王宮の、街で言うならば大通りに値する広い廊下でリオンが呼び止められたのは、ある日のことだった。
「なんでしょう?」
 咄嗟に神官の目を切り替える。ごく当たり前の人間の目で見ていなければ、頭がどうにかなりそうだった。
「ちょっとね、君に尋ねたいことがあってね」
 人目をはばかるのだろう。少しばかり廊下の端へとよけていく。若い貴族の男だった。きらきらしい衣装が必ずしも体にあっているとは言い切れない。似合っては、いるのだろう。だがけばけばしいことに変わりはない。
「はい?」
 本来の自分であるならば、にっこり笑って多忙を理由に辞去するところだ。けれどここはラクルーサの王宮。
 例の事件以来この都に滞在するようになり、そして星花宮に住み暮らすようになった今でもリオンとしては、これでも一応の遠慮と言うものがある。
「わかるだろう? メロール・カロリナだよ、君」
 さらりと彼の名を口にされた。それだけで不快だ。つくづく目を切り替えておいてよかったと思う。
「はぁ、なんのことかわかりませんが」
「とぼけなくっていいんだよ、わかる、わかっているとも。まぁ、そうだね。あまり吹聴することではないからね。なんといっても我々貴族には面子と言うものがあるからね」
 自分は貴族でもなんでもないのだが、とはリオンは言わなかった。すでに話の筋が見えはじめていた。知らず口許が引きつった。
「そこで君。君はあれに幾ら払ったんだい? 今後の参考までに聞かせてもらいたいね」
 あの事件で、カロルとフェリクスの過去が明らかになってしまった。人の口に戸は立てられない。気づけばあっという間にそれが噂となって広がっている。
「今後、ですか?」
 腹の中か頭の中か。どちらかで何かが切れる音が聞こえた。
「カロリナの顔をはじめて見たがね、君。彼は今でも充分に美しいじゃないか。いけないよ、君。寝室の相手は彼の商売なのだろう? 君が独占してはいけないね。さぁ、幾らかかるのかな?」
 無邪気で、何も考えていない言葉。リオンの頭の中から何かが弾け飛ぶ。不意に廊下に飾ってあった花瓶が目に付く。
「あぁ、いいところにいいものが」
 にっこりと、リオンは笑った。若い貴族は訝しそうに眉を顰める。その顔が瞬時に驚愕へと染められた。
「な……なんだ、これは! 君、離せ、なにをしている。私になにをするつもりだ!」
 若い貴族の体に、植物と思しき物が絡みついていた。払っても、払っても、ついには彼が動きを止めるまで。
「よく私がしているってわかりましたね」
 神官の温顔のままリオンは首をかしげる。そこに貴族ははじめて笑みではないものを見た。それが何かわかるほどの知能はなかったが。
「こんなことも――」
 きりきりと、植物がきつく体を締め上げた。声など上げられない。息などできない。
「こんなことも、できますよ?」
 リオンが操る植物にして植物ではない蔦は、貴族の袖から、裾から入り込み、その体を撫で回す。
「どうです。慰みものになってみますか」
「よせ、やめろ! 私を誰だと思っている!」
「さぁ、どなたでしょう。どなたでも別にいいんですけど。カロルを侮辱する人だとだけわかっていればいいんです、私」
「侮辱――」
「なんてしていない。まさかそんなこと言いませんよね。ご自分で言ったことですからねぇ。わかって言ってますよね、もちろん」
 肌を撫で回す植物の感触に、吐き気を催しそうだった。それよりなお目の前の神官が恐ろしかった。なぜ突然に無礼を働かれているのか、見当もつかない。
「あぁ、いけません。このままでは私も酷いことをしていることになってしまいます」
 にこり、リオンが笑みを深くする。それなのに貴族は体の震えが止められなかった。
「さぁ、幾らですか?」
「……は?」
「あなたはカロルを買えばなにをしても許されると思っているんですよね。でしたら幾ら払えばいいんでしょう、私。幾らで――」
 一歩、リオンが近づいてきた。救いを求めて辺りを見回しても、人通りが絶えないはずの大廊下には猫の子一匹いなかった。
「あなたを殺させてくれますか?」
 声にならない悲鳴が貴族の唇から漏れる。それを見てもリオンは何も感じていなかった。理性の箍が外れているのはどこかでわかっている。
 けれどカロルに対する最大の侮辱に、黙っていられるはずがない。むしろ黙っていたいと思っていない。
「さぁ」
 あくまでも微笑を絶やさないリオンに、貴族が口から泡を吹く。失神しかけようとするそのとき、リオンの頭が突然がくりと前にのめった。
「な――」
 驚く貴族にかまいもせず、リオンはにこにこと振り返る。
「どうしました、カロル?」
 無造作に近づいてきて、背後から後頭部を思い切り殴りつけた恋人に向かい、リオンはまだ笑みを浮かべていた。
「なにしてんだ、テメェは」
 呆れた声より、その口の悪さに貴族は目を剥く。何度も口を開け閉めし、結局は黙った。が、二人とも気にも留めていない。
「なにって、ちょっとしたお仕置きです」
「やりすぎだ。こんなところで暴走してんじゃねェよ。星花宮にいても感じたぞ」
「はぁ、そうですか」
「落ち着け、リオン。さっさと解除しな」
 鼻を鳴らして言うカロルに、リオンは微笑みながら首をかしげる。
「やめません」
「あん?」
「この愚か者が、なにを言ったかあなたは知らないんです。だから――」
「んなこたァどうでもいいんだよ。テメェが暴走してるほうがよっぽど心配だ」
「心配してくれるんですか?」
「おうよ」
「だったら私の心の安定のためにもこれ、殺していいでしょう?」
 こんなことを王宮の廊下で公言するようなリオンではない。カロルは内心で頭を抱える。完全に魔法を暴走させている。
 暴走した鍵語魔法は本人の願望をそのままに表す、と言うが、これが本性だとすると中々に恐ろしい、と少しだけ笑える。
「リオン。もう一度だけ言うぞ。やめろ」
「やめなかったら、どうしますか」
 すっとリオンの目が細められた。そこにいるのがカロルであると、彼はわかっている。最愛のカロルだと知った上で、殺意をあらわにする。
「さてな。どうしようか」
「戦いますか」
「それでテメェが止められるならな。幸い、迷惑もかからねェしよ」
 すでに人気は完全にない。捕らえられたまま身動きのできない貴族だけが顔面蒼白になっていた。
「では」
 リオン特有の気配を掴ませない動きだった。いつの間にか貴族の腰にあった剣を抜き、気づけば戦闘体勢に入っている。
「おう」
 口の中で呪文を唱える暇がない。咄嗟に飛びのき、距離をとってようやくカロルは愛剣を手に現す。
「ッたくよ、敵にまわすといやな野郎だぜ」
 かかってきた剣を炎の剣で切り払う。当たり前の鋼の剣は、それだけで切り飛ぶはずだった。
「野郎!」
 それなのに、まだ剣はリオンの手にある。彼の口許がにっと笑った。魔法で補助したか、それとも単純に剣の技量の差か。
 今のカロルに区別はつかない。と言うより区別をしている暇がない。あの塔での戦闘のときにも感じてはいた。
 だが間近に、それも敵として相対すればこれほどに手強い。次々に襲いかかってくる切っ先をかわすのだけで精一杯だった。
「ちっ。手間かけさせんじゃねェ!」
「あなたこそ。さっさと沈んでください。痛い思いはさせたくないですから」
「言ってろ!」
 思い切りよく踏み込む。一歩間違えればあの世行きだ。が、リオンを信じた。暴走していようが、彼はリオンだ。カロルの愛する男だ。
「テメェに俺は切れねェ!」
 胸元に飛び込み、リオンが下がりかける一瞬を捉える。拳に集めた魔力の固まり。そのまま振り抜き腹を殴る。
「……ぐ」
 傷の痛みなどないはずだ。いかに直接戦闘のできる珍しい魔術師とはいえ、その言葉通りカロルは魔術師だ。拳に乗る重みなどたいしたことはない。少なくとも、戦闘の専門家であるリオンには。
 それなのに、リオンは膝をつく。否、それだけではない。呼吸を求めるよう喘ぎ、そのまま前のめりに倒れて動かなくなった。
「ッたく、手間のかかる野郎だぜ」
 ほう、と長い息をついた。魔力による殴打。痛みも与えず傷もつけず、ただ衝撃だけを与える高等技術だ。さすがに肝が冷えていた。
「ひっ――!」
 リオンが意識を失ったのと同時に彼の魔法が解けていく。拘束が緩んだ貴族はそのまま這々の体で逃げ出そうとした。
「なにがあったのかな?」
 貴族の顔が青ざめる。いままでもなかった血の気が、更になくなって紙のようだ。
「お耳の早いことですね、陛下」
「ここは私の宮殿だよ、メロール・カロリナ」
 若い王が、背後に近衛騎士を従えてそこにいた。廊下での惨状を聞かされてのことではあろうけれど、自分で出てくる辺りに国王の気質を見る。
「御意」
 苦笑して、カロルはリオンの体を蹴りつける。酷いことをする、とノキアス王はこちらも苦笑いをしたけれど、うつぶせのままでは呼吸がしにくかろうという配慮だとはわからなかった。
「さて、なにがあったのかね」
「少々お時間を」
 再び問うノキアスにカロルは答え、そしてリオンの体を踏みつける。――ように見えて、実は軽く足を当てているだけだ。
 誰にもわからない。カロルが非道なことをしているようにしか見えない。事実は違う。意識を失ったリオンから、その心を読むことなどカロルにはたやすい。まして体の一部に接触していればなお。
「お耳汚しですよ、陛下」
 顔を顰めてカロルが一部始終を語ったのは、その直後のことだった。見る見るうちに貴族の全身から血の気がなくなっていく。国王が酷く固い笑みを浮かべるにいたって、今にも若い貴族は失神しそうだった。
「さて、どうすべきかね。メロール・カロリナ」
「私がかつて男娼であったのは事実ですが、今現在は廃業しているということを飲み込めない方が、殊に貴族に多いようですね」
「困ったものだ」
 どことなく面白そうに言うノキアスにカロルはつられたよう唇を歪める。
「ところでカロリナ、男娼を買うのは買春、と言うことになるのかな」
 まさか国王の口から出るとは思いもしない単語に背後の騎士たちがぎょっとする。カロルは困り顔でうなずいた。
「まぁ、そうなるでしょうね」
「買春は、不行跡を咎められるだけだがね」
「遺憾ながら仰せのとおりです」
 どこまでが本心だかわかったものではない、とカロルは思うが謹厳な王の顔に軽く頭を下げる。ふと思いついて口許に笑みが浮かぶ。視線を合わせたノキアスはひどく人の悪い顔をしていた。
「そう言えば、陛下。私は陛下の臣でした」
「なにをいまさら言っている。お前は星花宮の、宮廷魔導師団の一員。我が臣下に間違いがあるものか」
「はい。と言うことは、です。彼は――」
 そう言ってカロルは意地の悪い目をしながら床にはいつくばった若い貴族を見やる。
「我が臣下であるカロリナに金銭を供与し、自らの利便を図らせようとした、と言うことになるね。これは贈賄と言い得るだろう」
 いかにももっともらしげに王は破顔する。実はとっくに難癖をつけるつもりでいたのだろう。若い貴族の命運も窮まっていたらしい。
「買春は聞こえのいいものではないが、不行跡を咎めるだけで済む。が、賄賂はいけない」
 冗談ごとを言っていたようなノキアスの表情が引き締まる。腰の抜けている若い貴族が思わず逃げようとした。
「我が宮廷にそのような悪を蔓延らせるわけにはいかん。よろしく処置をするように」
 付き従っていた騎士に国王は命ずる。さすがに命を取るまではしないだろう、とカロルはわかっているが貴族はどう思っているか。喚き散らす気力もなく引きずられていく姿にわずかに哀れを覚える。
「陛下、どうか寛大なご処置を」
「それをお前が言うのかい?」
「あちらに寛大にしていただきませんと、こちらが困ります。王宮の廊下で剣を抜いたのを咎められないはずがないので」
 いまだに失神したままのリオンを視線で示せば王は首をかしげた。それからにんまりと、国王らしからぬ顔をする。
「誰も見ていなかったのではないかな」
「陛下」
「だって、目撃者はいないだろう?」
「いたでしょうが、さっきの貴族が」
「黙らせてしまえばいい」
「陛下!」
 さすがにカロルの声もきつくなる。けれどノキアスが、カロルの前歴を嵩にきて申し出をする愚か者に対して不快の念を抱いてくれていることは、本心からありがたかった。
「まぁ、そういうわけにも行かないね。だけれど、カロリナ。私は心から愚か者が不愉快だよ」
 あえて、口に出した。騎士たちから、そして兵士に、貴族に。あっという間に噂は広がっていくだろう。これでリオンが煩わされることも少なくなるはずだ。ほっとしてカロルは一礼する。
「あちらには謹慎を申し付ける予定だからね、カロリナ。リオンもそのつもりで。しばらくは星花宮で頭を冷やすように」
「は――」
 どちらも馴れ合いの処置だと知っていた。王とカロルの口許に笑みが浮かんで消える。深い礼を取ったまま、カロルは王の背中に感謝を送り続けていた。

 細い体でリオンを引きずり、星花宮に戻って行ったカロルを貴族だけではなく侍従から侍女、下働きに至るまでが呆気に取られた。
 もっとも失神中のリオンはそんなことは知らない。目覚めたとき、非常に腹具合が悪かった。胸もむかむかとする。
「まるで二日酔いですねぇ」
 のんびりと言って体を起こせば、唇をきつく引き結んだカロルが枕元にいた。
「カロル――」
「テメェ、何しでかしたか、覚えてんだろうな」
「えぇ……まぁ……」
「テメェは謹慎。一応、俺はテメェの師匠だからよ、お付き合いで謹慎中だ」
「……すみません」
「殊勝ぶってる暇があったら制御法を学べってーの。暴走するのは魔術師の恥だぜ。だいたいその程度の腕で暴走なんかしやがるからテメェの得物が実体化できねェんだ。他人のなまくら使わなきゃならねェようなみっともねェまねすんなよ」
「カロル」
「なんだよ」
「あの、怒られるのは、そちらですか」
 唖然としたリオンの顔など中々見られるものではない。カロルは不意に目元をほころばせる。それからくしゃりとリオンの頭を撫でた。
「テメェが俺の名誉とやらを守ろうとしてくれたってこたァわかってる。だがな、リオン。それでテメェが傷を負うのは見たくねェ。わかるか」
「……はい」
 しゅんとうなだれたリオンの頬に手を当て、カロルはその黒い目に見入る。真摯で誠実で、けれど時にはとんでもなく冷酷な男。
「厄介な野郎に惚れたもんだぜ」
 リオンの表情が明るくなる。何を言わせるより前にカロルは軽くその唇をついばんだ。
「ところで、カロル。何がどうなったんですか?」
 やっとリオンが尋ねることを許されたのは、それからしばらくの後。ずいぶんと心配をかけたのだろう。意外なほどに世話を焼くカロルの手が止まってからのことだった。
 事実とはとても思えないような出来事を聞かされて、リオンの目が丸くなる。確かに若い国王は、王としてはずいぶんとさばけたと言おうか洒脱と言おうか。若年ながらできたお方だと、リオンも思ってはいたが。
「でも、まさか」
「いや、ほんとに贈賄でしょっ引いたらしいぜ」
「でも、だって!」
「俺に金を払って自分のためになんかしろってェのは、まぁ、確かに贈賄だよな」
 もっともだ、と独り決めしてうなずくカロルに、リオンも言葉がない。呆気にとられたまま首を振り、からかわれているのではないかと惑う。
「なんと言いましょうかねぇ。ほとんどそれって詐欺じゃないですか」
「せめて言いくるめたと言え」
「どこが違うんですか。国王陛下ともあろうお方がねぇ」
「ボケ神官、考えても見ろ。ここはラクルーサだぞ」
「それが、どうしたんです?」
 にっと笑ってカロルが言う。まるで悪戯でも思いついたかのようだった。
「あとで師匠にアレクサンダー王の思い出話でも聞けよ。ノキアス王は、きっちりアレクサンダー明賢王の血筋だってことがよくわかるぜ」
 わかりたいようなわかりたくないような話だった。後日、リオンはその思い出話とやらを拝聴する機会を得た。
 リオンの中で英雄伝説が木っ端微塵になり、ノキアス王が身近になった。謹慎が解けたリオンがいそいそと彼の女神に語りかける姿が神殿で目撃されるのは、もう少し後のことになる。




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