魔術師の塔の跡地は、いまだ荒れ果てたままだった。フェリクスが、必死になって研究を進めてはいたけれど、そう簡単に解決策が見つかるわけでもない。
「だから手伝ってって言ってるじゃない!」
 王宮の、荒地に面した窓から甲高い叫び声が聞こえた。見上げたものがいたならば、肩をすくめたことだろう。すでに王宮の住人にとって、日常のこととなっていた。
「うっせェぞ、クソガキが」
「なにそれ。手伝うって言ったのカロルじゃないか」
「それが師匠にもの頼む態度か、馬鹿弟子!」
 カロル師弟の口喧嘩など、疾うに珍しいことではなくなっている。二人は以前から激しい口論を戦わせることも多々あったのだが、それでもかつては他人に聞こえるような場所で大声を上げることはなかったのだ。
 それだけ、変わったのだとも言えた。ある人にとっては伸び伸びと過ごしているように見えただろう。もっとも、大半の宮廷人にとっては、いささか傍若無人が過ぎる、ととられてはいたけれど。
「だってカロルがいけないんじゃないか」
「なに言ってやがんだ、馬鹿」
「カロルは僕を手伝ってくれるって言った」
「おう、言ったぜ。手伝ってんだろうがよ」
「どこが? 休憩ばっかじゃんか」
「テメェ! もういっぺん言って見やがれ!」
「いいよ、何度でも言おうか?」
「この馬鹿弟子! 師匠こき使うのなんざ、百年早ェ!」
「だって!」
「だってもクソもあるか! ちったァテメェで考えてから俺んとこ持ってきやがれ、この馬鹿が!」
「うるさいな! いいよ、カロルなんか!」
「勝手にしろ、馬鹿弟子!」
「勝手にするって言ってるもん!」
 売り言葉に買い言葉を放ちフェリクスは足音高くカロルの部屋から出て行った。これ以上ないほど乱暴に扉を閉めるのも忘れない。
「あの馬鹿が……」
 カロルは忌々しげに舌打ちをし、そして苦笑する。行き詰っている、八つ当たりをされるのも師匠の役目のうちだった。カロルの師であるメロールならばまた別の手段を取っただろうが、カロルにはこのようにしてフェリクスの疲れを取ってやることしかできない。
「ッたく」
 人の気も知らないで。言いかけた言葉が止まる。フェリクスは、わかっていてやっているのだろう。わかっているからこそ、甘えているのだろう。不意にそれに気づいたカロルの口許に笑みが深くなった。
「そろそろかなぁ」
 技量的には、フェリクスはすでに一人前の魔術師だ。あのような事件さえなかったならば自分の名を許してもいいころである。
 だが、フェリクスは事件の一端となってしまった。この分では今の宮廷人たちが代替わりするまでフェリクスは弟子の身分から離れられそうにない。早く彼を一人前と他者に認めさせたいカロルとしては悩みどころであった。
 そのカロルがふと顔を上げた。扉の外に誰かの気配。言い損ねた罵倒の一つも吐きにフェリクスが戻ってきたのだろうか。だが、扉が遠慮がちに叩かれたことでその思いは消えた。
「ちょっと、いいですか」
 扉から顔を覗かせたのは、リオンだった。カロルは何度か目を瞬かせる。それほど酷い顔をしていた。
「おう」
 返事をすれば力なくリオンが笑う。ぐったりと、疲れているように見える。何かを振り払うよう首を振っているのが気がかりだった。
「こいよ」
 カロルはソファに腰を下ろし彼を手招く。困ったよう、リオンは笑って近づいてきた。
 リオンはあのあとも王宮に留まり続けている。半ばは王の要請でもあったし、本人としては全面的に自分の意思だった。王からささやかなエイシャの祭壇を築く許しをもらい、今はそれがリオンの小さな小さな神殿だった。
「どうした?」
 隣に腰掛けたリオンだったが、言葉を発する気力もないようソファに体を埋めていた。カロルは彼の額に手を伸ばす。熱はないらしい。
「大丈夫ですよ」
「なに言ってんだ、ボケ」
「え?」
「どー見ても大丈夫って面じゃねェだろ」
 呆れ声で言って見せ、カロルはリオンの目を覗きこむ。黒い目がゆらゆらと揺れていた。
「……なんかやなもんでも見たか?」
 エイシャの神官は、人間の本質が見えるという。カロルにはよくわからない。ただ、性根が腐りきった人間はどこにでもいるもので、それが自分の目に現実として映ったならばどれほど気分が悪いものだろうか、とは思う。
「えぇ……」
 やはり、力なくリオンは笑った。目を閉じることもせず、ぼんやりとどこを見るでもなく視線をさまよわせていた。
「修行が、足りませんね」
 カロルの視線に気づいたのだろう、ようやく目を向けてリオンが言った。
「あん?」
「ほら、制御できるものだなんて、偉そうに言ったじゃないですか、私」
 神官としての視覚と、当たり前の現実とを、エイシャの神官はきちんと自分の意思で見分けているらしい。それも未熟なうちはかなわないのだとか。
「あぁ、言ってたな」
「だから、やっぱり修行が足らないんです」
「そんだけやなもん見たってことだろ」
「カロル……」
「あん?」
「あなたは、やっぱり素敵だなと思って」
 そっと言ってやっとリオンは目を閉じた。訝しそうなカロルの視線を感じているのは心地良かった。
 普通だったら、リオンはなんの意識もせず視覚を制御している。今回は、相手が悪かっただけだとリオンも思わないではなかった。それほど相手の本質は圧倒的だった。
 まるではじめてカロルを見たときのようだった。同列に語ったりすれば間違いなくカロルが怒るだろうから言いはしなかったけれど、あのときもリオンは意識してカロルを神官の目で視たわけではない。リオンの目に、飛び込んできたこの上ない炎。それがカロルだった。
「なに見た?」
 カロルの静かな声にリオンは思わず目を閉じたまま口許を押さえる。
「わりぃ。言いたくないか」
 黙って首を振ったけれど、言いたくないわけではない。思い出すだけで吐き気がする、とはカロルに伝わっただろうか。
 あれがどこの誰なのか、リオンは知らないし知りたいとも思わない。出来得ることならば二度と視界に入って欲しくはない。それほど酷い本質だった。同じ人間だとは思いたくないほどに。
「ボケ」
 罵っているのだか、優しく呼んでいるのだかわからないカロルの声。すっかり馴染んでしまった罵倒語が、リオンの呼び名になってしまっている。
「なん――」
 答えようとしたその瞬間、腕が引かれた。あっと思う間もなくカロルの腕に抱かれている。
「カロル……」
 温かい、彼の本質しか見えなかった。涼しい彼の本質が、ささくれ立ったリオンの心を慰めた。
「テメェは俺だけ見てろ」
 耳許で囁き声。少し掠れたカロルの声は、照れたせいだろうか。
「……はい」
 うっとりと呟くよう返事をしたリオンの髪をカロルは無言で撫でていた。
「こうしてりゃ、ちったァ楽だろ」
 腕の中に包み込む。自分の本質で彼の視界を満たしていく。カロル自身には、リオンが何を見ているのかなど少しもわからなかったけれど、少なくとも腕に抱いた彼の体から強張りが解けていくのだけはよくわかる。
「気持ちい……」
「やらしいこと言ってんじゃねぇぞ、ボケ」
「そんなこと、今は思ってないのになぁ」
「今はってとこが危ねェんだよ、テメェは」
 かすかにであってもリオンが笑い声を上げた。それがカロルの心を安堵で満たす。
「少し寝ろよ」
「膝枕してくれます?」
「野郎の硬てェ膝の何がいい」
「カロルがしてくれるから嬉しいんです」
 やけにきっぱり言ってリオンは体を離しカロルの翠の目を覗き込む。先程よりは、楽になったらしい。それを確認してカロルも笑みを浮かべた。
「うっせェぞ、ボケ」
 言いつつカロルはリオンの腕を引いた。されるがまま、と言うよりはむしろ嬉々としてリオンが膝に頭を乗せる。
「カロル」
「あん?」
「嬉しいです、私」
「黙れ。クソボケ」
「はい」
 照れ隠しに頭を一つ叩かれた。リオンはカロルの膝に顔埋めて忍び笑いを漏らす。カロルは外見こそ、優しげな女のようではあったけれど、体格は間違いなく男性のものだった。彼の膝枕は、女の太腿のよう丸みもなく柔らかくもない。引き締まった固い男の足だった。張り詰めた筋肉に頭を乗せてリオンは憩う。
「寝れるか」
「えぇ、まぁ」
「……寝かしてやろうか?」
 ぽつりと呟かれた声にリオンはぴくりと体を動かし、次いで笑い声を上げる。
「おいコラ、クソ坊主。テメェ、いま何考えやがった!」
「うーん。カロルがいま想像したようなことを、ですかね」
「うっせェぞ、ボケ」
 不機嫌そうに言ってカロルはリオンの頭を戯れに殴りつけた。痛そうな声を出すでもなく、飄々と笑い続けているのが忌々しい。
「カロル。ベッドに行こうとは言いませんから、寝かしつけてもらえませんか?」
「だから俺はそんなこと言ってねェって言ってんだろ!」
「はいはい。言ってませんよ、あなたはね」
「テメェ……!」
「カロル。お願いですから。少し眠らせてください」
 普段の口喧嘩めいた言葉遊びだった。だが、カロルはリオンに見えない彼の頭上で眉を顰める。冗談にしては、リオンの声音はいささか真剣みがありすぎた。
「行くぞ?」
「はい」
「じゃな」
 どこか嬉しそうなリオンの声。カロルはリオンを魔法の眠りへと落とし込む。術者が解くまで目覚めることのない眠りは、あまりにも深いがために確かに精神の回復には適している、とは言えるかもしれない。
「ッたく」
 なにに対して罵るのかもよくわからないままカロルは声を上げ、膝の上で規則正しい寝息を立てるリオンの髪に指を滑らせ苦笑した。
 そして真言葉の響きと共に小さな身振りをすれば手元に重たい魔道書が飛んできた。カロルはそれを受け止め小さく舌を出す。膝の上で眠る男の他は誰もいないというのに、あたりを見回し肩をすくめた。
 フェリクスにはああは言ったものの、カロルに彼を手伝う気がないわけではない。ただ、償いである以上、フェリクスがある程度以上のことはすべきだと考えているだけだ。
 元々婉曲なやり方と言うのは好みではない。まわりくどくて嫌になってくる。遠くから見守って導くなど、柄ではないと自分でもカロルは思うのだ。
「面倒くせェ」
 舌打ちを一つ。そして魔道書に視線を落とした。内容は無論、暴走した魔力に関するものだった。荒地を回復させるきっかけになればいい、と読み込んでいるのだが、中々理解ができない。
「んー。師匠に聞くか……?」
 語句の意味すらも理解が及ばなくなってくるとさすがにカロルの口からも泣き言が漏れる。メロールから借り出した本は、リィ・サイファの蔵書だったという。それも元をたどれば魔術師の祖、リィ・ウォーロックの手になるものだというから、カロルにとってはあまりにも古い言葉を使った文章で通常言語であるにもかかわらず、読み取りにくくてかなわない。溜息も出ようというものだった。
 だが、これが理解できれば、フェリクスの助けになるかもしれない。今カロルはそれに賭けていた。休憩ばかり、とフェリクスは罵るけれど、体を動かしてどうなるものでもないのだから、研究が先だと考えているだけのこと。
「けっ」
 問題は、それをどうフェリクスに伝えるか、だ。読めと言って自分が難儀した本をいまだ未熟な彼が読めるわけもなく、かといって一から十まで講義をしたのでは彼の償いにならない。
「ッたく、面倒な」
 問題が山積み過ぎて、頭痛がしそうだった。手慰みにリオンの髪を撫でる。手に快い感触だった。同じ黒髪なのに、フェリクスのそれとはずいぶん手触りが違う。そんなことを思って口許を緩めたカロルが、ふと顔を上げた。
「どうぞ?」
 扉の前に誰かがいる。感覚を凝らせば誰かくらいわかるのだが、そうする必要もない。カロルの声と共に扉が開いた。
「少しいいかい?」
「師匠! いいですよ、もちろん」
「あ……」
 膝の上のリオンに目を留めたメロールの頬が赤らんだ。カロルは苦笑いをして彼に言う。
「ちっとばかし目障りでしょうけど、気にしないでください」
「ああ……うん。いいけど。寝てるの?」
「なんか嫌なもん見たって言ってましたよ」
「大変だね、神官と言うのも」
「まったくです」
 言いつつメロールはソファに腰を下ろしかけ、そしてカロルを窺う。
「なんすか」
「ちょっと聞きたいことがあってね。お茶でも淹れようか」
「あ、俺が」
「いいよ、寝てるんだから」
 リオンを下ろそうとするカロルを制しメロールは茶の支度をする。不思議なものだった。カロルの部屋にある、カロルが普段使っている茶葉だった。それなのにここまで香りが違う。リオンに飲ませてやったら喜ぶだろう、とは思ったけれどカロルは彼を起こしはしなかった。
「それで。なんすか」
 熱い茶に感謝してカロルは魔道書を横に置く。言い難そうなメロールを見ている限り、あまり愉快な話題ではなさそうだと見当がつく。だがしかし、あるいはメロールにとって愉快ではない話題、なのかも知れない。
「よく寝てるね」
 ふとリオンを見てメロールは言った。それでやはりカロルは想像があたっていたことを知るのだ。半エルフにとって、他人の関係に口を出すのは気分のいいものではないらしい。まして色恋の仲ならばよりいっそう。
「まぁ、疲れてんのもあるでしょう」
 言ってカロルはわざとらしくリオンの髪を撫でて見せた。途端にメロールの頬が赤くなる。いささかやりすぎたかとカロルは反省した。
「起きない?」
「大丈夫ですよ」
「そう」
「それで、なんです。師匠」
「ちょっとね……不思議だったんだ」
 メロールは赤くなってしまった頬を手でさすっている。なんだか妙に可愛らしい仕種で、かえってカロルのほうが照れくさくなってくる。
「なにがです」
「うん、そうだね……。よくお前がリオンを選んだな、と思って」
「え……」
 そのようなことをメロールが言うのこそ、不思議だった。リオンとメロールはうまくいっているらしい。警戒心の強い半エルフが、易々と馴染んだのだから、それはリオンの人徳と言うものだろうとカロルは思う。性格的にはかなり難がある男ではあるが、リオンとはそういう男でもある。
 そして半エルフが他者の色恋に口を出すのがまた、不思議だった。一番弟子と自他共に認めるカロルにでさえ、アルディアと共にいるところを見られるのを嫌がるメロールが、そのようなことを言うとは。
「そんな変ですかね」
 苦笑の影がカロルの口許に浮かぶ。それを見て取ったメロールもまた、苦笑いを浮かべていた。
「変と言うより。不思議だね」
「そうですか?」
「リオンがどうのと言うんじゃないんだよ」
「あぁ……」
 ようやく言いたいことがわかった。メロールを見ればやはり、目をそらしている。
「よく男を側に置く気になったなってことですか」
「まぁね」
 直接的な言葉にメロールが必死になって堪えていた。カロルは半エルフというものは想像力が豊か過ぎるのではないか、と時折思う。何も色恋から一足とびに寝室のことまで想像してしまうこともないだろうに、と。
 だがカロルの考えは間違っている。メロールを始め半エルフは何もそのようなことを考えて照れるわけではないのだ。親密な関係、というものが恥ずかしくてならない、それだけのことであった。
「師匠。俺はね、ちょっと長かったんですよ、フェリクスよりね」
「それは?」
「あいつはまだ子供のうちに逃げ出した。俺は違った、そういうことです」
「わからない」
 どうやら遠まわしすぎたらしい。半エルフの感情を慮って言った言葉だが、メロールには通じなかった。諦めてカロルは話し出す。
「俺はね、男の自我が目覚めてからも客とってたんですよ」
 眠るリオンの髪に手を置いていた。思い出すだけで屈辱が蘇る。それも膝の上に温かい体があるだけで、ずいぶん慰められた。
「子供の時はね、つらい悔しい苦しい、それだけです。男になっちまえばそれだけじゃなくなる。わかるでしょ」
「……そんな」
「俺は快楽も知っちまってるんですよ。余計に悔しいだけですけどね」
 カロルはそれを穏やかな顔をして言った。視線はリオンの寝姿に落とされたまま。淡々と、けれどまるで無感情と言うわけでもなく。メロールが口を開いたのは、しばらく経ってからのことだった。
「ごめん、カロル」
「いいですよ、昔のことだ」
「だったらどうして……」
「こいつを?」
「そう」
 メロールは不思議でならなかった。それほどつらい経験をした後に、なぜ同性を側に置くことができるのだろうか。そもそも半エルフは男性体でしか生まれない。性別というものに関する認識があやふやであった。だからメロールはカロルが誰かを側に置くことができたこと自体を、不思議に思っているといったほうが正しいのかもしれない。ずっとそれを望んでいたにもかかわらず。
「なんて言ったらいいかな。参りましたね」
 苦笑してカロルが視線を上げた。細められた翠の目は、どこか謝罪を含んでいるようでメロールは気が気でなかった。
「俺、女だめなんです」
「はい?」
「野郎に乗っかられねェと勃たねェんです」
「カロル!」
「んなこたァ、俺だって言いたかねーですよ。はっきり言わねェとわかんねェのは師匠でしょうが」
「それは」
「あの商売が長かったせいでしょうよ。乗っかられねェとだめな体になっちまいました。だからボケを選んだわけじゃないですけどね」
「そうなの」
「そうですよ。半エルフにこんなこと言うのもなんですけどね。体の相性がいいのは確かですよ」
 メロールは罵ることも忘れて耳まで赤く染めていた。カロルはそんな師をにやりと見やり、ついで大きく笑った。
「こいつは、俺を待っててくれるんです」
「どういうこと」
「指図もしなきゃ強制もしない。黙って俺が進むのを見ててくれるんです。気がつきゃ、惚れてましたよ」
「カロル……」
「ねぇ、師匠。アルディアのどこが好きなんです?」
「カロリナ!」
 ようやく元に戻った頬に再び血が上る。半エルフ特有の白い肌に血の色が差しているのは存外に綺麗で、まるで人間のうぶな青年のようだった。
「んなに怒んなくったっていいでしょうに」
 赤くなった理由を無理やり別の解釈で捉えて見せれば、メロールが困った顔をして目をそむけた。その目許にだけ、感謝を浮かべて。
「半エルフだろうが人間だろうが、誰かに惚れるときなんてそんなもんじゃないですか。こいつを側に置く理由なんて、たいしたもんじゃないですよ」
「カロル?」
「一緒にいたいからいる。それだけです」
 視線を戻したメロールは、晴れやかな愛弟子の笑みを見る。心の奥が温かくなった。フェリクスもカロルも、己の過去を乗り越えて一回り大きくなろうとしている。
 人間とは、やはり不思議な生き物だった。フェリクスを連れ戻しに行ったたったあれだけの短い期間でカロルはずいぶんと大人になった。そう言えば、きっとカロルは呆れ果てることだろう。人間としてはすでに成熟を迎える年齢だ。
 だが、成長はどこまでも続く。生きている限り続くと言っていい。だからカロルはまた一つ階段を上ったのだ。いい顔をするようになった、そう思えばメロールはやはり、嬉しかった。
「そうか」
「はい」
「よかったね、カロル」
「なんですか、急に」
 言ってカロルは目をそらした。突然に祝福されるなど、腰が落ち着かなくていけない。別段、今までだとて疎外されていたわけではないのだが、なぜか急に認められたような気がしてしまった。
「別に。可愛い弟子が幸せでよかった、と思ってね」
「師匠!」
 珍しいメロールの冗談のような言い振りにカロルは声を荒らげる。かえって、照れてしまったせい。メロールは笑って手を振り立ち上がる。
「じゃあね。あぁ、そうだ」
「なんすか」
「フェリクス。泣き喚いてたけど?」
「あぁ……」
 思わず呻き声を上げてカロルは頭を抱えた。そこそこいい年をして、人前で駄々をこねるなどどういう了見だ、とカロルは内心で激しく自らの弟子を罵っていた。
「どうやらお師匠様を盗られて拗ねてるだけみたいだね」
「笑わないでください、そこで」
「いいじゃないか、それくらい。いいよ、しばらく私が面倒みようか?」
「いいですよ、馬鹿弟子は俺の弟子です。勝手に泣かしといてください。そのうち泣き疲れて俺んとこ戻ってきますから」
「自信家だね、カロル」
「師匠譲りってとこですかね」
 ちらりとメロールの顔を窺う。揃って苦笑をかわした。
「それじゃあね。あんまり無理するんじゃないよ、カロル」
「わかってますよ、大丈夫ですって」
「どうだかねぇ。まぁ、リオンがいるから平気かな?」
「師匠!」
 珍しい半エルフのからかいにカロルは声を荒らげ拳を振り上げる。そんなカロルの態度をメロールは意に介した様子もなく笑い、手を振って部屋から出て行った。
「ッたく。あのクソ爺め」
 メロールの後姿を見送ったカロルは、口調とは裏腹に微笑んでいた。ゆっくりと眠るリオンの髪を撫でる。それからふっと口許を緩めて彼の髪を引っ張った。
「おいコラ、ボケ」
 身じろぎもしない彼をカロルは密やかに笑う。もう一度、今度はきつく髪を引っ張る。それでもリオンは動かなかった。
「テメェ、起きてんだろうが」
 体をかがめ、わざと耳許で囁いた。
「うーん、気づいてました?」
 眼前で、困ったようリオンが笑っていた。
「仮にもテメェの師匠だぞ、俺は。騙せると思ってんのかよ?」
「まったくですねぇ。甘かったなぁ」
「けっ」
 カロルは最初から、気づいていた。リオンが魔法に抵抗したこともかかったふりをして眠ったことも。以前の彼ならば、憤ったことだろう。だが、それをリオンが望むならばそれでいい、いまのカロルはそう思うことができるようになってた。
「ちったァ、楽んなったかよ?」
「えぇ、ありがとう。カロル」
「うっせェ、ボケ」
「えぇ、私もあなたが好きですよ」
「んなこたァ言ってねェ!」
 そんなカロルをリオンはくすりと笑い、すぐ側にある彼の金髪に手を伸ばす。涼やかな手触りは、いつもリオンを楽しませた。
「おかしいですよね」
「なにがだよ?」
 実に不思議そうに言うカロルをリオンは心から笑う。本人が少しも気づいていない風なのがたまらなかった。
「あなた、メロール師にはあんなに素直に私を好きだって言うんですね」
 潜められた声。囁きの大きさ。それなのにカロルの耳にははっきりと聞こえた。かっと頬が熱くなる。思わず髪を撫でるリオンの手を払い、返す手でリオンの頬を殴り飛ばす。が、あっさりと掴まれ気晴らしにもならなかった。
「いいなぁ、メロール師」
「うっせェぞ、ボケ」
「カロルが好きですよ。あなたは?」
「うるせェって言ってんの」
 ふいと顔をそむけたカロルの耳までが、赤らんでいた。リオンはそれを満足げに見やる。
「カロル」
「うるせェなぁ。そんだけ元気んなったんだったらもういいだろ。遊んでやっからどけよ」
「え。なにしてくれるんです?」
 わざとらしく目をきらきらとさせて見せるリオン。つい、カロルは吹き出した。
「剣と魔法。どっちがいい?」
「そうですねぇ」
「煮え切らねェ野郎だな。いいよ、俺が決める」
 いまだ膝の上に横たわるリオンにカロルは視線を戻しにたりと笑う。視線と視線が絡み合う。リオンの手が伸びたのと、カロルがかがんだのと、どちらが先だっただろうか。いずれでも同じことかもしれない。優しく重なった唇が、音を立てて離された。
「それで、カロル?」
 淡い金の髪を指先でリオンは梳いた。さらさらと指の間を滑っていく。
「とりあえず……」
 ちらり、カロルの視線が続き部屋へと向いた気がした。リオンは口許をほころばせカロルを見つめた。
「それはちょっと早くないですか。まだ真昼間――」
 横たわったリオンの腹に落ちる重たい拳。カロルは言葉もなく怒りと羞恥に震えていた。
「うるせェ、クソボケが! 誰がんなこと言ってんだ! 決めた。いたぶる。苛め抜く」
「カロル、そんな。ちょっと待って!」
「うっせェ。待たねェ。行くぞ、ボケ」
「うーん。怖いなぁ、どこへです?」
「決まってんだろ、呪文室だ!」
 乱暴にリオンを膝の上から落としてカロルは立ち上がる。ぶつぶつと文句を言うリオンの声を背中で聞きつつ、カロルの肩は震えていた。笑いに。




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