腹が立った。リオンを宮中で見かけたから、というだけではない苛立ちだった。そもそも、あの男は嫌いだ。性に合わない、とフェリクスは思っている。それにしても腹が立つ。というよりもむしろ。 「……むかつく」 あまりにも品のない言葉で、普段ならば決して口にしない。師のカロルは水が流れるように罵倒ばかりをしているような男ではあるけれど、フェリクスは違う。 「違うと思いたいんだけど」 呟くぶん、実のところ真実が漏れ出す、と本人も思わないでもない。ただカロルよりはまともな暴言だ、とフェリクスは思っている。 「どっちにしても腹、立つよね」 誰に言うでもなくフェリクスは口にし、苛々とした足取りのまま廊下をを歩いていく。魔術師たちの住処、星花宮だった。 あれ以来、未だ荒野は緑を取り戻してはいない。それにも心が苛立つ。自分が腹を立てるようなことではない。 自分の責任においてなすべき責務、と理解はしている。わかってもいる。果たすつもりでもいる。それでも、師匠が薔薇色ではなぜとなく腹が立って仕方ない。 「ねぇ、ちょっといい?」 思い切り荒々しく扉を開けた。言うまでもなく師匠の部屋だった。リオンがいないことは先刻承知。彼がいないことを見越して、きている。 「おう。どうしたよ」 カロルは何事もなかったかのような顔でフェリクスを迎えた。手に魔導書を持っているところを見れば研究中だったのだろう。それを思えば少しばかり悪いような気がしてフェリクスは惑う。が、気持ちを改めてカロルに向かった。 「なに睨んでやがる」 が、カロルはその視線を苛立ったよう、いなした。それがいっそうフェリクスを苛立たせるとは知らずに。あるいは知っていてやっているのかもしれない、とまでフェリクス思う。 「睨まれてると思うならやましいところがあるんじゃないの」 「やましい? なに言ってやがる」 「ちょっとくらいやましいと思ったら? あんな目立つことしといてなに言ってるわけ?」 「だからな、馬鹿弟子が。言いたいことがあるんだったらわかりやすく言えよ。言うまでもないことだがよ、俺は忙しいんだ。見りゃわかんだろうが」 しみじみ呆れられた。それはそれで腹が立つ。とても。自分がすべての原因だとわかっていても、腹が立つのは甘えだとわかってもいる。 それを許してくれる師だというのも。だから今は思い切り甘えることにする。フェリクスはそう決めてにこりと笑った。 「あの男」 「はい?」 「リオンとか言うボケ坊主のこと」 「言ってんだろーが。あれをボケって呼んでいいのは俺だけだって」 「それって惚気?」 「だったらどうするよ」 「よけいむかつくけど?」 「だからよ。なに腹立ててんのか言えって」 たぶん、とても愛されているのだとフェリクスは思う。弟子として、これ以上なく慈しまれているのだと思う。言葉の荒さとは裏腹に。それを感じ取れないフェリクスではなかった。 「……リオン」 「だから、あいつがなんだってーの」 「……跡。ついてた。恥ずかしくないの。みっともない。自制しなよ」 今朝見かけたリオンの首筋。はっきりと赤いくちづけの跡が残っていた。思わず見つめれば、それだけではない。爪でひっかいたような跡まである。あまりにも歴然としすぎていて、なにを言う気にもなれない。少なくとも、本人には。 「あん?」 「だから、昨日の晩、なにがあったかわかりすぎ。せめて見えないとこにすれば?」 叩きつけるよう、言ってしまった。自分の口調が子供じみていてそれにも苛立つフェリクスを、カロルは少しばかり笑っただけだった。 「やきもちか?」 「ちょっと! なんで僕が妬かなきゃいけないわけ。馬鹿なこと言わないでよ」 「そうとしか聞こえねェから言ってんだろうがよ」 「どういう耳してるの。頭おかしいんじゃない」 「それが師匠に言う言葉か。ちったァ自制しろ」 言いつつカロルは笑っていた。からからと声を上げて笑ってるものだから、かえってフェリクスは気勢をそがれてしまう。呆れ返って溜息をついた。 「……可愛いもんじゃねェか」 「なにがさ」 「あの男が、さ」 ふっとカロルが笑う。その笑顔があまりにも精悍すぎてフェリクスは言葉を失う。今まで見たことのない顔を彼はしていた。 「俺をテメェのもんだって言えないから俺に跡つけろって言いやがる。可愛いだろ?」 「……どこが」 「言ってもいいんだけどな。つか、言えよくらい俺としちゃあ思ってんだがよ。遠慮がちな野郎だぜ」 ふふん、カロルが鼻で笑った。馬鹿にする仕種なのに、どうにも幸せでしかたない、そんな気分があふれ返っていて馬鹿馬鹿しくなりかける。 「……よく、平気だよね」 「なにがだよ」 「男。なんで男に抱かれて平気なわけ。理解できない」 フェリクスは遠くを見ていた。どこでもないどこかを見ているその目は、もしかしたら過去を見ているのかもしれない。 「おい」 カロルの厳しい声がフェリクスの夢想を破る。はっとして師を見れば、照れたような顔をしていた。 顔を見合わせ、互いの過去を思う。共通した苦痛を持つとは、決して考えたこともなかったものを。どちらからともなく目をそらした。 「あのな」 「なに」 「惚れた男に抱かれてみな。そうすりゃわかる」 言ってカロルは大きく溜息をついた。それが余りにも長く深い溜息で、フェリクスは知らず師を見つめる。 「――つかよ」 「なにさ」 「……なんで男の師匠が男の弟子に男作れなんてわけわかんねェこと言ってんだよ」 「環境のせいじゃない? メロール師にはアルディアがいるし、カロルにもあいつがいるし」 淡々と茶化したフェリクスにカロルが苦笑う。自分でもどうしたいのか、なにを考えているのかすらわからない苛立ちをフェリクスが抱えているのを師の目は見て取っていた。 「そう言う問題かよ。せめて女作れ、女」 「……やだよ」 「なにがだよ」 「女。男でも一緒。誰でも、一緒。人間は、かな。どうだろ。半エルフだったら違うかな。僕と同じ生まれの誰かだったら違うかな。わからない。今の僕にわかってるのは――誰かに触られたりするって考えただけで吐き気がするってこと」 「吐き気、か……」 ふっとカロルが小さく息を吐いた。もしかしたら笑ったのかもしれない、そう思ったフェリクスが師を睨む寸前のことだった。 カロルの腕が伸びてきた。瞬きをする間に肩先に触れ、抱き寄せてきた腕。呆れもしなかった。それまでは。 つ、とカロルが体を屈めた。わざわざ遠い方の頬にカロルは唇を寄せ、柔らかなくちづけをした。呆れることもできなかった。 「吐き気、するかよ。気持ち悪ィかよ」 「……ここで全然、なんて言ったら僕は本気で変態だと思うんだけど」 口ぶりにフェリクスの感情が透ける。少しもいやではない、少なくともくちづけられたことに対しての嫌悪感は持っていない、と。カロルの明るい笑い声が弾けた。 「変態、な」 くっと笑っていまだ抱き寄せたままだった肩先を、ぽんと叩いて離した。それにフェリクスがはっとする。思わず何事かを言いかけた彼の口を塞ぐよう、カロルが笑う。 「別になんでもいいけどよ。あいつには黙っとけよ、いまの。ぜってェ妬くぞ」 「鬱陶しい!」 「だから黙ってろって」 言い様カロルは背を返す。休憩はこれで終わりだ、仕事を再開しろ、と無言のうちに彼は言う。フェリクスはきゅっと唇を噛んでうなずく。見えたわけでもないはずなのにカロルはうなずき、そして部屋を出ていった。 後ろ姿に、消えてしまった扉にフェリクスは視線を向け続けている。それからゆっくりと己の肩先を見た。 「カロル……」 師は口にしたも同然だった。フェリクスの心を中を。その本当の恐怖を。 「信じられないのは、人間じゃないってこと?」 男も女もいやだと言ったフェリクスの肩をカロルは抱いた。触れられて、なにも感じなかった。頬へのくちづけの驚きが先に立ったとはいえ。 「僕が信じられないのは」 カロルが抱いていた肩先をフェリクスは掴んだ。力の限り、痛みを感じるほど。自分の心ほど痛くはなかった。 「――僕」 自分自身を信じきれなくて惑っているだけだとカロルは言った。これほど、愛されている。それを今ほど痛感したことはなかった。師の心の深さに思わず涙すらこぼれそうになったフェリクスは唇を噛みしめる。 「いつか、必ず」 自分を信じきるのか、それとも愛しいと思うことができる誰かを師の前につれてくるのか、それは今のフェリクスにはわからないことだった。 いずれも同じことかもしれない。今のフェリクスにとって、塔の跡地の荒野に一本の草を芽吹かせることと同じほどの難題だという意味で。 一度フェリクスは拳を握りしめる。それから決然として師の部屋を出た。まるきり目処は立っていない。それでも気力は蘇った。 「もしかして、励ましてほしいだけだったのかな」 くすりと笑い、フェリクスは歩き出す。調べ物に向かってではあった。けれどその爪先は明日を向いていた。 |