリナードが言う。くすりとライソンが笑った。 「タイラントさん、よく妬かねぇですね?」 「妬くと怒られるんだよ、意味わかんないだろ?」 「あー、なるほど。なんとなくわかるかも」 「君も、なんだろ。ほんとは?」 小声で言葉を交わす二人に聞こえているぞ、とばかりのエリナード。カレンまで吹き出した。偉大な四魔導師の一人、ではなく生身のタイラントをいまカレンは見たのだろう。それでいいとエリナードは思う。尊敬する、目標にする。それはそれで構わない。自分も同じことをしている身だ。が、理想化だけはいただけない、と思っている。それでは自分は決してその先にはたどり着けないだろうと。カレンには自分がいずれ到達するフェリクスの、その先にまで行ってほしい。 「ちゃんとお師匠様してるじゃないか、君も。シェイティは色々心配してるけど、大丈夫だよな、君は。元々君ほど立派な息子はいないんだし」 「まぁ。そうありたいですけどね。だいたい親父の過保護は今にはじまったことじゃないでしょうが」 その程度の問題だ、エリナードは言い放つ。ライソンだけは、気づいた。あるいはタイラントもほんのりと。言いつつどれほどエリナードがその師を恋うているかを。 「あの人にも言い分はあるんだと思うけどね。ま、大丈夫だって俺は確認したわけで」 元より心配などしていなかった、とタイラントは笑う。星花宮の匂いだ、エリナードは思う。カレンもまた、少しは。 「だから。ほい、手を出して。お届け物だよ」 「なんす、か――って!?」 「シェイティがカロル様とイルサゾートの効率化を研究しててね。実用まで行ったから息子にも教えてあげたいってさ、あの人」 笑うタイラントに握られた片手。刹那の間に流れ込んでくる術式。その膨大な量は呪文構成だけではなく研究の過程をも含む。 カレンはその師の目を見ていた。いままで冗談口を叩いていたのと同じ男とはとても思えない、その表情。わずかに半眼になり、口許に軽く当てた指先。唇が動いているところを見れば精査中、というところか。タイラントもまたそんなエリナードを微笑んで見ていた。 二人が並ぶとこんな見物はない、とカレンは思う。雪の神のようなタイラントと氷の王子のようなエリナード。正にお伽噺そのものだ。眩暈を起こしそうな景色だとも。そんな馬鹿なことを考えていなければ師に視線が吸い寄せられて止められなかった。 「見惚れてるな、お嬢?」 「いや、そうじゃなくて!?」 「魔術師だよなぁ、お嬢も。エリンが魔法のこと考えてるときの顔、好きだろ。憧れて、絶対そこまで行くって顔してるもんな」 息を飲んで言葉が止まってしまったカレン。ライソンは正確だった。カレンの眼差しが、間違いなく弟子として師に憧れているのみだと彼は理解してくれている。それが照れくさい。同時に嬉しい。 「タイラント師」 そんなやり取りになど気づいていないエリナードだった。研究資料をざっとであっても読むのに精一杯。 「ん?」 「俺の思いつきなんで、実験はそっちでやってほしいんですけどね。これ、ここ――あぁ、もう! タイラント師、手!」 師匠筋の人間にそれはないだろう、ライソンが大きく笑う。それにも気づかずエリナードはタイラントの手を強引に取る。 「ここです、ここ。俺だったら、こっちのほうが効率いいと思う。どうです?」 「あぁ……ここ、か……。正直俺はシェイティほどイルサゾートがうまくない。帰って渡してみてからになるけど……」 「タイラント師、話が長いです!」 「……ほんっとに君ってばシェイティの息子だよな! なんで俺は親子揃って怒鳴られてるんだよ!?」 「そりゃ怒鳴らせてるタイラント師の責任じゃないでしょーかね?」 「そりゃさー、俺にも言い分があるもん」 ぷん、と頬を膨らませてもフェリクスではないエリナードだ。特に嬉しくもないし楽しくもない。そんな彼の眼差しにタイラントが大きく笑う。からかわれただけだった。 「だってさ、エリナード。君が直接シェイティに言えばいいだけだろ?」 「俺は……。追放の身の上ですよ?」 「だから? あのな、エリナード。君ほどの魔術師が、イーサウとラクルーサに離れてるからと言ってシェイティと接触できないなんてわけがあるのか? なんの冗談だ、それは」 カレンは息が止まりそうになる。己の師とはそれほどの男だったかと。尊敬はしている。絶大な信頼を寄せてもいる。が、そこまでだとはとても。 「違うからな、カレン。俺は実際、腕はいいぜ。それは否定しねぇ。したら嫌味だからよ。ただ……俺と師匠は裏技が使えんだ、それだけだな」 「それは……その……」 タイラントを目の前にしてさすがにカレンも言えはしない、あなたはフェリクス師の浮気相手だからなのかとはとても。直後、強かに水浸しになった。 「師匠!?」 「いま、ものすっごく失礼なこと考えただろうが? 俺はな、この世に男が絶えようと師匠とだけは寝たくねぇわ!?」 「確かに、そりゃそうですけど!?」 「あぁ、なるほどなー。さすがシェイティの息子だし、その娘だよな。うん、理解の仕方が無茶苦茶だ」 絶句するカレンはいったいどこに言葉を失ったのだろう、とエリナードは力なく思う。おそらくはあっさりと娘、と言われたことにではあるのだろう。もっともエリナードとしては娘の無茶な理解の仕方にこそ絶句したい気分で一杯だった。 「で、師匠!?」 「へいへい。いまはまだ俺の恥だから話してやんねぇっていつか言ったっけか? その話だよ。親父と俺は精神に直結の回路があるも同然だからよ。……たぶん、やれば届く」 「だったらそうすればいいだろ。できるんだから」 タイラントがそそのかす。常日頃タイラントは言っていた、星花宮は魔の巣窟、カロルは悪魔の総大将でフェリクスは悪意の顕現と。だがタイラントはどうなのか。何気ない笑みで誘惑するのはやめてほしいとエリナードは溜息をつく。 「下手に接触したりしたら親父が心配するだけじゃねぇですか。俺だってせっかくの親離れだ、自立するってことを見せたいもんですよ?」 「ふうん?」 「……師匠の真似はやめてくれませんかね?」 「ほらな?」 何がほら、なのかカレンにはわからなかった。ライソンは理解した。タイラントは言わない。エリナードはそっぽを向く。 ただ寂しいだけだろうとは、どちらも言わなかった。 後日、青薔薇楼のエメラーダを名乗る女より届いた嫋々たる愛の手紙。解呪に苦闘し、カロルがしたためた「イルサゾート再改良の研究報告」と証明できるまでの三日間、エリナードはカレンの非難にさらされ続けた。 |