軟禁を解かれてから三ヶ月。リオンはいまだ王宮の賓客用離宮に滞在したままだった。望めば王宮から街に出ることも、どこかに住居を持つことも可能だったがなんとなく言い出しかねてそのままになっている。
「あの人がねぇ」
 行きたい場所はとっくにある。カロルの側にいたい。が、リオンはそれを言っていいものかどうか迷っていたのだった。
「魔術師ですしねぇ」
 カロルは王宮の一角に自分の部屋を持っている。王宮、と言ってもやはり離宮の一つで、宮廷魔導師団が拝領している、いわば研究のための建物だ。
 魔術師と言うものは没頭すると昼夜の感覚すらなくすものらしい。当然自宅に戻って休む、などしている余裕はなくなる。
 リオンもその離宮、星花宮の廊下で倒れているカロルを見つけたことが一度と言わずある。はじめて見たときには驚いたものの、いまは慣れてしまった。
「寝てたか」
 うろたえて抱き上げてみれば、カロルはぼんやりとそう言ったのだった。
「寝て、たんですか?」
「あぁ、寝てた。ここ、どこだ?」
「星花宮の廊下ですよ」
「……また落ちてたか」
「拾っておきましょうか?」
「頼む」
 そう言って、今度こそぐっすりとカロルは眠った。以来、落ちているカロルを見つけるたび、寝室まで拾って帰るのはリオンの役目となっている。
 それなのに、リオンは星花宮に住んではいなかった。気後れ、かもしれないとリオンは思っている。あれから三ヶ月。すでにカロルの正式な弟子と認められてはいるものの、神官でもあり王の客――少なくとも建前上は――でもある。星花宮に住みたい、とはさすがのリオンにしても中々口にできることではなかった。
「毎日通ってるんですけどねぇ」
 カロルの弟子なのだから、当然だった。朝起きて、食事を済ませて星花宮に向かう。魔法の訓練を終えて、今度はやはり王宮の一角に許された自分の小さな祭壇に祈りを捧げる。それから与えられた部屋で眠ることもあれば、カロルの元に忍んでいくこともある。
 面倒な、と思ってはいるのだが、希望を口にする機会もない。苦笑してリオンは離宮を後にした。
 星花宮は、王宮の中でも少し外れた場所にある。人気がなくて、散策するには絶好だった。花の小道をリオンはそれなのに足早に歩いていた。訓練が楽しみなのももちろんある。それ以上にカロルに会いたかった。
「失礼ですが――」
 そんなリオンの足を止めさせたのは細い声だった。視線を移せば息を弾ませた侍女が後ろにいた。ここまで走って追いかけてきたのだろう。わずかに胸元を押さえている。
「はい?」
 知らない仲ではなかった。リオンの部屋付きの侍女だった。リオンはにこりとして足を止めて体ごと振り返る。
「あの……」
「どうしました、ローザ?」
「いえ。その」
 ほんのりと頬を染めて侍女が困っていた。それを穏やかに見やりつつ、リオンは内心で慌てている。非常に嫌な予感がしていた。
「突然呼び止めたりして、さぞはしたないとお思いでしょうが」
 実際、侍女が王家の客を呼び止めるなどありえない。はしたないなどと言う問題ではなかった。だがリオンは実質上、王の客ではない、と言うことが最近では知られている。
「なんでしょう?」
 焦ったリオンは彼らしくもなくもローザの言葉を遮るようにして首をかしげた。
「私は、その――。王家にお仕えして一年になります」
「はい」
「つまり、結婚までの行儀見習い、と言うことです」
「はい、それが?」
「そろそろ、結婚することになると思います」
「それはおめでとう」
 にっこり微笑むリオンに、ローザははっきりと顔を強張らせた。それでもここまできたならば言ってしまえ、との決意も露に唇を引きしめてリオンに言った。
「私と、結婚していただけないでしょうか」
「……はい?」
 これほど直接的な言葉を、侍女から聞くとは思いもしなかったリオンは不意を突かれて目を瞬く。侍女、と言っても離宮に控える彼女たちはみな名家の出だ。本来ならば、一介の神官とどうこうするような相手ではない。そもそも女から求婚することが尋常ではない。
「ご存知のとおり、私の父にはある程度の地位もあります。持参金も、それなりにお持ちできます。神官である、と言うことがお気にかかるなら心配はご無用です。私の父も神官でした。母のたっての願いで祖父にも見込まれ当家に――」
「ちょっと待ってください」
「はい」
 いつまでも待ちます、とばかり見つめられてしまってリオンは退路を断たれた気分になる。自分が断るとは思ってもいないらしい彼女になにをどう言えばいいのだろうか。
「朝から麗しい話だな」
 その声に、リオンの退路は完全に断たれた。恐る恐る振り返れば、翠の目が険悪に細められている。思わず顔を覆いたくなるのをリオンは必死でこらえた。
「あー、その。おはようございます、カロル」
「早くねェよ。こんなところで油売ってんじゃねェ。こっちは忙しいんだ」
「お忙しいあなたが、なぜここに?」
「あん? トランザムにちょっと用があってよ。的を借りようと思ってな」
「的、ですか?」
「おうよ。活きのいいのが必要でな」
 言わんとしたことを理解した。カロルはどうやら若い騎士を魔法の実験台にする気らしい。近衛騎士団もたまったものではないだろうが、不思議なもので騎士団長とカロルは優良な交友関係を築いている。
「生餌を借りに行こうと思ったら、こんなおもしれェもんを見ちまったわけだ」
 的が、生餌呼ばわりになった。侍女はとっくに顔色を変えている。彼が、黒衣の魔導師と知らないわけはなかった。
「カロル。ご機嫌斜めですね」
 笑顔の恐ろしい人をできるだけ刺激しないよう、リオンは言葉を選んだつもりだった。だが、つもりでしかない。案の定、カロルは激発した。
「ッたり前だろうがよ! テメェの男がもてんのは悪い気はしねェがよ、口説かれてる現場見てにこにこしてられるほど心が広かねェぞ、俺は」
「これは嬉しいことを言ってくださる」
 黒衣の魔導師はもちろん恐ろしかった。侍女ともなれば彼の噂は色々聞こえてくる。その彼の罵声を間近で聞いたのだ、侍女がすくみあがっても無理はない。
 だが、リオンはそんなカロルを見つめてはうっとりと微笑んでいる。ローザは名家の娘とは思えないほど驚きも露にぽかんとした顔をした。
 リオンとはこんな男だったか、そんなはずはない、とその顔にありありと書いてある。
「おい、あんた」
 黒衣の魔導師に話しかけられて、ローザは真実飛び上がった。
「はい!」
「これは俺のもんだ。口説くのはあんたの勝手だがな、俺に見えないところでやれ。星花宮の側で口説くなんざ、論外だ」
「……は、はい」
 そもそも口説いていいのか、とローザは思いはしたが言えなかった。どう考えても暴言としか思えない言葉を吐く魔術師を、神官はこれ以上ないほど嬉しげな顔をして見つめている。ローザは信じがたい思いで二人を交互に見やった。
「だいたいな、テメェが悪い」
「私が、ですか?」
「おうよ」
 問いかけたリオンは楽しくてたまらない、そんな顔をして首をかしげる。弾む心を抑えかねているのが目にも口許にも如実に表れ今にも明るい声で笑いそうだった。
「テメェ、いつまであっちにいるつもりだよ」
「そうは言いましても、移動していいものかどうか」
「住みてェとこはないのかよ、あん?」
 リオンの言い分に、カロルは少しばかり機嫌を直したらしい。荒い言葉はそのままながらわずかに悪戯をするような目をした。
「そりゃ、ありますけどね。ですが、言っていいものかどうか迷っちゃうじゃないですか、私だって」
「なにごちゃごちゃ言ってやがる!」
「だって、カロル」
「うっせェ!」
 まるで雷が落ちたような怒鳴り声にローザは体をすくめた。立ち去りたい、自分は非常に場違いだ、そう思うのだが体が動かない。
「持参金代わりだ、ハルバードひっ担いでとっとと嫁にきやがれ!」
 怒鳴り声は変わらなかった。それでも何かが違う。怖々と視線を上げたローザの目に、少しばかり目許を染めた黒衣の魔導師の姿が映る。
 やっと、事情が飲み込めてきた。場違いな場所にいるだけではなく、見当違いな求婚をしたことも、理解してきた。いたたまれないローザが目を伏せれば、嬉しげな笑い声。
「お嫁にねぇ? もしかしてウェディングガウンを着るんですか、私」
「そう言う問題か? つーか、似合うかよ」
「あなただったらとっても似合うと思いますよ、カロル。着ます?」
「仕方ねェ、着て見せてやってもいい。テメェにだけならな」
「これは嬉しいことを言ってくれますねぇ。では司式は私が務めましょうか」
「花婿自ら司祭かよ。とんでもねェな。つか、着ねェからな。本気にすんじゃねェ。俺に女装させる気だったら、死ぬ覚悟で嘆願しろ」
「うーん、死にたくないです、私。残念ですが撤回しましょう」
 にこりとしてリオンは言った。あり得ないものでも見る目つきで、ローザは二人を見比べていた。やっとのことで口を開く。
「あの、リオン様――」
「なんでしょう?」
 問いかけたものの、あなたはこんな人だったのか、とはさすがに言えない。うろたえる侍女にカロルがきつい視線を向けた。
「あんた、この男のどこがいい?」
「それは――。リオン様はお優しくて穏やかな、本当に立派な神官様だと思います」
「なるほどな」
 カロルはそううなずいた。だが彼はまったく納得していない、それがローザにもわかるほどに、納得していない。
 それがローザには理解できなかった。リオンはいつでも笑みを絶やさず、侍女にも従者にも優しい。仕事の合間に彼が近衛の若い騎士と立ち合っているのを見たことがある。勝者のはずのリオンは奢ることなく騎士を指導していた。
「あんた、この男の顔に騙されてんだ」
「そんなことは――!」
 ありえないことを聞いた、ローザは知らず声を荒らげた。彼女を見つめる二組の目が哀れみに満ちていることにも気づかずに。
「俺が言ってんのはそう言う意味じゃねェ。この男は、あんたが思ってるような優しくて穏やかな神官なんかじゃねェぞ」
「おや、カロル。そんな風に思ってくれてるんですか?」
「テメェの面だけ見てりゃそう見えるって言ってんだ。人の話は聞けよ、ちゃんと」
 呆れて言いつつカロルは笑っていた。ローザが不審そうな顔をして魔術師を見ているところを窺えば、どうやら彼女はカロルがなにを言ったのか理解できなかったらしい、そうリオンは思う。
 だからやはり、彼女は自分の顔に、と言うよりは表面的な外面に騙されているのだ。騙しているつもりはないものの、リオン自身はそれが外面だと知っていたし、カロルが言うとおり優しくも穏やかでもないと自覚している。
 普通の人間ならば、いくら恋人にであってもそのような言われ方をすれば多少なりとも不快だろう、とリオンは思わないでもない。だがリオン自身はまったく不快ではなかった。それどころか喜んですらいる。カロルが自分と言う男を知っていてくれることに、非常な充足を覚えていた。
「これは、敵の返り血に汚れたままにっこり笑って飯を食おうって言うようなボケた野郎だぞ」
 ローザはカロルに言われた言葉が咄嗟に理解できなかった。リオンが抗議している声も聞こえない。神官のはず、頭の中はそればかりが巡っていた。
「あんたの手に、負えるかな?」
 ここに来てようやくローザは理解した。黒衣の魔導師はリオンに誰かが触れることを決して許さない。リオンもまた、カロルの他に興味などさらさらない。
 嫣然と言ってもいいほど美しく笑ったカロルにローザはこくりとうなずく。正直に言えば、怖くてたまらなかった。
「賢明だな」
 褒められたのだろう、とは思う。だがローザはやはり動けなかった。
「俺は行くぞ。あぁ、そうだ。テメェでいいや。手ェ貸せ」
「なんです?」
「生餌。マルサドの神官に手ェ借りようかと思ってたが、テメェも神官だったな、忘れてたぜ」
「私は神官ですって、前から何度も言ってるでしょうに」
「テメェみたいな物騒な神官がどこにいるよ」
「ここにいますよ」
「うっせェ! 生餌の治療役やれ。いいな」
「はいはい。謹んで拝命いたしましょ」
「任せたからな。後からこいよ」
 そう言ってひらり、手を振ってカロルは行ってしまった。もうローザになど目もくれない。
「カロル。愛してますよ」
 彼の背中に向かってリオンが呟く。微笑んで、嬉しげに。誰かに聞かせるもの、と言うよりただひたすらに彼が好きなのだ、そんなリオンの声だった。
 ローザはようやく恋を失ったことを実感した。それでいながら、どことなく彼らを祝福する気になってしまったのだから、不思議なものだった。
「あの――」
 なにを言おうとしたのかはわからなかった。祝福の気分など、一瞬にして吹き飛ぶ。リオンの顔の横を、炎の矢が掠めていった。
「王宮内で攻撃魔法は感心しませんよー、カロル。聞こえてるんでしょう?」
 答えは再びの炎の矢。慄然と震えるローザの隣でリオンが心からの笑い声を上げていた。




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