二人は珍しく王宮にいなかった。それどころか王都にすらいなかった。ラクルーサ北部辺境、ほとんど右腕山脈の影に入る土地にいる。
「よくきたねぇ。実に久しぶりだ」
 にこやかなエイシャの司祭に迎えられて。老齢の司祭は、この辺境の小さなエイシャ神殿の主だった。規模の小ささから、神殿長とは呼ばない。それほど小さな神殿だった。
「はい、お久しぶりです。ご無沙汰をしてしまって」
「なに、元気でいることはわかっていたよ、言うだろう? 便りがないのは元気な印とね」
 言いながらわずかに目を細めた司祭の表情に、やはりリオンは心配をかけてしまっていたのだと悟る。だから黙って頭を下げた。
「そんな顔をするものではないよ、リオン。いいから入りなさい。お茶の支度をしてあげようね。そちらの人も」
 どこから見ても温和な司祭そのものの老人に、カロルは曖昧な顔をして微笑む。できるだけ穏やかに、と心がければ、そのような表情になる。
「司祭様」
 とっくに老人の位階を追い抜いてしまったリオンだった。それでも彼は司祭をそう呼ぶ。
「あの、この人がその。なんと言いましょうか、えっと」
 照れていた、リオンが。普段から茫洋とした男ではあるが、今日は人が変ったように素直だ。いつもならば彼の照れたりぼんやりしたりする顔は目くらましの一種だ、とカロルは知っている。それが意外だった。
「わかっているよ、リオン。お前の伴侶だね。うんうん、見ればわかる、わかる」
 からりと言われてカロルは口をつぐんでいることが難しくなりそうなほど、脱力した。
「さすが……」
 思わず呟いてしまった声をリオンに聞かれた。リオンもまた情けなさそうな顔をしてカロルにうなずく。
「やっぱり育ての親には勝てそうにないです」
 この辺境の、小さな神殿の司祭が、リオンの育ての親だった。幼いとき神殿に引き取られたリオンを我が子のように可愛がってくれたのだ、とリオンは言った。
「それで、ご挨拶に行きたいんです、あなたに会って欲しくって」
 王宮でためらいがちに申し出たリオンにカロルは一も二もなくうなずいた。リオンのささやかな望みならば叶えるに吝かではない。
 そうして訪れた辺境の神殿だったが、やはりと言おうか案の定と言おうか、リオンの育ての親だけはある、とカロルは内心で思っている。
 カロルは育ての親も産みの親もよくわからない。育ての親と言うならばメロールかとも思う。娼家で働いていたときの主人は親とは言いがたいだろう。
 だが、メロールにしても相手は半エルフだ。通常の意味で育てられたとはやはり、言えない。
 羨ましいとは、思わなかった。ただ、リオンとその育ての親を見てみたかった。けれど見てしまえば、和やかな家庭など、想像したわけではなかったけれど、どことなく溜息のひとつも出ようと言うもの。
「えっと、司祭様。改めて。この人が私の伴侶で、カロルと言います」
 照れながら自分を紹介するリオンに、カロルは心の中に温もりを感じた。こんな自分を正面きって伴侶だと呼び、それを受け入れる人間がいるとは思ってもみなかった。
「……はじめまして、司祭様。カロルです」
 あまりにも温和な空気に、わずかにカロルが口ごもる。それを楽しむよう司祭が目を細めてうなずいた。
「司祭様?」
 さすがに養い子だった。リオンのほうが司祭の表情に気づくのが速い。首をかしげて司祭を見やれば、老人はにやりと笑う。どことなくリオンに似た表情だった。
「黒衣の魔導師は意外にもおとなしい方だねぇ、リオン」
 言った瞬間、カロルが飲んでいた茶を吹き出しそうになった。リオンはとっくに吹いている。それに顔を顰め司祭は布を放ってよこす、綺麗にしろ、と言うことらしい。
「司祭様!」
「なんだね、リオン」
「どうして――!」
「困った子だねぇ、リオン。私も最愛のエイシャの司祭なのだがね。女神御自ら黒衣の魔導師の襲来を警告してくださったものだから。ずいぶんと警戒していたよ」
「襲来って……」
 がくりと肩を落とすリオンに、怯えていたのだと司祭は笑う。そんな二人の前、ことりとカロルが茶器を置いた。
「司祭様、ちょっと失礼」
 カロルにしては、にこやかな顔をしていた。リオンはその奥にあるものを見て取る。おそらくエイシャの神官などでなくとも感じ取れる炎のような怒りを。
「テメェ、このボケ坊主が! テメェの女神はなんだ? 俺で遊んでやがんのか!? 襲来ってなんだよ、襲来ってよ! 俺はそこらじゅう破壊しまくる馬鹿か? 女神はテメェの神殿ぶっ壊されるとでも思いやがりましたかね! あん? なんか言え、このうすらボケ!」
「いやぁ、別に挨拶に来る、と教えてくださっただけじゃないかと思いますけど」
「だからなんでそれが襲来なんだよ!」
「それはまぁ、話の種になるから、でしょうねぇ。なんといっても我が女神ですし」
「そこがおかしいんだろうが! テメェの女神は話の種になるんだったらなんでもすんのか!」
「私もちょっとそうじゃないかなぁ、と思いますけど。大体ね、黒衣の魔導師っていったのもきっとあれですよ」
「なんだよ!」
「私たちが来るよって仰りたかっただけですよ」
 にこり、リオンが笑った。騙されてなるものかとカロルは愛しい男を睨み据える。わななく拳に目を留めてリオンがそっと笑いを深めた。
「あのね、カロル。女神に私たち個人の区別がつくと思いますか?」
「あん?」
「人間なんてちっぽけなもんです。区別なんかつきゃしませんって。それに言わせていただければ、私とあなたは、最愛のエイシャの祝福を授かった、清く正しく立派などこに出しても恥ずかしくない、伴侶、です。エイシャ女神の御目には、同じものに見えてるんじゃないかと思いますよ」
 にこにこ笑ってさらりととんでもないことを聞かされた気がする。ちらりと司祭を見やれば、リオンの言葉こそ正しいと言わんばかりに微笑んでうなずいていた。
「俺は女神の玩具か!」
 伴侶と言う言葉。言葉以上のもの。エイシャの神官に言わせればその本質。一般的な言葉に直せば、魂。
 魂を分かち合い、運命をともにし、手を携え隣で生きていく。それを女神が許してくれていた。
 カロルの指が震える。目をそむけたくなるこの気持ちをなんと呼ぶのだろう。
「ふざけんじゃねェぞ、コラ!」
 一瞬にして出現させた炎の剣。柄を握り締めリオンと対峙し、はじめて言葉が見つかった。
 ――歓喜。
 喜びのままにカロルは歯を剥く。リオンはそれを過ちはしなかった。彼もまた瞬時に出現させたハルバードをもってカロルに向かう。
 司祭の居室はいかにも狭い。切りあい飛び退りながらどちらが扉を開けたか。司祭が温顔で眺めているのが不自然なほど、激しい戦闘だった。
 どちらの武器も魔法によって現されたものであった。それなのに打ち合えば金属の音。否、それよりずっと涼しい音がする。
 ゆっくりと立ち上がり、司祭は庭に出た。二人は何事かを言い合いながらまだ戦っている。
「よい伴侶を見つけたね、リオン」
 呟き声が聞こえたのはどうやらカロルのほうだったらしい。優しい顔の司祭に厳しい目を向け吐き捨てる。
「このボケを見つけたなァ俺ですよ!」
「やだな、カロル。とっ捕まえたのは私ですよ」
「うっせェぞコラ。黙れボケ!」
 他愛ない罵声を交わしつつ、打ち合う。言葉より、会話だった。生きることは戦うこと。そう定義するエイシャの神官の目に鮮やかな戦いだった。
「これは素晴らしい歌になるね」
 くすりと司祭が笑う。咄嗟に振り返ったのは、今度はリオン。開け放たれた神殿の扉を見ていた。
「いやぁ、なんともはや、偶然に、偶々、実に珍しくここに吟遊詩人が」
 扉の向こう、吟遊詩人がいた。目をきらきらさせて二人の戦いを見ている。歌にするつもりなのは、明日の日が昇るように明らかだった。
 戦いの様子を手元も見ずに書きつけ、その場で歌を作っているのか口ずさむ。書きつけを放り出したか思えばリュートを手にする。
 嘯く司祭にも吟遊詩人にも毒気を抜かれたカロルが剣を解放した。打ちかかっていたリオンが呆気にとられてカロルに傷を負わせかねないほど唐突に。寸前でハルバードを止めたリオンが大袈裟に溜息をつく。
「危ないでしょうに、もう」
 その危ないことを楽しんでやっていたのは誰だと言わんばかりの目を向けカロルは肩をすくめる。それからきつい目をして司祭を見た。
「ちょっと伺いますがね、司祭様」
 はいはいなんでしょう、リオンの声が聞こえた気がした。司祭は彼がそう言うときとまったく同じ顔をしてカロルを見ている。
「愛すべきエイシャは吟遊詩人からの尊崇も篤いとか」
「えぇ、まったくそのとおり」
「……実にステキな偶然もあったもんだぜ。さすがテメェの親代わり。テメェの女神」
 長い溜息は誰に向けたものだったのだろう。思いきり吐いた吐息は天に向けられていた。
「私もちょっと、脱力気味です。うぅん、まだまだだなぁ。司祭様の掌の上って感じです」
「それは年季と言うものだよ、リオン」
「ですねぇ、精進しなきゃ」
「それ以上ボケてどうすんだよ! わけわかんねェ精進なんかすんじゃねェ、捨てんぞコラ」
 すっかり猫をかぶる気をなくしたカロルが普段どおりの罵声を吐く。それこそを褒めるよう老司祭がにっこりと笑った。
「そのほうかずっとあなたらしいのでは、黒衣の魔導師殿? なぁに、遠慮さなることはない。可愛い養い子の伴侶ですぞ、それだけで充分だ、私には」
 珍しいことだった。メロールがこの場にいれば、拍手喝采したことだろう。カロルが、言葉に詰まっていた。
「やっぱ、テメェの育ての親だわ。つか、テメェのわけわかんなさは親譲りか。妙なところで似やがったもんだぜ。あぁ、もう面倒くせェ。帰るぞ、リオン!」
 吐き捨てる語調に力がなかった。覇気がない理由をリオンは知っている。おそらく司祭も。それでもリオンはあえて口にした。
「まったく照れちゃって。可愛いなぁ。あ、カロル! 待ってくださいってば! 司祭様、また遊びにきますね、この人と一緒に」
「あぁ、待っているよ、子供たち」
 ひくり、とカロルの背中が震えた。振り返りもせず、カロルは何かを司祭に放り投げる。
「土産ですよ、忘れてた」
 それだけ言って、今度こそカロルは歩き出す。その背中を目で追いながらリオンは微笑んで言う。
「星花宮特製の強壮薬です。疲れたときに一口飲んでみてくださいね、効きますから」
 司祭が目を丸くするのにリオンも手を振る。司祭が薬瓶をしっかりと握り締めたのにリオンはうなずき、待っていたカロルの元へと走る。
「おやまぁ、長生きすると人生は面白いねぇ」
 あっという間に姿のかき消えた二人に司祭は呟いて、笑った。




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